J-POPレビュー(1)

◆ユーミンはJ-POP最強の女神である。      


◇ユーミン(松任谷由実)のアルバムを初めて買ったのは1980年だったように思います。たしかその前年の暮に出た《悲しいほどお天気》だったと思います。それまでは、当時「フォーク」とか「ニュー・ミュージック」と呼ばれていた音楽が大きらいで、もっぱらジャズとクラシックばかりを聴いていたものです。しかし、このユーミンのアルバムには一発で大気圏外までもっていかれたように思います。で、すぐに《ひこうき雲》(1973)、《ミスリム》(1974)、《紅雀》(1978)、《流線型'80》(1978)、《OLIVE》(1979)といったアルバムを買い集めたものでした。これらを聴いて思ったのは、「ユーミンは天才だ!」ということでした。

◇従ってそれに続く、《時のないホテル》(1980)、《サーフ&スノウ》(1980)、《水の中のASIAへ》(1981)、《昨晩お会いしましょう》(1981)、《パール・ピアス》(1982)はリアルタイムでフォローし続けました。いずれもユーミン全盛時代の名作ばかりです。しかし《昨晩お会いしましょう》あたりから多少違和感を感じ始めておりまして、《リインカーネイション》(1983)を聴くに至って、「さすがのユ−ミンもそろそろ限界かな」と思ったものでした。因みに、「ライバル」中島みゆきが「失速」したのもこの頃だったように思います。

◇それからは「今回もやっぱりダメだろうな」と思いつつも、《天国のドア》(1990)までは買い続けたものでした。その都度「聴くのが怖い」というか、一種の「難行苦行」のようなものでした(《天国のドア》が日本音楽史上初の200万枚突破アルバムだったことはあとになって知りました)。さすがに《ドーン・パープル》(1991)以降はもう買うこともやめてしまいました。才能のぬけがらになってしまったユーミンを聴きたくなかったからです。しかしユーミンの天才に復活の兆しが見えたのはなんとこの《ドーン・パープル》だったんですね。これもあとになって知ったことですが、いやあもうほんのちょっとだけ辛抱すればよった。あとの祭りですが・・・。

◇その後ずっとユーミンのことは忘れていたのですが、再びユーミンに飛び上がるほど驚かされたのは、ラジオから流れて来た「パートナーシップ」です。これを聴いた時は心臓が止まるかと思ったものです。ずいぶん低い声の出る女がいるもんだなあ、と思って聴いていたら、なんと聴きおぼえのあるあの懐かしいユーミンの声ではないか。さすがにこの時は涙が出たね。それまでもユーミンは耳にしていたと思うのですが、なんの感興も湧かなかったというのも実に不思議な話です。

◇というわけで、早速シングルを買って、再び涙。完全復活を遂げたあの天才ユーミンがそこにいたからです。それからはユーミンを聴かない日はないというぐらいの、二度目のユーミンびたりの毎日でした。ユーミンが決定的に大復活を遂げていたのは1994年の《ザ・ダンシング・サン》で、以後《カトマンドゥ》(1995)、《カウガール・ドリーミン》(1997)、《スユアの波》(1997)といった大名盤をリリースし続けていたことを知りました。これを知った時の感動は言葉にならないくらいのもの。90年代は実はユーミンの第二次黄金時代だったんですね。この時代にユーミンのアルバムがセールス面で下降を始めていたのは皮肉な話ですが、分かる気がする。ユーミンの音楽はその見かけとはうらはらに本質的に「非バブリー」で極めて「内面的」なものですから。だからユーミンのアルバムにおいては内容とセールスは逆比例の関係にある、と言えるほど。

◇このユーミン再発見には伏線がありまして、「パートナーシップ」を聴く少し前にブライアン・ウィルソンの「ユア・イマジネーション」を聴いて卒倒・失神したということがありました。あのドラッグ漬けの廃人ブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズの元リーダー)が90年代に復活するなんてことを一体誰が想像しえただろう。90年代という時代は信じがたい奇蹟がたて続けに起こる時代だったらしい。日米を代表する天才ミュージシャンがほぼ同時に復活していたのですから。しかしブライアンの場合は、痛ましくも弟のデニスに続いてカールをも失った後だったんですね。

