ブック・レビュー(6)


 ポール・クルーグマン
 経済政策を売り歩く人々
 エコノミストのセンスとナンセンス
(伊藤隆敏・監訳/日本経済新聞社/本体2,427円)

◇この本がアメリカで出版されたのが1994年で、この日本語訳が出たのが1995年のことです。つまりこの本が出たのは、日本経済の長期にわたる「停滞」が世界から注目を集めるようになる前のことです。しかも、そうした世界からの注目の中でもとりわけ鋭い切り口から実に適確な問題提起をして来た経済学者がほかならぬこの本の著者であるポール・クルーグマンだったわけですから、なんでいまごろこんな「昔の本」を取り上げるんだ、と思われるかもしれません。もちろんここでこの本を取り上げるには理由があります。それは、アメリカにおいてと同様日本においても、新古典派経済学というものが純経済学のフィールドにおいてのみならず、「構造改革なくして日本経済の再生なし」というような現在の経済世論のレベルでも「主流」を形成しているように見受けられること。にもかかわらず、そうした新古典派経済学の登場とその背景を、門外漢にも分かるように、しかも経済学のポイントを外さずに書いてくれている啓蒙的な本がこの本以外にほとんど見当たらないこと、これです。このあたりに日本における経済学の弱さや「後進性」を感じるのは当方だけではないように思いますが、いかがなものでしょうか。

◇もし現代経済学と言えるものがあるとすれば、それはケインズに始まったと言って構わないはずです。そしてケインズ経済学がアカデミックなレベルにおいてのみならず、政府レベルの経済政策においても大きな影響力を持ったのもアメリカにおいてでした。つまり、1929年に始まった世界恐慌への政府レベルの対応が、「ニュー・ディール政策」として推進されたのがアメリカにおいてだったわけです。これは「ネップ(新経済政策)」の「挫折」を受けて強行されたスターリンの五ヵ年計画に少し遅れて採用された、一種の「国家社会主義」的経済政策であったと言えるはずです。現にルーズベルト政権のブレーンになった「ニュー・ディーラー」と呼ばれた人々は、ルーズベルトの死後「アカ」と見なされて政権中枢から「追放」されております。日本においては占領軍の民生局の中心にあって、日本国憲法を作ったり様々な戦後改革を推進した人々が「ニュー・ディーラー」と呼ばれた人々でした。もちろんこれらは経済政策にとどまらない社会的諸政策だったわけですが、こうした一種の「社会主義的」傾向を持った政策の「元凶」と見なされたケインズ主義が、保守派の経済学者たちの攻撃の的になったのは当然の成り行きであったと言えそうです。

◇こうしたことはポール・クルーグマンのこの本には書かれておりませんが、ルーズベルトからアイゼンハワーに至る時代に、それまで整備されていなかった様々な社会保障・保険制度や累進税制などが確立していることは間違いないだろうと思われます。これらの制度は景気の過熱や深刻な景気後退を緩和せしめる「ビルト・イン・スタビライザー」と言われています。つまり、1930年代の大恐慌が自由放任的資本主義経済の「市場の失敗」に起因しているものと見なされ、これを最小限に抑えようというマクロ的施策として制度化されたものであったわけです。1960年代によく言われた「柔構造社会」の核心を成しているものこそ、これらの「ビルト・イン・スタビライザー」とケインズ的金融・財政政策によるマクロ安定化であったはずです。因みに言えば、こうした「柔構造社会」の成立が、新左翼的な「攻撃型階級闘争」という発想を生み出した前提でもありました。つまり、それまで大衆蜂起の条件とされていた深刻な不況や恐慌が資本主義の制度的・政策的対応によって起りにくくなってしまったわけだから、プロレタリアートと革命党の恒常的な攻撃によって「革命的情勢」を作り出して行こうというわけです。しかし、こうした行き方が超主観主義的でマンガチックな「前段階武装蜂起⇒世界革命戦争」路線を生み出して行ったことは周知の通りです。

