ANTI-KILLER NOVEL (2)


山ノ内のマリア (第20回)

◇前にも言ったように、ぼくがマリアと知り合ったのはぼくが高校2年の秋のことだった。秋とは言ってももうかなり日が短くなったように感じられる頃だった。紅葉も散り始めていたかもしれない。それでもマリアはまだ制服のコートを着ていなかったから、それが秋であったことは間違いない。その日ぼくは学校の帰りにマリアを北鎌倉駅でつかまえて、なんとしても話をするつもりでいた。ぼくがしばらく駅の外で待ち構えていると、ほどなくしてマリアが駅から出て来た。下り電車二つ分約20分ほどの時間だったと思うが、待っている間にぼくはすっかり怖気づいていた。まともに話ができる状態ではなくなっていた。仕方なく彼女の後ろをついて行くことにした。ぼくがようやく恐怖を克服したのは5分ぐらい彼女の後ろを歩いてからだった。ぼくはマリアに追い着いて、こんにちわと言った。そして、これから高台の先の知り合いの家へ行くのだが途中まで一緒に行ってもいいかと尋ねた。マリアはびっくりしたような硬い表情をしていたが、小さな声ではい言ってと頷いた。

◇こうした経緯を第17回で述べた小学校時代の不良ぽい友達に報告したらなんと言っただろう? なにやってんだよと言ったか、やるじゃないかと言ったか、まったく見当もつかない。ぼくはもっとスマートで自然なやり方をその年の夏頃から探っていたのだが、アイディアが思い浮かばなかった。マリアと同じ学校の女子をガール・フレンドにしていた級友が協力してくれて機会を捜したのだが、そっちの方もなんだかストーカーめいたやり方だった。北鎌倉を通り越して鎌倉で電車を下りたマリアを含む数人の女学生グループについて廻ったりした。彼女たちが喫茶店かボーリング場にでも入ればチャンスがあるかもしれないと思ったが、怪しい二人連れがつけているあいだはまずそういうことはしないだろう。校則違反だろうし。とにかくマリアと話をしなければ何も始まらなかった。結局はいちばんシンプルで原始的なやり方で行くことにしたわけだが、そういうことで何ヶ月も時間を無駄にするというのは、いかにも間の抜けた田舎の高校生がやりそうなことだった。

◇マリアが住んでいた山ノ内の大船寄りの高台のあたりは北鎌倉を代表する高級住宅地だった。びっくりするような豪邸があったわけではないが、いかにもアッパー・ミドルの住居といった風情のこぎれいな二階建ての家が並んでいた。墓や畑があるというのがいかにも山ノ内らしかったが、犬のいる家が多いというのはやはり高級住宅地と言うに相応しかった。ぼくが住んでいた山ノ内上町には猫を飼ってる家が多かったが(ぼくが小学生の時にはわが家にも二匹いた)、犬を飼っている家はほとんどなかった。山ノ内上町は現代的な意味での住宅地ではなかった。またマリアの家がある高台のメイン・ストリートは並木道になっていて、並木の木はプラタナスだった。そう言えばその秋にランチャーズが「真冬の帰り道」という曲を発表しているが、歌詞の一節に「プラタナスの枯れ葉、寒そうな枯れ葉」というのがあった。要するにマリアの家がある一帯はアッパー・ミドルが住む60年代日本の住宅地のひとつのステレオ・タイプみたいなところだった。

◇しかしそういうところをマリアと一緒に歩くということは、田舎の高校生だったぼくにはしびれるような快感と誇りをもたらす出来事だった。ぼくが声をかけた時は、一瞬逃げ出そうかと思ったほどマリアはおそろしく怖い表情をしていたが、それから50メートルも行かないうちに俄然リラックスした雰囲気に変わっていた。ぼくの心臓は強く動悸を打っており、声は緊張で震えているかもしれないのに、マリアの方はと言えば「あなただったのね」というような笑顔さえぼくに向けるようになっていた。この急激な態度の変化とは関係がないかもしれないが、マリアは強い近視だった。その頃には彼女の方がずっと饒舌になっていたほどで、ぼくは用意していた話も忘れてしまった。いつの間にか立場が逆転している感じだった。その時のぼくの印象を言えば、「女っていったい何なんだ」というものだったが、それがぼくの無知と洞察力不足によるものであったことは言うまでもない。その時からマリアとぼくはいわゆるステディな関係になったわけだが、それはぼくが夢想していたものとは違うものだった。当然のことながら、高校生のぼくは男と女の関係というものをなにも知らなかった。

◇以上がこの物語の第1回目でぼくがマリアに声をかけたと述べたことの概要だ。それは1967年秋のことだった。はたから見ればそれはランチャーズの「真冬の帰り道」(67/11)みたいな光景だったかもしれないが、ぼく自身はと言えばその頃一種の沈滞感のなかにあった。その年ぼくは中3時代からの音楽体験をまとめてみようと考えて、6月の学園祭で「現代のフォーク展」という催しを行なった。それはボブ・ディランを中心とした展示だったが、いかなる意味でもそれは惨めな失敗だった。初めから失敗するほかない企画だった。それはぼく自身の音楽体験、つまりぼくの内面や心象風景を視覚化してみようという企てだったわけだが、いま考えてもそれは無謀な試みだった。そういうものが展示などで表現可能であるとどうして考えることができたのか、いまもってよく分からない。その催しでは何人かの協力者を得たが、彼らもぼくが何をやろうとしているのか分からない様子だった。当然だ。ぼくは不可能なことを可能かもしれないと空想していたにすぎなかった。

◇その年の10.8羽田にしても11.12羽田にしても、ある停滞のなかの出来事だったような気がする。当事者たちの証言も概してそういうものだったと思う。基本的にはそれは三派全学連の孤立した突出でしかなかった。日共は彼らを挑発者と呼んだが、その一点においては当たっている面があったかもしれない。転機がかいま見えたのは、11月11日に73才のエスペランティスト由比忠之進が行なった首相官邸前におけるベトナム戦争抗議の焼身自殺だったろうか。言うまでもなく、孤立した突出だった二つの羽田闘争が全国民の注目を集める大衆的実力闘争へと転回したのは、翌68年1月17日から22日にかけての佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争においてだった。この時は「法大事件」、「中核列車」、「博多事件」などがメディアを通じて大々的に報道され、佐世保住民による三派全学連支援、街頭カンパへの協力など、闘争が"祭り"へと決定的に拡大・変容して行く転機となった。現地闘争方式の勝利だった。"祭り"の1968年がこうして幕を開けた。

◇いま振り返っても1967年という年は二つの羽田闘争によって燦然と輝きを放っているように見えるが、その時期を生きた者にとっては谷間の年だったという印象が強い。特に年の後半は。当時にあってはわれわれの現実の自由度・幸福度とはトレード・オフ関係にあったと思われる大衆文化の方は、その年に爆発的な様相を見せた。前に挙げた歌以外にも150万枚を売り上げた伊東ゆかり「小指の想い出」、相良直美「世界は二人のために」、黛ジュン「恋のハレルヤ」、美樹克彦「花はおそかった」、ブルー・コメッツ「ブルー・シャトー」、そして280万枚の大ヒットとなったフォーク・クルセダース「帰って来たヨッパライ」などを挙げることができる。日本の中学高校生がラジオの深夜放送を熱心に聴き始めたのもこの年だった。「パック・イン・ミュージック」の野沢那智と白石冬美の人気は絶大だった。しかしながら、それらはわれわれが現実には自由でも幸福でもなかったことの代償のようなものだったろう。ただアメリカの黒人たちはこの年に"爆発"していた。

◇前述の「現代のフォーク展」に見られるその年のぼくの空転ぶりもひどいものだったが、それは透明な輝きに満ちていた66年の反動のように思えた。日本の青少年たちは66年の輝きを発展させることができるような何かをまだ持つことができないでいた。しかし68年1月の佐世保闘争の時期には、新聞やテレビが伝える"祭り"にわれわれはすっかり舞い上がっていた。あの脳天気な軽い気分は"祭り"の自由な空気をともなってよりパワー・アップされて回帰していた。この物語の第3回で述べたマリアの電話事件が起きたのはその頃のことだ。ぼくにとってそれはほとんど想像を超えた出来事だったが、考えてみればその頃から予想を超えた事態が展開し始めていた。われわれにとって制御不可能な新しい始まりが生まれていた。日本に「偉大で光り輝くもの」(ハンナ・アーレント)がもたらされようとしていた。あの電話事件はそうした文脈において理解されるべき"何か"なのか? あるいは単純に人間的なドタバタ劇だったのか? 多分そのどちらでもあっただろう。68年に起きた事態を完全に理解するということは、われわれ人間には不可能なことのように思える。

◇自分の内面を展示で表現できるかもしれないと考えたぼくはおそろしく無知で幼稚な高校生だった。だが生まれながらの犯罪者でも謀略家でも性倒錯者でもない普通の人間の内面は時代に刻印されるだろうし、そうであるかぎりある限定的な"普遍性"を持つだろう。当時ぼくが考えていたのはそういうことだった。ぼくがその時代を代表する人物と考えたのがボブ・ディランだった。もちろんポール・マッカートニーでもよかったわけだが、ポールの場合は伝記が出ていなかった。だからぼくが企画した「現代のフォーク展」は「ボブ・ディラン展」と言うべきものになった。それは惨めな失敗に終わったが、モチーフ自体は不思議なほど預言的だった。ぼくはボブ・ディラン的内面は共有されうると思ったし、それは共有された世界によって支えられるはずだと考えた。ぼくが「現代のフォーク展」で創り出そうと試みたのはそういう世界だった。しかし現実の出し物はカウンター・カルチャー風の世界でしかなかった。それ故それは完全な失敗に終わった。しかしながらぼくがそこで創り出さなければならなかった世界、即ち"祭り"はその7ヶ月後に現実のものとなっていた。(続く)

【2004/08/14 AK】

山ノ内のマリア (第19回)

