21世紀音楽展望(2)

エゴ・ラッピンの新作のことなど。     


当初このコラムのタイトルを「音楽展望」としておりましたが、他に同じタイトルのものがあり(「朝日新聞」夕刊の吉田秀和氏の連載)、多少問題もあろうかと思って「21世紀音楽展望」とすることにしました。「音楽の現在」にするか「21世紀音楽展望」にするかで迷ったのですが、前者ではなんだか気色が悪くて居心地も悪いし、後者の方が「新しい」感じがして少しはカッコイイだろうし、当方がやろうとしていることは21世紀のいまの時点から音楽全般を展望することにあるわけだし、要はタイトルより「内容」だということで、結局このようにさせていただきました。ご了承下さい。

さて、このたびエゴ・ラッピン(EGO-WRAPPIN')の新作アルバム「ナイト・フード(NIGHT FOOD)」(UNIVERSAL)がリリースされました。この二人組のことは、ラジオで初めて「色彩のブルース」を聴いて以来ずっと気になってはいたのですが、これまでCDを買うには至りませんでした。しかし、それこそ「気になるヒット曲」ばかりを出し続けているこの人たちのことをもう少し知ってみるのも悪くはないだろう、と思ってこのたびあまり期待せずに買ってみた次第です。なにしろ当方、宇多田ヒカルのアルバムなど3枚とも買っているのですが、一度聴いただけで二度と聴かないというようなことが続いていたため、新しいJ-POPに対しては少し臆病になっていたようです。

しかし、このアルバムは買って大正解だった。演歌やユーミンやサザンオールスターズ(彼らの音楽についてはいずれ考えをまとめてみたいと思っております)等を別にして、いまこれだけ面白い音楽を聴かせてくれる日本のポップ・ミュージシャンが存在するということ自体にまず驚きます。椎名林檎あたりもいい線行ってはいるものの、もう少し様子を見る必要がありそうだと思わせるところがありますが、エゴ・ラッピンになるともう音楽の考え方やスタイルが完成しているように思われます。しかし1974年生まれというこの若い(当方からすればです)二人組は一体どういうふうにしてこういう「高度な音楽性」を身に付けて行ったんだろうか。

まず想像されるのは、彼らが熱心なジャズ・ファンに違いないということです。デューク・エリントンのジャングル・スタイルからマイルス・デイビスのモーダルなジャズに至るまでの「教養」がなければ、そもそもこういう音楽は生まれようがないということです。歌を担当している中納良恵という人は、現在の日本のポップ・シーンでは屈指の実力を持った歌い手と言えますが、しかし彼女は単なるジャズ・シンガーになる気はないようです。どうも彼らが目指しているのは、1930〜40年代に全盛を極めたビッグ・バンドの花形であったバンド・シンガー(ミルドレッド・ベイリー、リー・ワイリー、ペギー・リー、ジューン・クリスティ、アニタ・オデイ等々)の伝統のように思われます。

こういうことが少し分かって来たのは、昨年出た前作の「満ち汐のロマンス」(UNIVERSAL)も併せて聴いてからですが、彼らの音楽を聴いていると、ジューン・クリスティの名盤「サムシング・クール」(1953〜55年)等を思い出さないわけには行きません。昔、ペギー・リーはジャズ・シンガーかそれともポップ・シンガーかという「議論」があったそうですが、ついそういうことも思い出してしまいます。元来バンド・シンガー(もちろんペギー・リーもバンド・シンガー出身です)というものは、そのいずれでもあったわけですから、そういう「議論」自体が無意味なんですけどね。

彼らの目指しているものがバンド・シンガーの伝統であるとすると、それを日本に「移植」した歌手と言える笠置シヅ子や若き日の江利チエミとか美空ひばりといった先人たちの音楽に関心が向かうのは当然と言えます。エゴ・ラッピンはアメリカではなく他ならぬこの日本で活動しているわけですから。そして言うまでもなく日本の戦前・戦後の流行歌に与えたジャズの影響の巨大さには計り知れないほどのものがありました。そうした関心から生まれたのが、「色彩のブルース」、「サイコアナルシス」、「くちばしにチェリー」といった一連のヒット曲であると言うことが出来そうです。要するにそれらの曲は、ジャズバンド・シンガーその日本版昭和歌謡、という関心と志向の展開から生まれた作品に違いないということです。