◇ともあれ、ケインズたちの努力によって、マルクスやレーニンの時代のような周期的な恐慌をともなう資本主義は過去のものとなったと言うことができるわけです。しかし、こうした20世紀中葉以降の「国家社会主義」的ないし「国家資本主義」的な経済社会のあり方が、自由主義的な行き方を旨とするアメリカ的な保守の反発の対象とされたのもまた自然の成り行きでした。ここにいわゆる「ケインズ革命」に対する「反革命」が生まれて来る根拠があったわけです。この「反革命」から冒頭に述べた新古典派経済学が生まれて来るわけですが、ポール・クルーグマンがこの本で述べていることこそ、まさにその歴史的・学的経緯にほかなりません。しかしともあれ、ケインズ主義的介入主義が、資本主義経済につきものだった周期的な恐慌の到来を過去のものとしたという「事実」、そしてそれによって経済の安定的な成長軌道が作り出されたこと、更にはまたそれによって巨大な中間層が生み出され、いわゆる「大衆消費社会」が成立したこと、これらは是非とも押えておかなければなりません。また、そのことが逆に70年代以降の経済成長の「阻害要因」として現われているように「見えた」にしても、60年代的な「豊かな社会」が形成されるに当たって決定的な役割を果たしたケインズ主義的介入主義に対する「反動」として新古典派経済学が生まれて来たという事実、これも押えられなければなりません。

◇以上を踏まえてポール・クルーグマンの『経済政策を売り歩く人々』に入って行きたいと思います。このかなりジャーナリスティックな日本語タイトルを見て、これは出版社が勝手に付けたものだろうと思っていたら、原題も"PEDDLING PROSPERITY"(売り歩かれる繁栄)となっており、もともと新自由主義的に理解された新古典派経済学への攻撃や論戦を意図した一般読者向けの経済本であることが分かります。ここに言う新自由主義とは1980年代以降の反規制、反社会保障、反税制、反公共事業等々の、つまりは日本風に言えば「構造改革」と「規制廃止」と「競争促進」と「自己責任」を旨とする経済的保守主義にほかなりません。それにしてもこういう内容の啓蒙的経済本が出版されるアメリカ経済学の層の厚さとレベルの高さには羨望を禁じえません。日本人が書いた本でこういう傾向の本を捜すと、「反グローバリズム」だの「反アメリカニズム」だの「反市場主義」だのといったような、政治的で煽情的で反経済学的で、つまりは読むに値しない駄本になってしまうわけですから。こうした日本の現状がどこから来ているのかはともかくとして、われわれとしてはなによりも日本における「経済学の貧困」を問題にしたい。それでも最近になって野口旭の『経済学を知らないエコノミストたち』や竹森俊平の『甦る経済論戦』といった啓蒙的経済本が出るようになったのだから、よしとしようか。

◇内容に入りますが、ここでお断りしておきますと、当方この10章から成る本の第5章をやっといま読み始めたところだということです。つまりレビューなどを行なう資格がまったくない状態でこれを書いているということです。しかし、この本は第1章から第3章までが様々な保守派経済学(=反ケインズ経済学)の紹介、第4章以下が保守=共和党政権時代(1981〜1992)におけるその現実のパフォーマンスの評価という構成になっており、当方の関心が新古典派経済学の中味にあるかぎり、言えることも色々とあるはずだと思うわけです。さて、クルーグマンは「マジシャンを求めて」と題された序章を、1940年代末から1972年頃にかけての期間のアメリカで、労働者の実質所得、一般家庭の実質収入、国民一人当たりの消費などが、すべて2倍に膨れ上がったという事実から始めております。しかしながら、この「マジック・エコノミー」そのものが1973年頃に消え去ってしまい、「1991年度の一般家庭の実質所得は1973年時に比べて5%しか上昇しておらず、しかもその上昇分は労働時間の延長によって増加したものであることがわかった。つまり、ほとんどの労働者は、1973年時点より低い可処分所得しか得ていないことになる。」(P.4) これはデフレ不況下のいまの日本の話ではないのですから、つまり潜在生産量が年率で約2.5%上昇していた時期のアメリカの話(P.28)なのですから、「将来の楽観的な期待感の喪失とともに、人々の心理の悪化」(P.4)は極めて深刻なものがあったことが分かります。