◇前回の話で示唆したように、60年代の日本における「異常なるものへの冒険」を準備した66〜67年頃のあの脳天気な軽い気分は、山本リンダやグループ・サウンズによってもたらされたハレンチで軽躁な気分と表裏の関係にあった。前回は挙げなかったが、森進一の「女のためいき」(66)や青江三奈の「恍惚のブルース」(同)などにもわれわれは時代の軽躁ぶりを聴いていた。当時のわれわれには、この軽躁さは断じて支持されるべきものと思われた。前から言っているように、当時われわれは高度経済成長と急速な市民社会化のなかで、伝統社会的なエートスや戦後的イデオロギーを含む旧来のすべての価値観からの解放の過程にあったわけで、従って60年代半ば頃に出現した軽躁な多幸症的気分がそうした過程を促進するものであることはあまりにも明らかだった。だから、そうした気分や風潮に眉をひそめる者がいたとすれば、それは馬鹿(square)な反動派か既成左翼にちがいない、という風にわれわれは軽く考えることができた。

◇当時の日本の青少年たちがアメリカに見られたようなカウンター・カルチャーを必要としなかったのは、この物語の第17回に述べたようなアメリカ的な暴力風土が日本に存在しなかったことのほかに、60年代の日本にこのハレンチで軽躁な多幸症的気分をともなった大衆文化が存在したことが挙げられる。たしかにアメリカにもナンシー・シナトラやシェールのような、中村晃子や山本リンダに相当するスキャンダラスな露出系の芸能人(歌手)たちがいたが、彼女たちは日本的な意味でハレンチだったわけではない。だいたいアメリカのピューリタン的な風土においてはハレンチで馬鹿っぽいことが、日本においてそうだったように国民的なレベルで"売り"になるはずがなかった。つまりアメリカにおいては、山本リンダやグループ・サウンズの"革命的"とも言えるハレンチでばかばかしいパフォーマンスが、全国メディアを占拠してしまうような条件がなかった。ところが日本の青少年たちは、それをテレビで見て楽しんで更にそれを支持すればよかった。

◇こうした"革命的"な大衆文化は、世界中のいろいろな時代に存在したと思われるが、少なくともピューリタン的な"革命国家"だったアメリカには存在しえなかった。だから、60年代の日本に広範なカウンター・カルチャーが存在しなかったことではなく、アメリカにそういうものが存在したことこそが問題だったのではないか、という風に問い返すべきだろう。60年代アメリカのカウンター・カルチャーに特別な意味を求めるようなことはそろそろやめた方がいい。もちろん60年代の日本社会もアメリカに負けず劣らず特殊な社会だった。あの時代にハレンチな馬鹿っぽさを演ずることが全国民的なレベルで"売り"になるような社会が日本以外に存在しただろうか? 存在しなかったろう。われわれは60年代の軽躁な大衆文化の発展形である70年代以降のより肥大化した大衆文化によって復讐されて行くわけだから、それに幻想を持っているわけではもちろんない。だから問われるべきは、何故それが60年代において"革命的"でありえたかということだ。

◇われわれは70年代以降の大衆文化によって復讐されたと述べたが、それはまず60年代日本の市民社会化の終焉(=大衆社会の全面化)によって音楽やパフォーマンスが解放促進機能を失ったこと、従ってわれわれは70年代リンダやピンク・レディーのハレンチ路線を単純に支持できなくなったこと、更にはそれらを享受することが現在の欲望充足以上のものではなくなったこと、などを意味していた。われわれはそれぞれに一個の消費者でしかなくなってしまった。60年代におけるような、ハレンチな馬鹿っぽさをわれわれがめいっぱい楽しんで更にそれを支持することで「共通世界」が形成されて行くような条件が消失していた。われわれは「個人の解放とは、社会からの解放ではなく、原子化からの社会の解放である」(マックス・ホルクハイマー)ことを知っていたが、それを現実化するすべての方途を失った。それどころか、われわれは世界へと向かういっさいの手掛り・足掛かりを失って、それぞれの自己という無世界的な閉域のなかに閉じ込められてしまった。

◇しかし60年代においては事情はまったく異なっていた。ハレンチで軽躁な多幸症的気分をともなう60年代日本の大衆文化は、あの軽い脳天気な気分の供給源でさえあった。現在の欲望はそれ自体で充足されるのではなく、われわれの抽象的な幸福感を増進させてさえいた。われわれは消費や充足にともなう快楽を格別に素晴らしいものとは思わなかった。われわれはみずからの欲望や快楽がそれ自体で充足され消費されるものとは考えなかった。山本リンダや中村晃子やタイガース(「モナリザの微笑」)やテンプターズ(「神様お願い」)やオックス(「ガール・フレンド」)などがわれわれに見せてくれたばかばかしくも面白すぎる歌とパフォーマンスは、われわれにとって一回的な出来事であり事件だった。彼ら彼女らの歌とパフォーマンスは、ハレンチで俗悪で倒錯的で植民地的で、たいていわれわれの日常的な感覚からずれていた。無国籍的でありながらアジア的だった。そうしたことがもたらす独特の快感は現在的な充足とはちがうものだった。それはハンナ・アーレントの言う「約束の力」に通じるような何かだった、と言ったら言いすぎか?

◇しかしながら、GSブームが最盛期を迎えた68年頃には、彼らが登場して来た時の衝撃力を急速に失って行ったように思われる。その頃高3になっていたぼくも時々テレビで彼らを見てはいたが、野口ヒデトと赤松愛がいたオックス以外にはほとんど興味を失っていた。68年と言えば、新左翼諸党派と多くの日本の青少年たちが街頭と学園を自由な空間へと変えて行った時期に当たるわけで、日本の"革命的"な大衆文化はすでにその役割を終えていたとも言える。ハレンチで軽躁で多幸症的な「祭り」に参加していた日本の青少年たちは、もっと楽しくてもっと自由でもっと幸福でもっと刺激的な、まさに彼ら自身が主人公にほかならない「異常なるものへの冒険」へと乗り出して行った。ぼくはあの軽い脳天気な気分が日本をおおっていた時期を66〜67年頃と考えているが、現実の大衆文化の動向から見て行っても、時期の特定は間違っていないように思われる。日本の66〜67年頃というのは、やはりとりわけスペシャルな時代であったらしい。

◇とは言えうぶで幼稚で引っ込み思案でその上多少うつ病気味でもあったぼく自身は、ハレンチで軽躁な当時の風潮をテレビなどを通して知っていたにすぎない。実際のところはビートルズ・ファンと言うよりボブ・ディランの信奉者に近かったぼくは、学校の親友がゴールデン・カップスのファン・クラブの会長をしていたマリアとは少し違う世界の住人だった。ぼくは本牧のゴールデン・カップはもとより、ACBなどのゴーゴー・クラブへ行ったこともなかった。ぼくの友人のなかにそういうところに出入りする者がいなかったこともあるが、そういうことにあまり興味もなかった(本当は少し違うのだが、ここではそうしておく)。そういう意味ではぼくは時代にコミットして行くのではなく、時代の気分を呼吸しながらそれを内面化していたにすぎない。高校を卒業するまでぼくは書も捨てず街へも出て行かなかった。だからぼくのマリアとの付き合い方は、いまから思えばかなり奇妙で風変わりなものになって行くわけだが、それについては改めて語ることもあるかもしれない。(続く)

【2004/08/10改稿 AK】

山ノ内のマリア (第18回)

◇ここで60年代を通じてビートルズやその音楽が日本の大衆文化のなかでどのような位置を占めていたのか、ということについて触れておこう。いまでも事情はほとんど変わらないと思うが、普通われわれは幼児の頃から外国製のポップ・ミュージックに親しんでいるわけではない。バッハやモーツァルトのようなクラシック音楽ならともかく、洋楽のポップ・ミュージックの場合は、それに合わせて口ずさんでみたいということがそこへ入って行く入口になるだろう。そうである以上、われわれが洋楽ポップスの積極的な受容者となるのは、普通は英語が理解できるようになった中学生以上ということになる。いまでは多くのおやじたちがカラオケで「イエスタデイ」を歌っているのかもしれないが、「イエスタデイ」がアメリカで大ヒットした65年秋の段階でそれを歌えた人は、日本全国でも3000人ぐらいしかいなかったのではないか?

◇しかもその時点でそれを歌えた人の年齢はほとんどが13才から22才ぐらいまでだったろう。つまり年齢的には中学生から大学生まで。当時の一学年の人口が仮に200万人だったとすると、合計で2000万人いたことになるが、その中の3000人と言えば0.015%にしかならない。しかしもちろん「イエスタデイ」の日本盤シングルは、65年秋から66年にかけて日本国内だけで30万枚ぐらいは売れているだろう。再生機器の普及率がいまよりもずっと低かった当時において、この数字を多いと考えるべきなのかどうかは難しいところだが、邦楽でも30万枚売れるレコードはそう多くはなかっただろうから、いちおうヒットしたと言えることは間違いない。しかしヒットしているから買うという人も少なくなかったわけで、こういう数字は実はあまり意味がない。ぼくの感じでは、当時の中学高校の一クラスが50人だったとすると、そのうちの3〜4人がビートルズのファンだったと思う。そしてその一クラス各3〜4人の少年少女たちがビートルズ・ファンの中核を形成した。

◇いまでもそうだと思うが、洋楽ポップスのファンというのはスノッブな人間が多い。つまり洋楽ポップスを聴いてカッコをつけるとか、優越感にひたるというような"動機の不純さ"がそこにないとは言えない。一般に青春期というのはそういう不純さに満ちているわけだから、動機が不純だから駄目とはもちろん言えないわけで、ジョン・レノンだって女の子にもてたくてロックンロールをやろうと決意したのかもしれない。本人がそういうことを言っているのを読んだことがある。従って、意識的なビートルズ・ファンのなかには「俺は歌謡曲も好きなんだよ」というふりをする者もいた。ぼくが中2の終わり頃に学校の北鎌倉・大船地域の生徒の集まりで、ビートルズの「恋する二人」を歌ったあとでマヒナスターズの「お座敷小唄」(64)を思い入れたっぷりに歌った当時高1の楽しい先輩がいたが、ぼくはかっこいい人がいるもんだなあと思ったものだ。因みに松尾和子をフィーチャーしたマヒナスターズの「お座敷小唄」は64年という時期になんと250万枚を売り上げていた。