◇というわけで再びユーミン。1998年の初のベスト盤《ノイエ・ムジーク》は、80年代のユーミンも曲によっては猛烈な天才ぶりを聴かせていた(例えば「ダイアモンドダストが消えぬまに」、「SWEET DREAMS」等々)、ということを初めて教えてくれた、実に恐るべきアルバムでした。こういうベスト盤を出せるミュージシャンは世界広しと言えどもユーミン以外には現役ではいないかもしれない。ポール・マッカートニーにもボブ・ディランにも無理かもしれない。それほどのアルバムですから、改めて心して聴いて欲しい。しかしさすがに《フロ−ズン・ローゼズ》(1999)と《アケイシャ》(2001)は若干息切れ気味。バラード・ベスト《スイート・ビター・スイート》(2001)も、廃盤になってしまった《アルバム》(1977)に収録されていた2曲、及び超弩級の新曲「ONE MORE KISS」を除くと《ノイエ・ムジーク》に遥かに及ばない(当方うかつにも入手していなかった《アルバム》は一度「限定盤」で出して欲しいものです)。

◇しかしです。やっぱりユーミンは現代日本が生んだ美空ひばりと並ぶ大天才なのです。美空ひばりと同様ユーミンも、われわれの生きるこの時代が、ほんとうに生きるに値する「幸福」に満ちた時代なんだってことを、歌を歌うごとに教えてくれています。これほどの大天才はこのふたり以外にはちょっと考えられないように思います。1970年代という時代は、当方にはかなりきつい時代でしたが、ユーミン畢生の名作《OLIVE》にどれほど「生きる力」を与えられたか、言葉には出来ないほどです。これはユーミンの「音楽」と「言葉(歌詞)」と「歌」の総合力によるもので、そのどれかを切り離すことなど出来ない。まさに「音楽による生命(死をも含む)へのオマージュ」といったようなもので、このコラムで次回以降それをじっくりと考えて行きたいと思っておりますが、ここでひとつだけ言っておきたいのは、ユーミンの歌詞がどれほど秀逸でキャッチーあっても、それだけでは「力」を持ちえないということです。ユーミンはあくまでも音楽家なのであって詩人ではないということです。

◇尚、上に「《フロ−ズン・ローゼズ》と《アケイシャ》は若干息切れ気味」と述べましたが、ひょっとするとこれは当方の理解が間違っているのかもしれない。と言うのは《フロ−ズン・ローゼズ》は、当初あまり評判のよくなかったあの《紅雀》(1978)にとてもよく似ているからです。そう言えば《アケイシャ》の一部は、まるで《紅雀》の次の《流線型'80》(1978)に対応しているように聴こえる。そうすると、次はあのユーミン畢生の名作《OLIVE》(1979)に当たるアルバムが登場することになるのかもしれない。つまり《フロ−ズン・ローゼズ》は、ユーミンの「次へ向けた助走」と位置づけることの出来るアルバムなのかもしれないということです。こういうことはユーミンに関しては大いにありうることですが、ここではそれを指摘するにとどめます。

◇最近になって《されど我らがユーミン》(宝島社)という本が出ました。基本データ集としてはとても重宝しますし、全音楽ファン必携と言わなくてはなりませんが、文章でユーミンの音楽に迫ることが出来ているのは真保みゆきの「幸せにするために」くらいのもの。このエッセイは傑作です。ホント「毎日がスペシャル」(竹内まりや)なんてマヌケな歌はやめて欲しい(竹内まりやは本来こんな歌を歌う人じゃなかったと思うんだけどね)。この本と《レコード・コレクターズ/1996年10月号・ユーミン特集》(ミュージック・マガジン)はいちおうファン必携と言えますが、まずはユーミン自身による1982年時点の「履歴書」とも言うべき《ルージュの伝言》(角川文庫)を読むべき。もっとも、ユーミン自身がそこで行なっている自作の解説(解釈)を真に受けてはいけない。真に受けると間違うことになる。そもそもその時点ではユーミン自身がその「無意識」の大きさや深さを充分に理解しいるようには思えない。そこで読みとるべきことはユーミンの履歴とその自己理解の仕方です。

◇というわけで、このコーナーは当面ユーミン・コーナーとなる予定です。それではまた。

【2002/05/18 JPR子】

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