◇ここから、「マジック・エコノミーがなぜ消え去ってしまったのか、またどうしたらそれを呼び戻すことができるのか」(P.6)ということが(経済学者にとって以上に)政治家にとって切実なテーマになって来るわけです。しかし「彼らの仕事は、必ずしも正解ではないにせよ、彼ら政治家が物事を少しでも良くできるということを選挙民に説得できるような答えを探し出すことにある。」(同) こうして彼ら政治家は「マジックを起こせる新しい人材を探そうとするであろう。」(同) つまりクルーグマンのこの本は、こうして政治問題と化した経済的アイディアの「掘り出し」や「売り込み」をたどった本でもあるわけです。日本では「官庁エコノミスト」と呼ばれるテクノクラートたちが、内閣の変転にかかわらず経済的施策を継続的に進めて来れたため、アメリカに見られるようなこういったある意味で漫画的な事態をまぬがれて来たわけですが、これは自慢できるようなことではありません。と言うのは、いわゆる右肩上がりの成長が実現できたあいだは、監督官庁として民間の経済活動を大きく阻害するようなことを「しない」ことが求められていたのですから。だから90年代に入って右肩上がりの成長が止まっただけでなく、更には名目の成長率が下降していくような事態を迎えても、説得力のある政策提言をなにも提起できないわけです。もちろんこれには理由がありまして、「官庁エコノミスト」というのは実は人を馬鹿にした「詐称」なのであって、彼らの多くは東大法学部(文T)の出身で「法律の専門家」でしかないのです。彼らは大学でまともな経済学を学んでいないのです。これは実に恐るべき「事実」だと思うのですが、誰かこれを指摘した人がいましたかね?

◇とは言え日本でも「官庁エコノミスト」の「没落」(機能低下)とともに内閣府を中心に、少なからぬ経済学者たちが官庁に進出しております。その中には伊藤元重や吉川洋といった優れた経済学者も含まれておりますが、彼らの中のトップ・ランナーこそ経済財政・金融担当の閣僚でもあるあの竹中大臣にほかなりません。本当のことを言うと、当方この拙文を「竹中経済学批判序説のそのまた序説」というような位置付けで書いております。「門外漢がなにを大それたことを」とわれながら思いますが、野中広務などによる見当はずれの「竹中批判」を見るにつけ、「少しは経済学を勉強しろよ」と思わずにはおられません。もちろんこれはもっぱら自分自身に向けられた言葉であるわけですが・・・。竹中大臣の経済学こそクルーグマンがこの本で「鉄槌を下して」いる典型的な新古典派経済学と言えるものだろうと思われますが、この保守派(右派)の経済学と、結論としてはなにも違わないようなことを、「左派」と思われる野口悠紀雄以下の経済学者たちも主張し、多くのいわゆる財界人たちや「経済学を知らないエコノミストたち」もこれに追随し、更には『朝日新聞』を始めとする「左派」マスコミのみならず、あの田中康夫ちゃんまで(更には「経済を学んだ」ことを誇っていた村上龍までも)が同じことを言い始める、というのが日本の経済世論の現状です。その具体的内容が上にも述べた「構造改革」と「規制廃止」と「競争促進」と「自己責任」を旨とする経済的保守主義の主張であるわけですが、デフレ不況の進行とともに「左派」と思われる人たちまでがどうして「右派」の主張に同調してしまうのか、不思議でなりません。「要するに無知なだけだろう」というのが当方の言い分の一部ですが、それだけではないはずです。つまり、「合成の誤謬」に似た錯視・錯覚・錯綜・錯乱がそこに見られるはずだ、ということです。

◇話を戻します。序章を踏まえて、クルーグマンは第1章から第3章にかけて、「保守派経済学の台頭」の経緯を追って行きます。トップ・バッターが「世界で最も有名な経済学者であろう」とクルーグマンが言う(P.38)ミルトン・フリードマンです。「フリードマンが影響力を持ったのは・・・長年のケインズ経済学批判キャンペーンによって、ついには経済思想と現実の経済政策に根本的な変革をもたらすことに成功したからである。」(同) 言うまでもなくフリ−ドマンは「本物の経済学者」ですから、そのケインズ批判そのものが実は多くをケインズ理論に負っているはずなのですが、それについてクルーグマンはなにも語っておりません。ともあれフリ−ドマンの「マネタリスト」としての考え方が紹介された後、同じフリ−ドマンの「スタグフレーション」理論の概略が紹介されます。次いでフリードマンと同じシカゴ大学のロバート・ルーカスの「合理的期待形成」理論について略述されます。第2章ではマーチン・フェルドスタインらの保守派財政学の「税による貯蓄・投資の抑制効果」がかなり大きく取り上げられます。「フェルドスタインとその一派は、課税によるインセンティブの歪みは重大な経済問題であるという認識を広めることに成功した。」(P.84) こんにちのマクロ経済学の教科書では必ず税の「効果」が取り上げられておりますが(多分それはフェルドスタインらの知見に依っている)、税金それ自体がGDPと経済成長を押し下げる「効果」を持つことはいわば常識でしょう。もちろんその税金が道路、鉄道、港湾、空港等のインフラ整備に使われる場合には普通は逆の「効果」が働きます。治安の確保などについても同様です。この章では更に「規制のコスト」についても論じられます。これらの「抑制効果」や「インセンティブの歪み」や「コスト」といった論点については、リベラル派経済学もかなり近い考え方を共有しているように思われます。