◇64年の250万枚と66年の「イエスタデイ」の推定30万枚とではまるで規模がちがう。では「お座敷小唄」の250万枚は326万枚を売り上げたぴんからトリオの「女のみち」(73)のような"異常現象"だったのかと言えば、そうではない。64年と言えば東京オリンピックの年で、当時の日本は60年代後半の「昭和元禄」に向かって多幸症的な時代に突入しようとしていた。「お座敷小唄」は芸者とその旦那の恋の歌だが、ほとんど意味のない軽さを身上としていた。ドドンパのリズムに乗せてばかばかしい言葉遊びに徹した歌が、この時代を代表する名曲たらしめたと言える。60年代半ばの日本の気分がこの歌に集約されていた。だからこそビートルズ・ファンのあの先輩は「恋する二人」と並べて「お座敷小唄」を歌ったのであって、ぼくも彼のそのセンスに強い感銘を受けたわけだ。ついでに言えば、「お座敷小唄」と並べてさまになるビートルズの歌があったとすれば「恋する二人」以外にはちょっと考えられない。「オール・マイ・ラヴィング」ではまずさまにならない。

◇昭和元禄の多幸症的な気分は「お座敷小唄」の大ヒットとともに始まったと言えるが、それはこの物語で語って来た66〜67年頃のあの脳天気な軽さというものと関係があるのだろうか? もちろんないはずがない。ぼくはこれまで軽い脳天気な気分というのを、当時のわれわれの政治的な潜勢力として見て来たわけだが、それは社会的な機能を担ってもいた。それはわれわれの日常の社会生活においてどういう風に現われたのか、ということを語るにはやはり音楽に即して見て行くのがいいだろう。その場合には政治的な潜勢力と区別するために、昭和元禄の多幸症的な気分という言葉を使いたいと思う。この気分は、二宮ゆき子「まつのき小唄」(65)、森山加代子「くやしいじゃないの」(同)、城卓矢「骨まで愛して」(66)、園まり「逢いたくて逢いたくて」(同)などを経て、山本リンダの「こまっちゃうナ」(同)において明確な表現を与えられた。

◇しかし60年代を通じての山本リンダの最高傑作としては、むしろ67年の「ミニミニデート」を挙げるべきではないか。この歌に聴かれるギョッとさせられるような未聞のハレンチさは、阿久悠と都倉俊一のコンビにサポートされた「どうにもとまらない」(72)に始まる70年代リンダの過剰露出路線を凌ぐと言える。歌詞はそれほどハレンチとは言えない「ミニミニデート」において、山本リンダはそのキャラクターひとつで日本の空気を一変させる力を放っていた。とは言え、グループ・サウンズ(GS)全盛時代に登場したこの歌はビッグ・ヒットにはならなかったと思う。山本リンダが拓いたハレンチな社会・音楽空間にいっせいになだれ込んだのは、馬鹿を演ずることを恐れないあのミリタリー・ルックのGSたちだった。いまではGSのCDもかなり充実していて、新たに「ひとりGS」と命名された60年代後半の日本版ガール・ポップも続々と発掘される時代だから、ここで詳しく述べるには及ばないだろうが、この軽躁な時代のトップ・バッターはやっぱり山本リンダだったと思う。

◇ではあの軽い脳天気な気分と、この軽躁な多幸症的気分とはどのような関係にあったのか? 当時の青少年たちのなかで、それらは何の矛盾もなく並存しえていたのか? 言うまでもなく前者は未来を志向し、後者は現在を志向するという関係にあったわけだが、見方を変えれば、前者は彼らの内面に関わり、後者は当時の大衆文化や社会環境に関わっていた。あるいは、前者は彼らの希望や期待に関わり、後者は彼らの現在の欲望や快楽に関わっていたとも言える。いずれにせよ、両者はその存在領域や志向する方向を異にしていた。従って彼らはビートルズやボブ・ディランを聴いたあとで、ジャガーズ(「君に会いたい」)やカーナビーツ(「好きさ好きさ好きさ」)のあの馬鹿っぽさをめいっぱい面白がり、ミニスカートにブーツ姿の中村晃子が歌う「虹色の湖」(67)の強烈なインパクトに、性的な意味でも興奮することができたわけだ。しかしながら、前者は60年代の終焉とともに霧散し、後者は70年代リンダやピンク・レディーやアイドルの時代へと、日本の全面的大衆社会化に対応しそれを促進さえする本来の大衆文化へと肥大化して行った。

◇ところで、ビートルズの「恋する二人」とマヒナスターズの「お座敷小唄」を並べて歌ったあの2学年上の先輩の家は、マリアの家のすぐ近くにあった。そして兄弟姉妹は弟だけだったマリアも、その先輩を兄貴のように慕っていたことをマリアと知り合ってから知った。彼はいつも冗談を飛ばしているような面白い人だったが、いわゆる親分肌の面倒見のいい人でもあった。ぼくが中2の時の学校の北鎌倉・大船地域の生徒の集まりにしても、彼が企画したものだったと思う。ぼくは成績も悪く学校のなかでいつも孤独を感じていたから、侮れない強打者としてぼくを遇してくれたその先輩たちとのその日のソフト・ボールを心から楽しむことができた。そのイベントは大船にあった電機メーカーの施設を利用して行なわれたものだが、その先輩が「恋する二人」と「お座敷小唄」をともに並存しうるものとして扱ったことは、幼いぼくにとっては決定的な啓示でもあった。彼はまた学校や成績がすべてではないんだよということをそのような仕方で教えてくれた。ぼくが中3の夏にビートルズやボブ・ディランに出会うことができたのは、その先輩のおかげでもあったような気がする。(続く)

【2004/08/06改稿 AK】

山ノ内のマリア (第17回)

◇前回の話の最後のところで、ぼく自身はヒッピーとベ平連が大嫌いだったと述べたが、前から言っているようにぼくはフラワー・ムーヴメントに代表される60年代アメリカのカウンター・カルチャーに対しては一貫して批判的だった。のみならず、全共闘運動のなかから生まれた「自己否定」とか「大学解体」といった発想についてもずっと胡散くさいものを感じていた。一般に60年代を象徴すると考えられているこれらの現象に批判的であるというのはどういうことなのか? そもそもフラワー・ムーヴメント、ベ平連、全共闘とはいったい何だったのか? ぼくとしては、警備の州兵が持つ銃の銃口に花を差し入れたペンタゴン・デモ参加者の行為よりも、同時期のオークランドとバークレーの実力闘争の方を高く評価するし、後者こそが「異常なるものへの冒険」(ハンナ・アーレント)としての60年代政治の新しい始まりを生み出したことは明らかだと考える。

◇とは言え、ハンナ・アーレントは60年代の新左翼が持っていた暴力への傾きについてはあくまでも批判的だったわけで、それはマルクス主義が持っていた全体主義的傾向への批判とも重なっていた。従って、そういう新左翼的な暴力志向に比べたら、ヒッピーやベ平連や全共闘はずっとまともだったと考えるべきではないのか? 言うまでもないことかもしれないが、ぼくはいまではSDS(民主社会をめざす学生同盟)のなかから生まれたウェザーマンのテロリズム志向は60年代の新しい始まりからの逸脱であったと考えている。しかし、ニューアークやデトロイトの黒人暴動と白人学生らによるオークランド蜂起については、「偉大で光り輝くもの」(アーレント)をもたらす行為であったと考える。日本においても同様で、10.8羽田から68年の10.21新宿騒乱闘争への展開や、大学バリケード封鎖の全国的拡大にこそ60年代の新しい始まりを見る。

◇何故そういうことになるのか? この問いに答えることがこの物語のテーマのひとつでもあるわけで、従ってそれは言い方を変えれば、何故当時の青少年たちは実力行使=ゲバルトを伴なう自己主張を好んだのか、という問いにもなるだろう。あるいは、何故彼らは自分たちのプチブル的なあり方を「自己否定」して行くというような伝統左翼的な行き方ではなく、ゲバルトの行使を伴なうパフォーマティヴな冒険を政治活動そのものと考えることができたのか、という風に言い換えてもいいだろう。この問いに答えることができれば、ヒッピー的なドロップ・アウトでも、脱走米兵の支援活動でも、学生であることの否定でもなく、機動隊との衝突が予想される街頭に出て行くとか、大学当局と対決して行くというような多くの青少年たちの「自己肯定」的な行き方の意味も明らかになるだろう。何故彼らは(正当にも)そういう行為を政治と考えることができたのか?

◇ここでひとつ言っておきたいのは、当時の多くの青少年たちにとってゲバルトというのは、暴力への傾斜をはらんでいたとは言え、他者を完全否定する暴力とは見なされていなかったということだ。彼らは基本的には無抵抗な者に向けて角材をふるったり投石をしたりはしなかった。彼らがそういう行為に及んだのは、基本的には機動隊が彼らの前に立ちふさがった時だった。このように言うと、「大衆団交」は暴力ではなかったのか等々さまざまな異論がありうるだろうが、新左翼系の学生に敵対する大学当局者や教師連中を監禁して自己批判を強要したりといった行為は違法であっても、そういう人々の存在を完全否定する暴力とは違う。同様に彼らは公安条例や道交法などを平気で無視したわけで、その意味で彼らは無法者だったわけだが、違法行為が暴力とイコールでないことは言うまでもない。彼らにとってのゲバルトというのが、そういうレベルの実力行使であったことは押さえておく必要がある。彼らは遵法精神というものを端から馬鹿にしていたが、それは彼らがアウトサイダーであったからではなく、逆に法を構成して行く主体としての快活さによっていた。

◇この物語の第10回目において、日本の新左翼運動はアメリカとは違って底抜けとも言える明るさと解放感を持っていたと述べたのは、そうした彼らの快活さの反映と言える。アメリカの新左翼運動がそういう風にならなかったのは、気に入らなければ自国の大統領さえ殺してしまうようなアメリカの暴力的な風土を彼らがよく知っていたこと、それほど過激とは言えない公民権運動のなかにあってさえ活動家が殺されていたこと、従ってバークレーの人民公園事件のような軍を投入した弾圧は不可避と考えられたこと、それ故、自分たちがいずれウェザーマン的テロリズムを選ぶのか否かという岐路に立たされるだろうという予感を持たざるを得なかったこと、などによっていた。従ってもし日本政府が10.8羽田に対して破防法を適用していたら、その後の日本の新左翼運動も暗いものになっていた可能性があるわけだし、アメリカにおけるように暴力(的対決)が前面に出て来た可能性もあった。だからもしそうなっていたら、日本においてもカウンター・カルチャーやヒッピー的ドロップ・アウト志向が青少年たちをもっと広範に捉えていたことも充分に考えられるわけだ。

