管理人のつぶやき(10)


2004/12/15(対話-70) 的場昭弘の本

 さてと。今回は前回の続きをやるつもりでいたんだが、まあ「アメリカという問題」は21世紀前期の日本と日本人にとっては中心的なテーマになって行くだろうから、それはおいおいやって行くことにして、つい最近的場昭弘(まとばあきひろ)というマルクス学者が書いた『マルクスだったらこう考える』という本が光文社新書から出たんで、今回はそれについて少し話をしておこうと思うんだ。
 えっ、マルクス関係の本が新書で出たのか。それは画期的なことなんじゃないのか? 廣松渉がまだ生きていた頃に講談社新書から『今こそマルクスを読み返す』が出て以来だろう。恐らく15年ぶりぐらいだろう。ところで、その的場昭弘という人の本については少し前に『日経』に書評が出ていたんじゃないか?
 今年出た『マルクスを<再読>する』(五月書房)という本の書評だろう。
 そうか。で、今度新書で出た『マルクスだったらこう考える』というのはどういう本なんだ?
 序章が「マルクス、二一世紀の東京に現わる」となってるよ(^^)。
 さすがはマルクス学者だな(^^)。世に容れられ難かっただろうマルクス学者のパーリア的な怨念や構えがどこかに感じられる言いぐさじゃないか。
 あとがきには「三七年前(1967年)の私は、マルクス界における「卓球の愛ちゃん」のような存在だったといえるでしょうか」(P.246)と書いているよ(^^)。
 そりゃすごい(^^)。それで、37年前(1967年)に的場昭弘はいくつだったんだ?

 中学3年生だよ。つまり君や俺より2つ年下というわけさ。まあ俺たちの年代と同じで、67年10.8羽田のショックがマルクスと出会うきっかけだったんじゃないのかな。それはともかく、序章に続く第1章の標題は「「二一世紀型」マルクス主義とは?」だよ。
 なるほど。しかしそれじゃまるで前回の君の話と同じじゃないか。たしかに、90年代始めのソ連崩壊と冷戦終焉で世界の左翼陣営は総崩れ・総退却を余儀なくされたからな。そろそろ陣形をたて直して前進を模索する時期にさしかかっていたのかもしれない。
 そうなんだろうな。ソ連崩壊と冷戦終焉はポスト・モダニズム的左翼にもとどめを刺したからな。結果として90年代と21世紀初頭はハンナ・アーレントの時代になったとも言えるわけだが、アーレントの政治思想というのはけっこう複雑で、マルクスみたいに明快な指針を与えてはくれないからね。
 アーレントは保守的・伝統主義的な傾きが強いからね。そのうえ彼女は極めて強力で本質的なマルクス批判者と来てるから。まあ、いまアーレントが生きていれば、グローバリゼーションに対する最強の批判者になっていた可能性が高いだろうとは思うけどね。
 それは言えそうだな。しかし彼女がマルクスへの批判を撤回したとは思えないけどな。
 それで、的場昭弘の『マルクスだったらこう考える』ではアーレントにも言及されてるのかな?

 まだ第2章までしか読んでいないんだが、言及されていないと思うよ。アーレントは初期マルクスの「類的存在」という人間認識を批判しているからね。つまり、初期マルクスに人間主義を見るどころか、そこに決定論的な後期マルクスに帰結する唯物論的生物学主義を見ているわけだから、マルクス学者としては言及したくても言及できないという事情があるんじゃないのか?
 アーレントというのは恐ろしい女だからね(^^)。初期の『経済学・哲学草稿』にまで遡って批判されたんじゃ、マルクス学者としてはまずそれへの反批判を行なう必要があるからな。それをしないでアーレントに言及したりしたら、足もとを脅かされることになりかねないから。
 そうなんだよ。とは言えアーレントの『全体主義の起源』はレーニンの『帝国主義論』を補完するような一面も持っているし、アーレント自身が戦闘的マルクス主義者ローザ・ルクセンブルクの「弟子」でもあったわけだから、まあこんなにやっかいな人物はちょっといないんじゃないか。
 ローザの「弟子」で、ある部分はエドマンド・バークの「弟子」だからな(^^)。
 それに関係して来ると思うんだが、的場昭弘はこんにちにおいてマルクスを読み直すに当たっては、「スピノザ・モメント」、「マキアヴェリ・モメント」、「モンテスキュー・モメント」というマルクスにおける3つのモメントを忘れるわけには行かないと述べているよ(P.52)。
 えっ、何なんだよそれは。その最初のスピノザというのを、例えばロックという風に言い換えたらハンナ・アーレントそのものじゃないか。