◇そして第3章が「問題」の「サプライ・サイダー」です。「問題の」という意味は、第1に父親のジョージ・ブッシュでさえ「ブードゥー経済学」と呼んだこのサプライ・サイド経済学が、レーガン政権の経済政策において現実に採用されたこと、第2にサプライ・サイド理論があの竹中大臣の経済学においてだけでなく、日本の経済世論にも依然として大きな影響力をふるっているように見えること、第3に、にもかかわらずクルーグマンによれば結局のところ彼らは「アウトサイダー的な少数グループの学派」(P.94)であり、「サプライ・サイダーは奇人」(P.101)であり、要するに「あやしげな宗教集団にもたとえられるような人々が提唱した政策」(P.108)であった、ということにほかなりません。しかしまずはクルーグマンによるサプライ・サイド経済学の要約を見ておきましょう。「第一に、需要サイド政策、とくに金融政策は全くの無効であるというもの。第二に、減税のインセンティブ効果は大変大きく、税率を下げることで経済活動が急激に活発になり、減税幅を上回る税の増収が期待できるというもの。こうした考え方は、マクロ経済学の合理的期待形成学派理論と、保守派財政学を合体させ、さらに強力にしたようなものである。」(P.101) 「結局、サプライ・サイド経済学の基本政策とは、アメリカ経済は減税によって成長するという考え方にほかならない。」(P.107) 彼らの「減税理論」を象徴するものが、アーサー・ラッファーが夕食のテーブルでナプキンに書いたと言われる有名な「ラッファー・カーブ」です。つまり、税率ゼロ%の場合は税収もゼロであり、税率100%の場合も税収はゼロになる(誰も働かなくなるから)というつりがね状の曲線です。言うまでもなく、もしアメリカの税率がこのカーブの右下がりの部分にあったのなら、税率を下げれば税収は増えます。

◇結局、「マネタリズム」から「合理的期待理論」へ、そして「保守派財政学理論」を経て「サプライ・サイド経済学」へというアメリカにおける保守派経済学の展開は、根底に「マクロからミクロへ」というベクトルを含んでいるように思われます。保守派経済学が新古典派経済学とも呼ばれる所以です。その意味では「ケインズ革命」に対する「反革命」はたしかに一定の勝利を収めたと言うことができそうです。まことに「悪貨は良貨を駆逐する」し、「悪は滅び」ません。実はここから「断固たる革命のテロルなしに勝てると思うのか」というレーニンの言葉(「管理人のつぶやき」2003/04/17参照)が出て来るわけですが、18世紀の「革命」の後の2世紀を超える「反革命」の歴史的進行(「管理人のつぶやき」2003/04/03参照)を見ても、人間は進歩などしないということがよく分かります。とは言え、日本経済が「流動性の罠」に落ちたことが明らかになったいま、まずは日本に「インフレ期待」を生まれさせることが「デフレ・スパイラル」からの脱却を可能ならしめるということは、目を見開いていさえすれば誰にも分かることです。幸いにして日銀新総裁の福井俊彦は、前任の速水優とは違ってこうした事態を直視しているように見受けられます。われわれに残された問題は、竹中大臣の経済学と新古典派経済学(=「反革命」と「動物化」の経済学)の影響を強く受けた日本の経済世論に最大・最終の「鉄槌を下す」というテーマになりますが、これは簡単なことではありませんから機会を改めてとさせていただきます。

【2003/05/30 BR生】

◇上の記述についての若干の補足を「管理人のつぶやき 2003/06/05」及び「同 2003/06/14」にアップしております。併せてチェックしていただけば幸いです。【2003/06/13】

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