◇つまり、明るさとか軽さとか脳天気さというこの物語の言い方では、意識のレベル(優劣)が語られているわけではない。ある意味でわれわれは幸運だったとは言えるが(日本の新左翼運動に初めて破防法が発動されたのは10.8羽田から1年半後の69年の4.28沖縄闘争に対してだった)、われわれがそれを選ぶことができたわけではない。われわれはわれわれの歴史的条件のなかでそうだったということで、そうしたわれわれの条件がわれわれに脳天気な軽さや明るさをもたらしたということだ。それ故、例えば『リボルバー』以降のビートルズの行き方にわれわれが違和感を持ったり、またある時点からアメリカの黒人音楽にわれわれが強く魅せられるようになったのは、そうした日本と米英との歴史的与件の違いによっている。このズレが理解されない60年代カウンター・カルチャー論はやはりおかしい。ジョン・レノンがある時点からSDSのトッド・ギトリンと同じ暗さに捉えられていたのはよく分かるにしても、われわれがそれを共有する必要はないわけだし、もし共有していたのだとすればむしろそこではわれわれに固有の与件が見失われていたということだ。

◇10.8羽田とオークランド蜂起によって、日本とアメリカの青少年たちの新しい冒険が始まったわけだが、それまで共有されていた意識の方はむしろそこから大きく分岐して行った。第14回目に述べたようなサークル「レッド・ラバー・ボール」とサベージ「いつまでもいつまでも」のような対応関係は67年以降は見られなくなった。相良直美「いいじゃないの幸せならば」、アン真理子「悲しみは駆け足でやって来る」、ピーター「夜と朝のあいだに」のような69年に特有の終焉ソングはアメリカには見られなかった。対応関係が再び見られるようになるのは、キャロル・キング「イッツ・トゥー・レイト」(71)、ギルバート・オサリヴァン「アローン・アゲイン」(72)、カーリー・サイモン「うつろな愛」(73)などに対応するかぐや姫「神田川」(72)、ガロ「学生街の喫茶店」(同)、バンバン「いちご白書をもう一度」(75)などによってだろう。天地真理「水色の恋」(71)に対応するレベルで自由の終焉が歌われたのはジャニス・イアン「17才の頃」(74)によってだったかもしれない。

◇政治的現象のモデルとして見て行くかぎり、60年代の日本とアメリカが多くの共通点を持っていたとは言え、モデルとしての"完成度"が高かったのはやはり日本の方だろう。高度経済成長と"和"を尊ぶ風土によっていたとは言え、60年代の日本には自由と幸福が大量に存在した。それに、大まかな言い方になるが、東京と北海道と沖縄にまったく異質の人々が住んでいたわけではないし、ぼくの生活圏だった山ノ内・鎌倉・大船は、神田解放区へと空間としてつながっていた。ビートルズやボブ・ディランが教えてくれた「共通世界」(アーレント)へのアクセスがさほど困難なものではないことについての「共通感覚」(同)は、66年頃には既にわれわれのものとなっていた。われわれは伝統社会的なペルソナを既に失っていたが、それに代わる「内面」を形成し始めていた。われわれは60年代の終焉とともにそれらすべてを失ったのだとしても、それが不滅の輝きを放った時間を持ちえたことは、依然としてわれわれの希望であり続けているだろう。(続く)

【2004/07/23 AK】

山ノ内のマリア (第16回)

◇マーロン・ブランドも死んだいま、改めて言及するにはいさいさか遅きに失した感があるが、去る6月10日にレイ・チャールズが亡くなった。ジョン・レノンやジョージ・ハリスンが死んだ時でもぼくには特別の感慨はなかったが、レイ・チャールズの死は何か取り返しのつかない出来事という思いが強い。ダスティ・スプリングフィールドが亡くなった時のような深い喪失感はないが、60年代音楽はいよいよ遠くなってしまった感がある。言うまでもないことだろうが、ビートルズ登場以降レイ・チャールズはこれといった名曲をひとつも生み出すことがなかった。あの光り輝いていた66年という年に「この胸のときめきを」という名曲名唱を送り出したダスティ・スプリングフィールドとは違って、60年代も後半に入った頃にはレイ・チャールズはもうほとんど過去の人となっていた。しかしぼくにとってレイ・チャールズは60年代音楽の黒幕とも言うべき存在だった。

◇ぼくがレイ・チャールズという音楽家を初めて意識したのは中学三年の時だった。その頃は「ホワッド・アイ・セイ」、「旅立てジャック」、「アンチェイン・マイ・ハート」といったレイ・チャールズの名曲は、まだ過去のものとはなっていなかった。それどころか、それまで日本のポピュラー音楽ファンにとってほとんどわけの分からない音楽だったレイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」の"新しさ"が、ビートルズというフィルターを通すことでやっと理解されるようになった時期でもあった。ぼくが「ホワッド・アイ・セイ」を初めて聴いたのは、クリフ・リチャードのカバーによってだった。それはぼくが中三の夏休みのことで、第8回目に述べた日本を代表する財閥の創業者一族と同じ名前を持つ小学校時代の友達の家においてだった。ぼくにはクリフ・リチャードの歌う「ホワッド・アイ・セイ」は、ただ闇雲にシャウトしたりうめいたりしているだけの音楽に聞こえた。

◇ぼくにはそういう音楽が世の中に存在することが信じられなかったし、むしろあってはならない音楽だという風に感じられた。しかしぼくがそういう意味のこと(「この曲にはフォルムも何もないじゃないか」云々)をその友達に言っても、彼はただニヤニヤしているだけだった。「嫌なら聴かなければいいじゃないか」ぐらいのことは言ったかもしれないが、ぼくは納得することができず、そのドーナツ盤を彼の家の近くに住む小学校時代の別の友達のところに持ち込んで、その友達にも聴かせることにした。彼は少し不良がかったところのあるまことに率直な少年で、しかもナルシソ・イエペスの「禁じられた遊び」を完璧に弾きこなすギターの名手でもあった。だから彼なら納得の行く答えを言ってくれるに違いないと思ったわけだ。しかしその彼はレイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」をすでに知っていたらしく、ぼくがクリフ・リチャードの「ホワッド・アイ・セイ」をかけると、彼はレコードに合わせてツイストを踊りながら歌ったあとで、「クリフ・リチャードもかっこいいよ」と言った。

◇その後ぼくはレイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」だけでなく「旅立てジャック」や「アンチェイン・マイ・ハート」も主にラジオで聴くことになるが、初期ビートルズの音楽的な核をなす部分を最も純粋に体現しているのがレイ・チャールズのそれら一連の名曲であることを理解して行った。しかしビートルズはリトル・リチャードの曲はいくつもカバーしているのにレイ・チャールズはカバーしていない。ぼくの想像では、クリフ・リチャードと同じことをしたくなかった、ジョン・レノンがレイ・チャールズを好まなかった(ポール・マッカートニーは大好きだったと思う)などの理由が考えられるが、初期のビートルズがレイ・チャールズの音楽の核心的部分の継承者であることは間違いないと思っていた。そういうわけで、ぼくにとってレイ・チャールズは60年代音楽の後見人のような存在となった。逆の意味でクリフ・リチャードにも似たところがあった。少なくとも初期ビートルズについて言えば、メンバーたちがクリフ・リチャードを意識して振る舞っているところがあった。

◇クリフ・リチャードがカバーした「ホワッド・アイ・セイ」は、いま聴けばかっこいいロックンロールということになるのだろうが、初めて聴いた時のあのとまどいと嫌悪感はいったい何だったのだろう? レイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」の日本盤が出た時の邦題は「なんと言ったら」だったが、「この曲自体、なんと言ったらいいのか分からない黒人音楽の魅力を湛えていた」というレビューを『POPS名曲名盤』(スイング・ジャーナル社)で読んで、「なんと言ったらいいのか分からな」かったのはぼくだけではなかったことを知った。しかしクリフ・リチャードのあの歯切れのいい発声で歌われる「ホワッド・アイ・セイ」は、レイ・チャールズのそれとはまた別ものだったのではないか? ビートルズが登場したあとでクリフ・リチャードの曲がアメリカと日本でほとんどヒットしなかった理由は分からなくはないが、そのこと自体が面白いテーマになりうるのではないか?

◇ぼくはプレスリーに興味を持ったことは一度もないが、当時それぞれの国のプレスリーと呼ばれていたクリフ・リチャード、ボビー・ソロ、ジョニー・アリディにはそれなりに関心を持っていた。ぼくなどはポールやジョンと同じレベルでクリフ・リチャードのことをクリフと呼んでいたほどだ。しかしそれも65年いっぱいぐらいまでの話で、ボブ・ディランやバーズやサイモン&ガーファンクルやママス&パパスが全米チャートの常連になった66年の春頃には、クリフ・リチャードは日本ではほとんど過去の人となっていた。この境界は、ぼくが脳天気で軽い時代感覚と言っているものが全面化した時期とその前の時期とを分ける境界とも重なると思うが、いまから考えると、それはまたジョン・コルトレーンがあの偉大なカルテットを捨てて、コレクティヴ・インプロヴィゼーションとフリー・ジャズを全面的に採用して最後の攻撃に移った境界の時期とも重なっていた。

◇少しあとで知ったことだが、「禁じられた遊び」を完璧に弾きこなしたあの不良っぽい友達はジャズ・メッセンジャーズのファンキー・ジャズの大ファンだった。そういうことなら、彼がレイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」を知っていたのも当然だった。ジャズ・メッセンジャーズもレイ・チャールズも、ベースにあるのはゴスペル・ミュージックには違いなかったのだから。また彼のお兄さんが大学のジャズ・バンドのベース奏者をやっていて、そのかっこいい兄貴の影響とは言え、小学生時代から彼がどこか洗練された不良っぽさを身につけていたのも納得が行く。彼はいわゆる不良とは違うヒップなビートニクぶりを装っていたのだと思われる。ぼくはどんな女の子を相手にしても少しも臆することがなかった彼にあこがれていたが、66年以降彼はどういう生き方をしたのだろう? 彼は自殺した『青春の墓標』の奥浩平によく似た、いかにもお坊ちゃんといった風情の頭の良さそうな少年だったが、「学校の成績がまったく駄目なんです」と彼のお母さんはよくこぼしていた。