 いやアーレントもスピノザを読んでいなかったはずはないよ。的場昭弘はその3つのモメントを提起した人物としてアルチュセールの名前を挙げているが、なんか怪しいよね(^^)。
 まあ、マキアヴェリはグラムシ以来マルクス主義者も読んでいたみたいだけどね。たしかに評議会運動や直接民主主義の理論的バックボーンという意味では、マキアヴェリ、スピノザ、モンテスキューの3人は外せないということは言えるのかもしれない。
 もっと面白いのは、「集団の能力を個人の能力に還元することこそ資本主義の精神であるのですが、今そのベクトルを逆向きにする必要があります。そのためにも、資本や高所得者への課税が、まず手はじめに実施されねばなりません」(P.65)とか、「国民のアイデンティティ確立のために教育が導入されたことによって、教育については国家が大きな役割を果たしてきました。義務教育が無償でなされたのはそのためです。ところが現在、国民国家を育成する必要はない。その意味では、国家もおざなりな教育だけを国民に与えていればいい。極端な話、君が代と日の丸だけでもいい」(P.71)などと述べている点だ。
 いま君が引用した前者の方は改良主義や社会民主主義に(あるいはリフレ派やケインズ派にも)通じるだろうし、後者の方はいまのグローバリゼーションが国民国家を弱体化させているのだとすれば、国民国家制度の再興こそがグローバル資本主義への抵抗線になりうるという(保守派や森永卓郎などが好みそうな)話にもなるわけだ。いずれにしても、もしいまアーレントが生きていたら強く主張しそうなことではあるね。
 そうだね。前回君と話をした時には考えてもいなかったんだが、「21世紀のマルクス主義」がいま本当に生まれつつあるのかもしれないな。


2004/12/10(対話-69) アメリカという問題

 この前OECDが学習到達度調査の結果を公表したが、何か感想はあるか。
 去年行なわれた41カ国・地域の15才男女の学力と理解力の調査結果だよね。それによると日本の15才の「読解力」と「数学的応用力」が大幅に低下したということらしいが、AKの「山ノ内のマリア」でも触れられているように、もう70年代には日本の教育はほとんど崩壊していたからね。
 つまり、当然の結果だということか?
 60年代の新しい始まりにおいては日本の政治体そのものの更新が目指されたわけだが、それが全面的に霧散・後退したことで、社会のモチベーション自体が同時に失われたからな。その結果が校内暴力や家庭内暴力や学級崩壊、つまり教育と社会の全面的な崩壊だったわけじゃないか。
 そうすると、問題は「ゆとり教育」以前にあるということか。
 というか、「ゆとり教育」の目的はその崩壊を押しとどめようということだったんだと思うよ。だから「ゆとり教育」の構想をいま改めて聞いたら納得するんじゃないのか? もう国民国家の心棒が崩壊してるんだよ。子供たち以前に大人たちの学力と理解力が壊滅的に駄目なんだよ。だいたいいまの財政再建論議にしてもメディアによるその報道にしてもめちゃくちゃじゃないか。もし大人たちに「数学的応用力」があるのなら、財政再建の最善の道は経済の分母を大きくして税収を増やすことだということは分かるはずじゃないか。
 財務省が率先してミクロ的ゼロサム的なカネの奪い合いをやるからな。いま所得税の定率減税を廃止したりしたら、短期的には税収が増えるだろうが、中長期的には確実に税収が減るよね。

 子供は大人の鏡だからね。大人が駄目だからもう付き合ってられないよ。それより、いまルイス・ハーツというアメリカの政治思想史家が書いた『アメリカ自由主義の伝統』(講談社学術文庫)という本を読んでいて、これが非常にスリリングで面白いから、それについて話をしようや。
 ああ、あの記述のなかに政治家や政治思想家の名前がやたらに出て来る本ね。それなのに訳注が付いていないという不親切な本ね。で、あの本がどういう風に面白いんだ?
 まず、「封建制度の伝統を欠くという特異性を持ったアメリカが、社会主義の伝統を欠くという特異性をも持つにいたったのは、偶然のことではない。ヨーロッパのいずれの地であれ、社会主義思想の秘められた淵源は、封建的気質のうちに見出される。アンシャン・レジームがルソーを活気づけたのであり、そしてその双方がマルクスを活気づけたのである」(P.22)と述べている点だ。われわれは近代史と近代社会理解の諸概念・諸カテゴリーをホッブス、ロック、ルソー以下のヨーロッパの政治思想から得ているわけだが、ルイス・ハーツが言うようにアメリカが封建制度の伝統を欠くという特異性を持っているのだとしたら、アメリカの社会・歴史を理解する上でそれらはほとんど役に立たないことになるわけだよ。
 なるほどね。たしかにマルクス主義がアメリカにおいて意味のある存在でありえたことは一度もなかったと言えるだろうからな。ルイス・ハーツによればそれは偶然ではなかったということになるわけだ。
 そういうことだ。マルクスもレーニンも世界革命の決戦場はドイツにあると見ていたわけだが、ドイツの国力を見れば、1920年頃まではそれは妥当な認識だったと言えるわけだよ。封建的気質という点でもドイツはヨーロッパ最強だったし、事実ドイツの社会民主党は世界最強だったわけだから。