ここまで見て来たのはエゴ・ラッピンの音楽的側面ですが、彼らの歌詞についても少し触れてみます。当方が現時点で彼らの最高傑作としたい作品は「サイコアナルシス」です。そこにおける音楽の進行と言葉のマッチングには素晴らしいものがあります。従って中納良恵の作詞の才能というのは大したものだと思います。しかしながら、言葉として残るものがあまりないという弱さも感じます。意図的にそうしているようにも思えますが、全体的に彼らのパンク風の歌詞は少し気になります。

と言うのも、例えば笠置シヅ子の「買物ブギ」、江利チエミの「家へおいでよ」、美空ひばりの「お祭りマンボ」といったエゴ・ラッピンが好みそうな戦後名曲の場合は、歌詞のヤケッパチさやナンセンスさがそれ自体で鮮烈な印象を与えるからです。そういった歌詞の鮮烈さがなければ、それらの歌が不滅の名曲としていまも残っているかどうか怪しいほどです。言葉を音楽と同じほどに重視する現役のソング・ライターとしてはユーミンがおりますが、彼女の作った名曲が長く残るであろうと思われるのは、言葉が音楽と同じほどにリアリティーとインパクトを持っているからです。

話は逸れますが、笠置シズ子の歌に見られるような歌詞の自暴自棄なフラッパー振りを、戦争に負けた敗戦国民の気分の反映と見るのは間違っていると思います。軽率な批評家はそこから「戦後のねじれ」ということを考えるかもしれません(そこまでのアホはいない?)。しかし例えば満州事変前後に流行った佐藤千夜子の「当世銀座節」、藤本二三吉の「女給の唄」、四谷文子の「アラその瞬間よ」、「私このごろ変なのよ」といったヤケッパチでナンセンスでフラッパー丸出しの歌と比べて、笠置シヅ子らの歌の方がより自暴自棄の度合が強いなどということは断じてない。当方などむしろ戦前の歌の方をより「恐ろしく」感じます。「魔都東京」のルンプロ(ルンペン・プロレタリアートのことです)大衆やモガ・モボが好んで聴いた歌の方がずっと「恐ろしい」。

戦前のエログロ・ナンセンス系流行歌は、それを歌う歌手にクラシック畑出身の人が多く、発声や発音が硬くドライである分、よりストレートでインパクトが強く感じられる。それから、西條八十に代表されるような詩壇で名をなした作詞家は言葉の使い方や掴み方が巧みだから、より衝撃的な歌詞を書くということもあると思います。しかし当方などが感じる「恐ろしさ」は、より本質的には時代の「遠さ」から来ているように思います。もっと飛びますと、明治期の「妖婦」や「毒婦」などになると、もうその言葉やイメージだけで充分に「恐ろしい」。だいぶ話が逸れましたが、要するに歌詞のリアリティーやインパクト(「恐ろしさ」)が弱いと名曲としての条件に欠けるかもしれないということです。

しかしこういう日本流行歌史のようなことを考えさせてしまうエゴ・ラッピンという存在はやっぱり凄い。ミュージシャンとして「本物」であることの証しと言えます。ユーミンや桑田佳祐も「色彩のブルース」に続いて「サイコアナルシス」を聴いた時は仰天したと思う。ひょっとすると「負けた」とさえ思ったかもしれない。そういう意味では、彼らは既にもういまの日本のポップ・ミュージック・シーンの中心的存在になっているということです。(尚、当方の考える日本流行歌史のアウトラインは「演歌は本来洋楽である」をご参照下さい。)

エゴ・ラッピン以外では、元ちとせの新作「ハイヌミカゼ」(エピック)が出ました。メディアなどでは待望のファースト・アルバムとか言っておりましたが、一体なんなんでしょうね。実際は4作目ですよね。気になる歌手ではありますが、この人についてはまた改めて。あと新曲では最近出たつじあやのの「風になる」(「猫の恩返し」主題歌)が1960年代の香りをたっぷりと含んだ素敵な曲だと思いました。「J-POPレビュー(02/06/21)」で紹介した日本のカントリー・シンガー石田美也にも注目して欲しい。それやこれやでJ-POPシーンの風向きもだいぶ変りつつあります。

音楽に「ユートピア的共同性」への誘いといったものを求める志向・傾向が、最近次第に強くなって来ているように感じられます。元来音楽の存在価値はそういうところにあったはずだと思うんですけどね。音楽の「個への引きこもり」と「ダンス・ミュージック化」(フィジカル化・感覚化・動物「学」化)がそれを破壊して来たのが1970年代以降の展開だった、というのが当方の考えです。しかし音楽のそうした「本来的」でないあり方も、徐々に終りつつあるようです。

それではまた。

【2002/07/27 OT生】
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