◇彼の「クリフ・リチャードもかっこいいよ」という言葉にぼくは強く説得された。いまから思えば、彼のそのひとことがぼくをして急速にビートルズへと傾斜させて行くきっかけだったのだと思う。ぼくはその中三の夏休みに、財閥の創業者一族と同じ名前を持つ小学生時代の友達と一緒に、鎌倉の小学校で開かれていた学習塾に通っていた。そこでこの物語の第1回目に述べた中三女子三人組と知り合ったわけだが、ぼくが好きになったそのなかの女の子に対してどうアプローチしたらいいかについて、その不良っぽい友達に相談して彼の教えを請うことにした。もちろん先生が良くても生徒が駄目では話にならないわけで、ぼくが彼女にあっさり振られたことは前にも述べた通りだ。またそこでも触れたように、その三人組のひとりで由比ガ浜に住む女の子の家に遊びに行って、彼女にビートルズの素晴らしさを教えられた。それでぼくは一息にビートルズのファンになって行くわけだが、それはその前に「ホワッド・アイ・セイ」の一件があったからであることは間違いない。

◇65年から66年にかけての時期にあったと思われるあの境界の話に戻ると、それはデビッド・リースマンの言う「内部指向型」から「他人指向型」への人間類型の転換であったとも考えられるが、日本にかぎって言えば、「伝統指向型」⇒「内部指向型」⇒「他人指向型」という三段階の転換が凝縮して生起した時期と言えるかもしれない。思考の類型で言えばサルトルやメルロ=ポンティからモーリス・ブランショやジャック・デリダへ、日本であれば小林秀雄や花田清輝から吉本隆明や廣松渉へ、という風にいちおうは言えるだろう。もっと一般的なレベルで言えば、ビートニクからヒッピーへ、あるいは党派的活動からベ平連型運動へ、ということが言えるかもしれない。ぼく自身はヒッピーとベ平連が大嫌いだったから、そういうことはあまり考えたくないが、少なくとも高度経済成長まったっだなかの日本では、ヒッピーやベ平連が青少年たちを広く捉えることはなかったと思う。幸いなことに、日本では"カルチャー"も内面化されて行ったと思われる。(続く)

【2004/07/03 AK】

山ノ内のマリア (第15回)

◇前回の話で天地真理の歌に触れたが、それは最近読んだ金子修介という映画作家が書いた『失われた歌謡曲』(小学館)という本に負っている。ぼくがそこで言ったようなことがその本に書かれているわけではないが、金子修介による天地真理の再評価にはいたく感動させられた。それでその本に促されるように天地真理のCDを買って「水色の恋」を改めて聴き直したところ、われわれが「さよならの言葉さえ言えなかった」理由を、天地真理がわれわれに代わって言ってくれていたことを知った。前回ぼくは「白雪姫みたいな心しかないわれわれ」ということを冗談で言ったのではない。実際、60年代のある時点からわれわれはおとぎ話の世界を生きていたようなところがあった。ぼくは前にそれを日本の市民社会化と言ってみたのだが、もちろんそう言うだけでは充分ではなかった。われわれが伝統社会のしがらみから解放されて市民社会の一員になったと感じた時、同時に私的生活からも自由になったように感じていたのではなかったかと思われる。

◇この物語でぼくの小学四年と中学三年の時の出来事については何度も触れているが、そのあいだの4年間については薄明のなかのこととして片づけて来た。語ることがないわけではないのだが、それぞれの出来事の脈絡や意味がまだよく分からない。と言うか、それについてはこの物語の第6回目に述べたように、自然的世界へとずっぽり埋没していた第一次的な自己から内面が離脱して行く過渡期と考えるのがいいと思われる。そうした動物とも人間ともつかない薄明の状態が4年も続いたというのは普通ではないことのかもしれないが、それが日本の市民社会化の時期と重なっていたのだとすれば納得も行く。つまりその時期は伝統的な内面形成モデルが失われて、新しい内面形成モデルが生まれて来る過渡期だったのではないかということだ。そう考えると、ぼくが高一の時にサベージの「いつまでもいつまでも」をはじめとする脳天気で軽い音楽がいっせいに登場して、当時の青少年たちから圧倒的な支持を受けた理由も見えて来る。

◇ぼくが内面と言っているのは、人間の自己形成過程において選び取られる第二次的な自己とでも言うべきもので、一般にアイデンティティーと呼ばれているものと重なる。それは趣味や気質であったり、生き方のスタイルであったり、考え方であったりするわけだが、日本人に2人に1人が「農民」であったような高度成長時代以前の日本においては、どれほどエキセントリックなものであっても、生活者の「責任」感覚とぎりぎり折り合えるような内面が求められただろう。もちろん革命家、冒険家、山師、賭博者、職業的犯罪者、性倒錯者、詩人、批評家といった例外的で特殊な内面の持ち主たちはいつの時代にもいただろうが、彼らが日本社会の多数派であったとはまず考えにくい。しかしビートルズの登場は内面をめぐるこうした状況を一変させた。彼らは生成途上のわれわれの内面を直撃した。そしてビートルズはわれわれ自身の「物語」となった。われわれがよく知っている「終わりの始まり」はここから始まったと言っても過言ではない。

◇60年代後半の大衆反乱の世界同時性ということは、こうしたビートルズの登場とそれに続くいわゆるブリティッシュ・インヴェイジョン、更にフォーク・ロックの反撃、R&Bの隆盛といった60年代音楽の「爆発」を措いては首尾一貫性をもって理解することは難しい。つまり日本における市民社会化という出来事は、日本の青少年たちにおいては、ビートルズやボブ・ディランの音楽が与えたメッセージや啓示、及びそれらがもたらした自分たちこそ時代の主人公であるといった気分、更にそれは世界同時的な現象であるという確信によって「実質」が与えられたということだ。こうして伝統的な内面形成モデルは一気に過去のものとなった。地縁的・血縁的な共同社会はもとより、テレビをはじめとするメディアの端末と化しつつあった家庭も、もはやわれわれの内面に実質を供給しうる場ではなくなった。学校が空洞化・崩壊するにはもう少し時間を要したと思われるが、日本における新しい始まりの終焉がこうした「廃墟」を残したことも忘れるわけには行かない。

◇少し脱線するが、ここまで書いたところで四方田犬彦という批評家が書いた『ハイスクール1968』(新潮社/2004年2月25日発行)という本を読んだ。この著者が書いたものを読むのは初めてだが、村上龍の小説『69』に匹敵するぐらいの面白さだった。四方田犬彦はぼくより学年が2つ下で、中学と高校が教育大付属駒場、1年通った予備校が駿台、大学が東大文三といった具合で、当時の典型的なエリート校を歩んだひとりと言える。著者自身のまとめによると、68年4月に高校一年に進んだ時点で「あらゆる点において模範的な優等生」だった著者が、どうして4年後には「かつて自明だと信じていたすべてのもの」を喪失していたのか、ということがこの本に書かれている物語だということだが、ぼくの印象を言うと、どうも話がミクロに過ぎるのではないかと感じられた。もちろん頭が良くて感受性の豊かな15才の少年が、68年という恐るべき年を東大駒場のすぐ近くの教育大付属高校で過ごすということがどういうことなのかはぼくにもよく分かる。

◇しかし、四方田犬彦がいちばん書きたかったことが、69年12月の教育大付属駒場高校のバリケード封鎖をめぐる筆者自身の「気持ち」を中心とした出来事だったということになると、ぼくにとってはもう理解の外という感じがする。ミクロに見て行けばわれわれは大なり小なり傷を負ったのだろうが、自由の空気はそういう私的なこだわりを吹き飛ばしたというのがぼくの理解だからだ。但し、秋期決戦が終わった69年12月には自由の空気はもう消え去っていた可能性は大いにあるわけだが・・・。改めて触れる機会もあるかもしれないが、ぼくの通っていた田舎のミッション・スクールでもぼくが高三の秋頃に反乱の真似事みたいなことが起きた(起こした)ことがあった。クラスのはね上がり分子たちとはかって社会科の授業をクラス討論に切りかえることを要求したら、教師はそれを黙認した。内容はよく憶えていないが、その教師が担任だったクラスの生徒で以前退学になった者への処分をめぐる質問が中心だったと思う。しかし、教師と学校へのわれわれの回答要求にクラスの大半が同調するらしいことが確認できたところで、ぼくはもう充分だろうと判断した。

◇結局われわれは何事もなかったような顔で、残り半年となった高校の日常を受け入れることにした。われわれにとってそれは初歩的な政治のレッスンでしかなかったわけだが、68年秋頃の沸騰点の低さは予想を超えるものだった。ささいなテーマでも多くの者が進んで討議に参加し、発言しようという姿勢を見せた。しかしそれは日常のホームルームなどではやはり駄目なのであって、われわれの「世界建設能力」(ハンナ・アーレント)が引き出されるには、授業をつぶすという非日常的な行為が要求された。ぼくが脳天気な軽さとか自由な空気とか言っているのは、そういう非日常的で自由な空間がわれわれの手の届くところにあるという予感や確信の強さのことを言っているのであって、われわれの私的な日常がそうだったという意味ではない。当時のぼくの日常が四方田犬彦のそれよりも更に愚かしく恥多きものであったことについては、必要があると思えば語ることもあるだろう。但し、それは当時われわれが保持しうると考えていた「共通世界common world」(同)に対応し、それを支えるわれわれの内面に関わるかぎりにおいてということだが。(続く)

【2004/06/30 AK】

山ノ内のマリア (第14回)

◇当初ぼくは深い考えもなく66〜67年頃の日本の時代感覚のことを「脳天気な軽さ」と呼んでみたのだが、その感覚は「自由が姿を現わすことのできる空間」(アーレント)へと通じていたと考えられる。しかし日本の社会から自由な空気が消え去り、われわれが「生きた屍」(同)と化してからでもすでに30年以上が経過しているわけだから、それを準備した時期の感覚を正確に再現・表現することは意外に難しい。それに68〜69年の全共闘運動を中心とした記録や回想のたぐいはいろいろ出ていても、その前の時期の話となると、ビートルズ来日騒動など個々の出来事が中心になっていて、その時代をおおっていた感覚については充分考慮されて来たとは言いがたい。とは言え、当時の青少年たちを「異常なるものへの冒険」(同)へと導いたものこそあの時期の「脳天気な軽さ」だったという仮説の正しさはますます動かしがたいものに思われる。