 しかし1930年代以降は、もし世界革命の決戦場という考え方があったとすれば、それはもうアメリカに移っていたはずだよね。
 そうなんだよ。俺はマルクスのマルクス主義が破産したとは考えていないが、20世紀のマルクス主義が破産したことは、まともなアメリカ革命論が生まれなかったことからそう断言していいと思う。
 ルイス・ハーツがその根拠を明らかにしてくれているわけだ。
 そうだ。ルイス・ハーツという人は、マルクスの同時代人でもあるトクヴィルの弟子であることを自認していると思うんだが、もし21世紀のマルクス主義というものがありうるとすれば、これまたトクヴィルの弟子と言えるハンナ・アーレントを含めた人びとを踏まえることから出発するしかないだろう。
 なるほどね。そして世界革命の決戦場は依然としてアメリカにあるということだ。
 まあね。しかしマルクス主義者ではなくても、アメリカという問題が世界最重要のテーマであり続けていることは誰も否定しえないんじゃないのか? それがはっきりしたのがソ連崩壊=冷戦終焉とそれに続くグローバリゼーションの全面化だよ。
 そう考えるとビンラディンたちはいいところに目を付けたと言えるのかもしれないね。
 それもみんな薄々気が付いてることなんじゃないのか? アメリカの言うデモクラシーというのは、実は資本主義的自由主義のことであって、それを唯々諾々と受け入れていたら、アメリカの従属国か植民地になって収奪の対象にされる可能性が高いということは、97年の通過危機の時にも明らかになったからね。
 あの時のIMFはひどかったみたいだね。それについてはノーベル賞経済学者のスティグリッツが『人間が幸福になる経済とは何か』などに怒りを込めて書いているよね。

 そう。スティグリッツはいまのアメリカには珍しく社会民主主義的傾きの強い人だから。
 ルイス・ハーツもそうなのか?
 まだ半分も読んでいないから、それについてはよく分からないんだが、アメリカがみずからの特異性に気が付かなかったらアメリカは世界の孤児になってしまうかもしれないという危機感があったことは間違いないだろう。ついてに言っておくと、この本がアメリカで出版されたのは1955年だ。つまりマッカーシー旋風の時代(アメリカが赤狩りヒステリーに覆われた時代)に書かれたということだ。
 そうするとジョン・デューイみたいな人なのかな?
 あるいはね。ジョン・デューイもその後継者のリチャード・ローティも、政治的にはトロツキスト的気風を持った社会民主主義者だが、ルイス・ハーツもそれに近いのかもしれない。
 アメリカにはトロツキスト的傾きを持った人物はいくらでもいるのに(いまのネオコンの親たちもそうだった)、マルクス・レーニン主義者と言える人物はインテリのなかにはまずいないよね。
 何故そうなのかということをルイス・ハーツがこの本に書いているわけだよ。つまり封建的遺制のまったき欠如というアメリカの特異性ということだよ。
 しかしリンドン・ジョンソンの頃まではあった社会民主主義的傾向も、70年代以降にはすっかり影をひそめてしまったよ。スティグリッツやローティはいまや例外みたいなものじゃないのか?
 まあ、その根拠を明らかにして行くのが俺たちのテーマなんだろうな。じゃ今回は導入部の雑談ということにして、次回はもっと議論を深めて行くことにしようか。