◇しかしそうは言っても、「自己否定」という言葉に代表される脳天気でも軽くもない全共闘的な発想がメディアを通じて流布された事情もあり、新左翼系の知識人などを含めて、そこで追求されたものが「自由がその魔力を広げることのできる空間」(同)の創出にあったことさえよく理解されていたとは言いがたい。更に新左翼系知識人と言われるひとびとの多くはレーニン主義的組織というものを嫌悪していた。だからセクト色の強い新左翼諸党派はインテリたちから嫌われていた。インテリたちは言葉による説得を主張し、ゲバルトの行使はないに越したことはないと考えていた。しかし脳天気な軽さを身につけた当時の青少年たちはそうは考えなかった。軽くて脳天気な彼らのノンポリ的感性は、「やってみなければ何も始まらない」という新左翼諸党派のパフォーマティヴな冒険を断固として支持することで、戦後日本に初めて新しい始まりが生まれた。

◇そういう意味では、東大全共闘や新左翼系知識人の多くが伝統的な意味での左翼だったとすれば、当時の青少年の多数派と一時期の新左翼諸党派は、左翼という枠から外れていたと言えるかもしれない。実際われわれはマルクスやトロツキーを好んで読んだが、それはマルクスたちが政治というものをアーレントの言うアゴニスティック(闘技的)な行為・活動と捉えていたからであって、彼らの共産主義思想については「かっこに入れて」いたような気がする。われわれにとっての最重要のテーマは、当時われわれが実感していた伝統社会のしがらみや戦後的イデオロギーからの解放を「完成」させることだった。そのことについてわれわれが充分に意識的だったとは言えないが、ビートルズのメッセージなどを通じて、「個人の解放とは、社会からの解放ではなく、原子化からの社会の解放である」(ホルクハイマー)ことは理解していた。

◇前回、伊豆高原のユ−ス・ホステルにおけるフォーク・ソング学生との未遂に終わった戦いの話をしたが、その時期においては未遂を含むそうした戦いは日常茶飯事だったのではないだろうか? 具体的な戦いや未遂がと言うよりは、そうした戦いを辞さない気分がという意味なのだが・・・。いま自分たちが解放された一個の個体としてあるのは、自分たちの手で何かを創り出して行くために違いない、といった確信や気分が当時の青少年たちのあいだに満ちていたのではないかということだ。前にその年の初夏に大ヒットしたサークルの「レッド・ラバー・ボール」(ポール・サイモン作)に触れたが、たしかにあれこそ失恋の痛手からの回復という物語を借りて、われわれは一個の個体として自由へ向けた戦いの準備はできているという気分を歌った曲だった。「レッド・ラバー・ボール」の主人公は朝の太陽とともに高揚した気分で未来を展望していた。

◇「レッド・ラバー・ボール」の日本版とも言うべき(?)サベージの「いつまでもいつまでも」(佐々木勉作)が発売されたのは前者がヒットしていたその年の7月1日だった。「いつまでもいつまでも」が「レッド・ラバー・ボール」の日本版だなどと言うと、「冗談じゃないぞ」という声が聞こえて来そうだが、少なくともぼくにとってはそうだったという話だ。いずれも極上のCMソングを思わせるキャッチーな軽さを身上としており、何よりもあの時代の脳天気な軽さをすくい取っていた。しかし「いつまでもいつまでも」には「レッド・ラバー・ボール」のメッセージがないぞとも言われそうだが、ぼくにとっては日本的な湿度と粘性と重さとあか抜けなさを完全に排除した作風と、何も考えていないあの歌だけで充分だった。イントロの口笛も素敵だった。いずれにせよ、この曲がその夏に大ヒットしたことでそれがぼくひとりの印象ではなかったことが事実として証明された。

◇人類史上に前例のない60年代日本の高度経済成長は、それまでの日本社会を支えていた地縁的・血縁的共同体の解体をもたらした。現実の過程がそれほど単純なものであったはずはないが、われわれにとってそれはゲマインシャフト的な共同体が解体してゲゼルシャフト的な組織・機構が立ち上がって行く過程として実感された。この物語の第7回目にも言ったように、ぼくの住んでいた山ノ内においては伝統社会の自治・統治・統制が急速に公的機関による統治・指導へと変わって行った。こうして60年代のわれわれは、それまでの粘着質で超強力な同胞意識や帰属感覚から解放されて、法的な主体へと組み替えられて行った。もちろんそれはわれわれがアトム的な個人となって行った過程でもあったわけだが、ともかく、そうした社会的な過程がわれわれの感覚や意識にまで及んだのが60年代の半ば頃だったと思われる。

◇そうしたわれわれの感覚や意識の変化は、日本の60年代のヒット曲を追うことによっても跡づけることができるはずだが、66年夏に登場したサベージの「いつまでもいつまでも」が持つ前代未聞の軽さと湿度や粘性のなさは、ほとんど革命的でさえあった。寺尾聡の歌い方もあまりにも軽くて脳天気なものだから、よく聴かないとそれが失恋の歌であることさえ理解できないほどだった。結局、当時のわれわれの脳天気な軽さというのは、われわれ自身の法的責任権利主体としての自覚の感覚にほかならなかったと考えられる。われわれが法的責任権利主体である以上、われわれは政治・社会へとコミットして行かなければならない。あるいはわれわれにはそうする責任と権利がある。こうしたわれわれの意識と感覚が、われわれをして許容しえないものに対する「戦い」や自由の空間の創出へ向けた「異常なるものへの冒険」へと導いて行った。

◇話は飛ぶが、日本の社会から自由な空気が消え去ったことを最終的に告げた歌は、いまから思えば天地真理の「水色の恋」だったと思われる。実際われわれは「さよならの言葉さえ言えなかった」。何故なら、われわれ暴力学生も「白雪姫みたいな心しか」持っていなかったのだから(ホントかよ?!)。ぼくはつい最近まで気づかなかったのだが、この歴史的な名曲名唱はあの連合赤軍事件の少し前に発表されていた。そして連合赤軍リンチ粛清事件の発覚直後に、天地真理の「ひとりじゃないの」が発売された。あなたたち暴力学生は「白雪姫みたいな心」も失ったようだけど「ふたりで行くってすてきなこと」という生き方もあるわよ、ということをわれわれにこっそり教えてくれたわけだ。まったく真理ちゃんの言う通りだった。自由と内面を失ったわれわれにはもう私的な幸福しか残されていなかった。それでもわれわれは依然として軽かったわけだが・・・。

◇ところで69年には、相良直美「いいじゃないの幸せならば」、弘田三枝子「人形の家」、新谷のり子「フランシーヌの場合」、千賀かほる「真夜中のギター」、アン真理子「悲しみは駆け足でやってくる」、ちあきなおみ「雨に濡れた慕情」、ピーター「夜と朝のあいだに」といった一連の終焉ソングが流行った。たしかにそれらの歌は日本から自由な空気が消えようとしていたことを告げてはいた。東大安田講堂は落城していたし、警察の機動力・警備力は飛躍的に向上していた。しかしそれらは赤軍派登場や秋期決戦のBGMではあっても、まだ本当の「暗い時代」(アーレント)の到来を告げていたわけではなかった。とは言え、当時の青少年たちの快活な行動力だけでは次の段階へ進めないことも明らかになりつつあった。結局彼らはそこから一歩も進めなかったわけだが、それを最終的に告げたのは、相良直美たちではなく天地真理だったということだ。(続く)

【2004/06/22 AK】

山ノ内のマリア (第13回)

◇66〜67年頃の軽くて脳天気な日本の時代感覚は68年の自由な空気を生み出したが、「自由が姿を現わすことのできる空間」(ハンナ・アーレント)の消失とともにそれは霧散した。70年代初頭にはその余韻が多少感じられはしたものの、日本に充満していた自由の魔力は跡形もなく消えていた。われわれのあいだに満ちていたあの空気や感覚や幸福感はもはやどこにも存在しなかった。こうしてわれわれは世界へと向かういっさいの手掛かり・足掛かりを失って、それぞれの自己へと投げ返された。と同時に、これから自分が生きて行く未知の領域においては、あの「人間は決してひとりぼっちではない」という啓示に導かれた内面など何の役にも立たないのだということを、各自が自分に言い聞かせるしかなかった。そこでいったい何が起きたのかをわれわれはほとんど理解できなかったが、自分たちがもはや自由でないことだけはよく分かった。

◇しかし、60年代の終焉とともに自分たちと世界にいったい何が起きたのかを明確に認識できた者がいたのだろうか? もしそういう人がいたら是非教えていただきたいと思っているが、もちろんそれを明らかにして行くことがこの物語の中心的なテーマになるだろうことは自覚していた。そのことを過不足なく説明できる人物がいるとすれば、ハンナ・アーレントを措いてはいないだろうというのがぼくの予想だったわけだが、彼女によれば自由の出現の方も「予期に反して」われわれを襲うものであるらしい。この物語には教訓のようなものは含まれていないはずだが、アーレントの言う「世界疎外」から自由な行為としての世界形成へ向けた活動へという60年代の転回は、アーレントの政治理論をそっくりなぞっていたように思われる。ともあれ、まずは66年頃の日本に生起したと思われる新しい始まりに先立つ出来事が理解されなければならない。

◇ぼくは高一の夏休みに部活の仲間たちと一緒に伊豆に遊びに行ったことがあった。修善寺の近くの湯ケ島に一泊したあと、天城山系を南から北へ縦走して伊豆高原に抜けるというコースを歩いた。われわれはお祭り気分で山に登り、当時流行っていた加山雄三の「君といつまでも」などを大声で歌いながら天城山を縦走した。湯ケ島と同様その日の宿もユース・ホステルだったが、伊豆高原にあるその施設は設備の整ったホテルみたいだった。われわれはそこでどこかの大学のフォーク・ソング・クラブの集団と出くわした。彼らはほぼ全員が額の上の髪をひさしのようにしたいわゆるアイビー・ルックの学生たちだった。当時のユース・ホステルでは宿泊者たちが一同に会して親睦会のようなことをやる慣習があって、これは不愉快なことになるかもしれないなと思っていたら、案の定彼らがその夜の集まりを仕切ろうとしていた。