2004/12/02(対話-68) 日本の国連外交

 最近外務省が張り切ってるみたいじゃないか。安保理の常任理事国入りに積極的に動き、恐らくそのために政治史家の北岡伸一を次席国連大使の登用したりとか、活発に動いてるじゃないか。
 そうみたいだな。北岡伸一という人は五百旗頭真などとともに日本を代表する外交史家でもあるからね。戦後の日本外交の基本路線を敷いたのは吉田茂(と幣原喜重郎)と言えるだろうから、外務省が吉田学校系統の政治学者である北岡伸一を引き抜いたのはよく分かるよ。恐らく北岡伸一の方も政府に対して国連外交の重要性を説いて来ていたんじゃないのかな。
 そうなんだろうね。小泉みずから日本の常任理事国入りを目指すと明言したからね。これは前回君が言っていたグローバリゼーションと9.11以降の日本の行き方に関わることなんだろうね。
 もちろんだよ。前回は言わなかったが、グローバリゼーションと9.11はソ連の崩壊つまり冷戦の終焉ということを決定的な与件にしているわけで、戦後の日米同盟の前提となっていた世界とその枠組みが変わってしまったということがまずあるわけだよ。
 とりわけ9.11は冷戦体制のなかでは起こりえなかったことだよね。もし起きたとしても、ソ連に対する攻撃の方が先だった可能性が高いんじゃないのか?
 そうも考えられるが、米ソ二極体制のなかではビンラディンなどが9.11のような発想をそもそも持ちえなかったんじゃないのか。中東やアフリカは冷戦の最前線だったわけだから。

 そうだよな。ソ連のアフガン侵攻はアフガンに親ソ政権を樹立するためのものだったわけだが、それと同じことを20年後にアメリカが(米大陸以外で)やるなんてことは当時は考えられなかったよね。
 そういうことだよ。アメリカの対イラク戦争にしたって、20〜30年前にソ連がアフリカやアフガンでやったことの繰り返しのようにも見えるからな。
 なるほど。そう考えると、いまのアメリカのネオコンというのは80年頃のソ連の強硬派や軍部にそっくりじゃないか。ソ連は安保理の常任理事国だったわけだが、国連の意向なんかお構いなしにアジアやアフリカで政治的・軍事的な攻勢をかけていたもんな。そうすると、ソ連がその10年後に崩壊したようにアメリカも近いうちに崩壊するということなのかな、え(^^)?
 そう簡単には行かないよ(分裂して第2次南北戦争が起きることはあるかもしれないが。しかし南北戦争時の北部/ヤンキーはいまとは逆で共和党だったんだよな)。ただ、当時のソ連とその経済が戦争でもっていたような面をいまのアメリカも持っているということはあるだろう。アメリカはいわば道義的・イデオロギー的な戦いで冷戦に勝利したわけだが、ソ連という悪役がいなくなってみると、アメリカの国益がむき出しで出て来ざるをえないよね。だからネオコンのロバート・ケーガンなんかがホッブスを担ぎ出したのもよく分かるよ。
 いずれにしても、ソ連をいわば仮想敵国としていた戦後の日米同盟の前提そのものが根本的に変わって来ているということだな。
 そうだ。アメリカの政府と軍部も冷戦を与件とした世界戦略とその一環としての日米安保の改編を進めようとしているし、日本としては、それを政治的に補完する外交戦略の枠組みのひとつとして国連改革・安保理改革を進めていることは間違いないだろう。

 補完と言っても、アメリカの単独主義的行動を牽制するという含みもあるよね。
 もちろんだよ。補完するというのは多角的に補完するということなんで、今回は常任理事国入りを目指す4カ国連合の「G4」ではドイツとも共闘しているからね。ドイツと共闘するということは、フランスなどの支持を得られるということだから、アメリカとしては面白くないことでもあるわけでね。
 なるほどね。いまは常任理事国入りを目指すこと自体が外交なわけだ。
 もちろんさ。今回の「ハイレベル委員会」の報告に対してアメリカが反対にまわるとしても、多くの国連加盟国が日本やドイツを支持することになれば、それは広い意味での安全保障が得られることでもあるわけでね。言うまでもなく世界はアメリカだけじゃないんだから。
 なんだか親密圏に対して公共領域を対置したアーレントみたいな話だな。
 まあね。日米関係と言っても国と国との関係なんで、だからそれは人と人との関係が親密であるような関係ではありえないわけだが、それを踏まえていさえすればそのアナロジーは使えるかもね。世界がアーレント的な意味での"世界"でありうるためには、距離が必要であるということは言えるかもしれない。
 ある意味の距離がなくなってしまったグローバル化された世界というのは危険だよね。
 それは言えるだろうね。そのある意味での距離を世界に改めて創り出すという意味では、国連と新安保理は新しい役割を担うようになるかもしれないからな。
 現実的に言っても、日本がアメリカにくっついて行って世界から孤立してしまったらお終いだからな。いずれにしても、日本の国連代表部の動向には要注目だな。