◇われわれは高校生だったわけだから、大学生である彼らのリードに従うのが順当だったのかもしれない。しかし、みんなで歌(フォーク・ソング)を歌おうという彼らの提案は、われわれとしては承服しがたいものだった。何度も言っているように、ぼく自身は中三の頃フォーク・ソングが大好きだったが、全員がマイク真木みたいな格好をした集団と一緒になってフォーク・ソングを歌うなどというのは想像することもできなかった。それはぼくひとりの思いではなく、ぼくの仲間のみんなが思っていることでもあった。彼らが歌を歌いたいなら自由に歌えばいわけだが、われわれをそれに巻き込もうというのは信じがたい話だった。そんな権利は誰にもないはずだし、だいたいわれわれが日本人であることを措いて、ウッディ・ガスリーの「我が祖国」を合唱するなどということは考えられないことだった。しかし彼らはそういうことをわれわれにやらせるつもりでいたらしい。

◇フォーク・ソング学生たちが何を考えていたのかよく分からなかったが、彼らの提案を他の宿泊者たちがどう思っているかについてほとんど頓着していない様子だった。なるほどボブ・ディランがアメリカのフォーク・ソング・コミュニティーに嫌気がさして、フォーク・ロックを始めたのにはこういう事情もあったのかもしれないな、ともぼくは考えた。そして彼らが自分たちの提案をわれわれに押しつけようというのなら徹底的に戦ってやろうじゃないかと思った。しかしぼくの仲間たちは、「要するに彼らは女にモテたいんだよ。フォーク・ソングでナンパするつもりなんだよ。そういう連中に向かってお前が考えているようなことを言ったって通じるわけないよ。」というような顔をしていた。多分ぼくの仲間たちは正しかったのだと思う。それで結局、「疲れてるから」とか「眠いから」とか適当なことを言ってわれわれは退散したわけだが、残された他の宿泊者たちはどうしたのだろう?

◇当時のぼくの仲間たちがとりわけ反抗的で個体性を主張する人間たちだったわけではない。それどころか、敬虔なキリスト教徒もいたし(ぼくの通っていた学校はカトリックの学校だった)、ぼくとは違ってよく勉強のできる優等生もいた。しかしぼくが許容できないと思うことについては、彼らは彼らなりの立場から同じように考えることが多かった。そう言えば、当時敬虔なキリスト教徒だった仲間のひとりとは、高校卒業後に清水谷公園でばったり出会ったことがあったが、その時彼は赤いヘルメットをかぶっていた。彼は赤ヘル集団の幹部になっていたらしく、学生たちに向かってアジテーションをやっていた。彼が当時のぼくの仲間たちの典型だったわけだが、伊豆高原のユース・ホステルでフォーク・ソング学生と戦わなかったことは、少なくともぼくのなかではひとつの悔いとして残った。彼らと戦うこともできなかったぼくが自由な人間と言えるのだろうかと。

◇しかし悔いとは言ってもいい加減なもので、翌日小室山の頂上から伊豆諸島の鮮明な連なりを目にした瞬間に、前日そういうことがあったことも忘れた。まるでその時間だけ空気のヴェールが吹き払われたような印象で、房総半島や南アルプスの細部までが手に取るように見えた。小室山から見える範囲のすべてが異常なほどの鮮明さで見渡せた。その夏休みには油壺の近くの学校の海の家でも、それまで見たこともない恐ろしく透明な海水に遭遇していたから、ぼくは有頂天になるとともに少し怖くもなった。「人生の真昼」と言われるものはこういうものなのかもしれないな、とも思った。但し、ぼくの場合その「真昼」は更に3年以上引き伸ばされたわけだが・・・。ともあれ、66〜67年頃の脳天気な軽さには、その夏休みにぼくが体験した自然現象に似た圧倒的な透明感があった。それはわれわれが個体であることの軽快な自由さとして実感されていた。

◇ここでついでにボブ・ディランが去った後のアメリカのフォーク・ソング・シーンを簡単に振り返っておくと、オークランド蜂起に至る過程で逮捕されたジョーン・バエズや、68年8月のシカゴの街頭戦のあいだ「戦場」となった公園で歌を歌っていたPPMに代表されるように、彼らがカウンター・カルチャーに吸収されることなく政治志向を貫いたことは評価されてよい。しかしそこには「異常なるものへの冒険」(ハンナ・アーレント)、あるいは「偉大で光り輝くもの」(同)をもたらす行為を行なっているという意識や感覚はほとんど見られなかった。われわれが65年に始まるボブ・ディランやバーズのフォーク・ロック路線をよく分からないまま支持したのは、新しい始まりをめぐる分岐点がそこに認められたからなのかもしれない。いずれにせよ、フォーク・ソングの生命力は65年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルあたりで終わっていたと考えられる。(続く)

【2004/06/17 AK】

山ノ内のマリア (第12回)

◇ぼくの中学高校時代の鎌倉在住の有名人と言えば、まず内藤洋子が挙げられる。黒沢明監督の「赤ひげ」で映画デビューを果たし、のちにランチャーズの喜多嶋修と結婚してアメリカに渡ったあの内藤洋子だ。彼女はぼくと学年が同じで、しかも山ノ内にある女子校に通っていた。ぼくは「赤ひげ」を観ていないし、彼女のファンというわけでもなかったが、同学年の女優(少しあとに「白馬のルンナ」という曲で歌手デビューもした)ということで気になる存在ではあった。ぼくがマリアと知り合う少し前だったと思うが、北鎌倉駅の下りホームの出口近くで学校帰りの内藤洋子と出くわしたことがあった。彼女はテレビや写真で見慣れていたあのおでこの広い内藤洋子には違いなかったが、正面から真近に見る実物の輝きは特別だった。その頃ぼくはマリアを凌ぐ美少女はいないだろうと思っていたが、それが誤まりであったことを即座に理解した。

◇そして、マリアが駄目でも内藤洋子がいるさ、などとわけの分からないことを考えたりもした。それにしても彼女はその時ひとりだったわけだから、サインのひとつももらっておけばよかったなあ、と後になって思った。サインはもらえなかったかもしれないが、少なくともそれを口実にして話をすることができたわけだし、彼女の家に電話をかける口実を作ることもできたかもしれなかった。それで彼女が電話に出たとも思えないし、どう転んでも駄目に決まっていたが、トライしなかったことが悔やまれた。その当時アイドルという言葉は一般的ではなかったと思うが、われわれの年代の者にとってのアイドル的な存在としては、内藤洋子のほかに、四人姉妹を主人公にしたテレビ・ドラマ「娘たちはいま」で末娘を演じた尾崎奈々や、「ヤング720」で小柳徹と一緒に司会をやっていた小山ルミなどがいた。三人ともあの時代に特有の感覚と輝きを持っていたと思う。

◇さて、68年頃に日本に満ちていた自由な空気の話に続いて、前回は66〜67年頃の脳天気で「軽い」日本の時代感覚の話をしたが、言うまでもなくそれは後者を条件にして前者が生み出されたという風につながる。ぼくは高校時代の終わり頃、マルクスの『経済学批判序説』の序文にある「ひとはみずからの解決しうる問題のみを提起する」という意味の一節を読んで、自分がそれまで感じていたことをマルクスが言っていると思った。ぼくは中三の夏頃に「われわれは決してひとりぼっちではない」というビートルズのメッセージに接して以来、ぼくも時代もビートルズによって「提起」された「問題」に沿って進んで来たと感じていた。ひとはその時点で提起されていないことを行なうことも考えることもできないわけだが、すでに何かが行なわれ・考えられている以上は「解決」は近いのかもしれない、という風にマルクスの言葉と出会ったぼくは考えた。

◇マルクスのその言葉はいろいろなレベルで解釈できたが、ぼくはまた「やってみなければ何も始まらない」、あるいは「やってみなければ何も分からない」という風にも理解した。60年代の新左翼諸党派は世界観を結集軸にしたイデオロギー政党のようにも見えたし、実際彼らはプロレタリア世界革命の前衛を自認していた。しかし彼らは「やってみなければ何も始まらない」という非合理的な考えに取りつかれたかのように、10.8羽田の突出を敢えて行なった。それから1年間彼らがやったことは「自由がその魔力をひろげることのできるような空間」(ハンナ・アーレント)を創り出すことだった。そうであるが故にこそ、伝統社会や既存のさまざまなしがらみから解放されて、そこから新たに始まるであろう出来事に対して準備ができていた当時の青少年たちは、それを熱烈歓迎した。このようにして60年代の新しい始まりが生まれた。

◇66〜67年頃の軽くて脳天気な時代感覚がどういう風にして68年の自由な空気へと変わったのか、そして、何故そこにおいて脳天気でも自由でもないマルクス・レーニン主義を綱領とする新左翼諸党派がヘゲモニーを確立できたのか、ということはこれまでの話ではよく分からないかもしれない。しかし、ハンナ・アーレントのマルクス批判にもかかわらず、マルクスの思想には「本質主義」や「アイデンティティーの政治」を打ち破る一面があることは、『経済学批判序説』の序文を見るまでもなく、当時のわれわれには自明のことだった。マルクスがパフォーマティヴな政治思想家ではないのだったら、マルクス主義を標榜する新左翼諸党派が、われわれノンポリを強く惹きつけることもなかっただろう。そして60年代左翼としての新左翼にとっても、自分たちが依拠しうる広範な大衆的基盤は当時の青少年たるわれわれ以外ではありえなかった。

◇つまり、人間のアイデンティティーや本質を重視する考え方を文部省的・中教審的な発想と見なして、これを拒否し軽蔑さえした当時の青少年たちの脳天気な軽やかさが、新左翼の「パフォーマンスの政治」と合体することで、68年の自由な空気が生まれたという風に理解できるということだ。それは当時の青少年たちのすべてが軽いひとびとだったという意味ではない。人間の本質やアイデンティティーについて真剣に考える真面目なひとびともいた。そういうひとびとは自分が「社会の歯車」として生きて行くことに悩んだ揚句、生きるためと割り切って官僚や企業のサラリーマンたるべく、時代の軽さから自分を引き剥がして行ったかもしれない。あるいは、東大全共闘の「自己否定」に見られるような「アイデンティティーの政治」にこだわる軽やかでないひとびともいることはいた。しかし、そういう発想をする者たちは当時にあっては少数派だったと思う。

◇それは主に前回述べた当時の青少年たちの幸福観によっていた。60年代の日本の高度成長時代のような変化とそのスピードは人類がそれまで経験したことのないものだった。自分の生活が変わって行くこと、しかもより豊かに変わって行くことが目に見える時代だった。それは日本が敗戦の焼け野原から出発してたった20年後のことでしかなかった。ぼくが生まれた頃は日本人の二人に一人は「農民」だったが、東京オリンピック後の日本は、ぼくが幼稚園に通い始めた神武景気の前と比べてもまるで別世界だった。しかも作れば作るだけ売れた時期のあとの、生活の質的高度化が追及され始めた時代だった。青少年の日常に関するかぎり、いまの日本とほとんど違いが感じられないところにまでやって来ていた。だから、ビーチ・ボーイズなどの歌うカリフォルニアの風物は、われわれにとっては海の向こうのお話などではなくなっていた。

◇当時の青少年たちは生きる「必要」という次元からほとんど解放されていた。そして伝統社会風の古色蒼然とした地域や町が、東京オリンピックの前後数年のうちに近代的な街並みへと変貌を遂げた。現実の市民社会化よりも、そうした見た目の変貌の方が劇的だったかもしれない。こうして単なる中学生・高校生でしかなかったわれわれも、市民社会の一員になったつもりになることができた。われわれは伝統社会のしがらみや既存の価値観から解放されて、アトム化された諸個人になって行っただけなのだが、そのことがもたらした解放感は強烈だった。われわれは自分たちの意思でもっと決定的な何かを付け加えることができるのではないかと感じ始めていた。これが当時のわれわれの幸福感の底にあるものだった。われわれが「やってみなければ何も始まらない」という脳天気な構えを好んだのも、そのことに由来していたと思う。(続く)

【2004/06/10 AK】

山ノ内のマリア (第11回)

◇日本における60年代の新しい始まりは、無から何ものかが生まれた「10.8羽田」を起点にしていた。当初それは新左翼党派部隊の孤立した突出(実力行使)でしかなかったが、多くのひとびとがそこに目を向け、彼ら自身も急速に雪崩れをうつようにそこへ飛び込んで行くなかで、そこは自由の空間=解放区としての相貌を明らかにして行った。従って問題は何故そういうことが起きたのかということだったわけだが、そのことはこんにちに至るまで充分に解明されて来たとは言いがたい。とは言え、それは無から何ものかが生み出された出来事だったわけだから、通常の意味での因果関係が想定されてはならない。だから、この物語でも日本における新しい始まりを、そのさまざまな相貌において捉え・理解することが試みられるだろう。

◇前にも言ったように、60年代音楽の新しい始まりはビートルズの「抱きしめたい」がいきなり全米チャートに登場して、3週目にして頂点に立った時を起点にしていた。ぼくがそのことを理解したのは、それから1年半ぐらい経った中三の夏頃のことだった。ぼくはビートルズの「抱きしめたい」や「シー・ラヴズ・ユー」に「人間は決してひとりぼっちではない」というメッセージを聴いた。ビートルズの音楽に魅了された多くの少年少女たちは、そういうメッセージを聴いたひとびとに違いないとぼくは思っていたが、もちろんそれは間違っていなかった。ぼくにとってそれは究極の啓示でもあったわけだが、多くのビートルズ・ファンにとっても同じだっただろう。こうして60年代音楽の新しい始まりは、急速に日本の少年少女たちをも捉えて行った。

◇このふたつの出来事は、それが浸透・拡大・深化して行くパワーと速度と「自由の魔力」(ジョン・ジェイ)の強さにおいて、別の出来事とは思えない相似性を持っていた。多くのひとびとはそのことに気がついていたはずだが、ぼくの知るかぎりそのことを指摘した者はいなかった。この両者と相似的な出来事として1956年のハンガリー革命を挙げることは許されるだろう。それは56年10月23日の朝に始まり、12月11日のゼネスト終焉をもって終わったわずか50日間の出来事だったわけだが、そこに生まれた自由の空間(評議会=タナーチ)はブダペストからハンガリー全土へと「信じられないほどの速さ」で広がった。ハンガリー革命はソ連軍の介入によって数万人規模の犠牲者(とそれを遥かに上回る亡命者)を出したが、ハンガリー人民の英雄的な抵抗を含め、そこに見られたものが自由の出現としての新しい始まりであったことは間違いない。

◇ビートルズたちが創り出した60年代音楽の新しい始まりに匹敵する音楽史上の出来事としては、16世紀から17世紀にかけてのクラウディオ・モンテヴェルディの登場が挙げられるだろう。後にそのことをぼくに教えてくれたのはキャシー・バーベリアン(1928-83)だったが、彼女はまたビートルズの曲(「イエスタデイ」、「ミッシェル」、「涙の乗車券」など)を重要なレパートリーにしていた。両者に共通していたのは、「自由が住むことのできる新しい家を解放し、そして建てたいという熱望」(ハンナ・アーレント)だった。モンテヴェルディの音楽が創り出したものは近代の「内部指向型」人間(デビッド・リースマン)の強固な内面であったと考えられるが、近代の最終局面に登場したビートルズの場合は、「個人の解放とは、社会からの解放ではなく、原子化からの社会の解放である」(マックス・ホルクハイマー)ことをわれわれに教えた。

◇ビートルズの音楽とそのメッセージに魅了された日本の少年少女たちは、60年代音楽の新しい始まりに彼らなりの仕方でコミットして行ったわけだが、音楽創作のレベルでそれにキャッチ・アップしたのはかなり遅かった。ぼくが子供の頃の日本の音楽についてはこの物語の第6回目に少し述べたが、60年代音楽の新しい始まりを創作のレベルで意識したのは、まずアメリカン・フォーク・ソングが大好きというようなひとびとだったと思う。具体的に言うと、森山良子(「この広い野原いっぱい」)、ブロ−ドサイド・フォー(「星に祈りを」)、荒木一郎(「空に星があるように」)などで、更に、サベージ(「いつまでもいつまでも」)、ワイルド・ワンズ(「想い出の渚」)、伊東きよ子(「花と小父さん」)などが続いたのではなかったかと思われる。彼(女)らの歌はそれよりひと時代前のザ・ピーナッツや弘田三枝子の洋楽カヴァーとはかなり違うものだった。歌われる事物も「16才」や「片想い」から、「野原」「空」「星」「そよ風」「虹」「夏の日」「渚」「花」などへと変わっていた。

◇サベージの「いつまでもいつまでも」などはぼくも好んで歌ったものだが、たしかにメロディと和声の感覚は斬新だった。日常的生活実感から離脱した「軽さ」も素敵だった。あまりにも脳天気に過ぎるのではないかとも思えたが、アメリカにおいてだってサークルの「レッド・ラバー・ボール」(ポール・サイモン作)が大ヒットしたような時代だった。ママス&パパスなどもけっこう「軽い」曲をヒットさせていたし、ことに日本の場合は高度経済成長まっただなかの時代だった。10.8羽田やオークランド蜂起が起こる一年以上も前の話なのだ。ベトナム戦争や黒人暴動は、まだわれわれの視界に入って来ていなかったと思う。われわれの多くが私的な生活のなかにありながら幸福感を持つことができた唯一の時代がこの時期だったのかもしれない。しかもその頃高一だったぼくにとっては受験勉強はまだ先の話だったし、日常の生活実感など持つ必要もなかった。

◇そもそもひとが幸福感を持つのは、日常的な生活実感から自由であること、将来にわたって生活の影などが感じられないことを条件とするだろう。上に挙げた歌たちは、時代がそうした幸福感を持ちうる条件を満たしていたことを背景にしていた。もちろんぼくもそういう時代の感覚をたっぷりと楽しんだ。その感じは前に言った「もうひとりのマリア」がいつも隣りにいた小4時代のそれに似ていたが、違うのは「もうひとりのマリア」という具体的な支えに代わる時代感覚によるものだったことだ。考えてみれば恐ろしく脳天気で「軽い」時代だったわけだが、サベージたちの歌が大ヒットしたことは、それが単なる幻影ではなかったことを示している。そしてそうした具体的な支えや肉感性のなさは、当時の日本社会が伝統社会からほぼ離脱し終えたことの現われでもあったろう。日本の市民社会化が完成したのもこの時期のことだったと考えられる。この時期に美濃部革新都政が誕生しているが(67/04/15)、これもそうした時代感覚を抜きにしては考えにくい。

◇この物語の第7回目の最後に述べた日本の市民社会の輝きというのは、そうした時代感覚に関わっている。そして前回述べた日本の新左翼(60年代左翼)の膨大な予備軍たちは、この時代の感覚を身にまとった青少年たちだった。彼らはこの時期に伝統社会のしがらみから解放されて、新しい始まりへ向けたスタート台に立った。伝統社会のしがらみからの解放は、同時に戦後民主主義イデオロギーからの解放をともなってもいた。彼らは自民党はもとより社会党・共産党的な考え方からも解放されて行った。もちろん彼らはそれ自体ではアトム化された個人でしかなかったわけだが、その解放の過程はそこで終わるものではなく、むしろそこから始まるものであると感じていた。何が始まるのかはまだその時点では分かっていなかったが、それが彼らの幸福を増進させるものであることへの期待においては軽薄なまでに楽観的だった。この「軽さ」ゆえに彼らはあの無意味なカウンター・カルチャーを必要としなかった。「軽い」くせに正面突破を好んだ。いま風の言い方をすると、彼らは本質主義的な発想を斥け、パフォーマティヴな構えを好んだとも言えるかもしれない。

◇この時代の具体性と肉感性を欠いた「軽さ」こそが、日本における新しい始まりの原動力となったわけだが、それは大衆反乱の終息とともに大衆社会化の基盤へと変わって行った。それから伝統社会的なものが社会の表層から消えて行ったとは言え、それは姿を変えて生き延びたと考えられる。われわれは具体性と肉感性の欠如に自由と解放を感じていたが、新しい始まりの消失とともにそれに苦しむことになる。われわれの内面はビートルズやボブ・ディランの音楽を通じて形成されたわけだが、それは無から生まれた始原の意識のような抽象性を持っていた。それに具体性を与えたものこそ、ぼくが高一の頃の時代感覚やそれに続く時期の自由な空気だったわけだが、それが消え去ったあとであの内面を保持するのは困難だった。われわれは新しい始まりを失っただけでなく、われわれ自身の内面をも失った可能性が高い。こうして大衆社会が日本を覆い尽くして行くわけだが、その問題の源は「すべてが起きた」あの時代にあったと考えられる。(続く)

【2004/06/04 AK】
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