 要注目である以上に、日本の世論を多様化させるという意味でも有効だよ。
 どういうことだ?
 既に日本の保守は親米保守と反米保守で割れていて、もちろん主流は親米保守なんだが、アメリカが「ハイレベル委員会」報告に対して反対にまわったりしたら、親米保守が割れることになるじゃないか。
 なるほど。アメリカは日本の常任理事国入りを妨害するな、という声が出て来るわけだ。
 そうだ。そしてそれは"健全な"反応なんでね。『朝日』はその辺が見えて来たみたいで、小泉が常任理事国入りを目指すと言った時には反対したのが、ちょっとニュアンスが変わって来たよ。
 世論政治というのは要するに衆愚政治なんだが、三国干渉と日露戦争以来の日本の政治というのは結局のところ世論政治だからね。
 そう。日本の外務省という役所は忘れがたい"罪"も犯して来たわけだが、幣原喜重郎や吉田茂のような優れた外交官もいたからね。だから外務省が北岡伸一を次席国連大使に登用したということを聞いた時には、外務省もやるじゃないかと思ったよ。
 それから外務省は小泉が靖国神社に参拝するのは外交的には困ったことだと思ってるはずなんだが、国連の多数派工作で中国と韓国を取り込むということをエクスキューズにすれば、小泉が首相在任中は参拝しないと言ったとしても、高度な政治的判断ということで通るだろうからな。
 そういうことでも"使える"よね。日中関係の改善・維持ということは簡単じゃないが、日本の安全保障のためということであれば、時には折れることも必要だということは誰にでも分かる話だからね。そういう多角的な日本の政治的・軍事的・経済的な安全保障のために北岡伸一たちが努力しているのだとすれば(そうであることはまず疑えない)、これは積極的に支持して行くのがいいと思うよ。


2004/11/19(対話-67) パウエルとライス

 前回君はいまのアメリカは満州事変の頃の帝国日本みたいだと言っていたが、そうするとパウエルは国際協調外交を行なおうとした幣原喜重郎に当たるのかな?
 そのアナロジーは面白いと思うが、どうかな? 吉田茂なんじゃないか?
 満州事変の頃の吉田茂は典型的な帝国主義外交官だったじゃないか。満州を日本の生命線と考えていたという意味では、吉田は先輩の小村寿太郎とどっこいどっこいだよ。まあ、幣原喜重郎だって満蒙をめぐってソヴィエト・ロシアや国民党の中国と協調して行こうとは考えていなかっただろうけどね。パウエルとアメリカ国務省が中南米諸国を対等の相手と考えていないのと同じだよ。あるいは彼らがイランや北朝鮮と妥協するつもりがなく、中国に対しては依然として強い警戒感を持っているのと同じだよ。
 幣原が協調外交の相手と考えたのは要するに米英だよね。そうすると、パウエルにとって当時の日本から見た米英に当たるのはどこなんだ?
 言うまでもなくヨーロッパと日本だよ。
 まあそうなんだろうな。そうすると日独伊枢軸の形成へと突き進み、日ソ中立条約を締結した松岡洋右に当たるのはいったい誰なんだ?

 それがコンドリーザ・ライスかもしれないと思うわけさ。
 なるほどね。いわゆる有志連合の形成に強く動いたのはライスだもんな。
 ライスとそれから日本に対してはパウエルの盟友アーミテージだよ。「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」という言い方でイラクへの地上部隊の派遣を求めたのはアーミテージだったじゃないか。
 ということは、パウエルも日本に出兵を求めていたということかな?
 もちろんだよ。俺はパウエルについては彼の自伝『マイ・アメリカン・ジャーニー』を通じてしか知らないんだが、パウエルだってグローバリゼーションと9.11を通じて世界の秩序と構造が激変してしまったことはよく分かってるさ。だから、日本が依然として20世紀後半の冷戦型世界を所与として世界を見ているのは極めてまずいと思っていたことは間違いないよ。なにしろパウエルは湾岸戦争の時の統合参謀本部議長だったわけだからね。だからあの時の日本の対応のことはよく知っているはずだよ。
 日本の対応は朝鮮戦争やベトナム戦争の時と同じだったもんな。いちおう戦費(?)は出したわけだから、さすがに火事場泥棒とは言われなかったけどね。あの時は自民党幹事長だった小沢一郎が中心になって、カネを出すことでしのいだわけだ。しかし湾岸戦争とイラク戦争のあいだにはグローバリゼーションの全面化と9.11があるわけだが、そうするとパウエルとライスの世界認識はどういう風に違うんだ?

 俺はボブ・ウッドワードの『攻撃計画』もまだ読んでいないし、ライスがどういう人物なのかもよく知らない。しかし幣原喜重郎が米英との協調によって日本の安全と生存を確保しようとしたような姿勢を、パウエルとは違ってアメリカにとって不可欠とは考えていない可能性が高いね。
 フランスやドイツがまた9.11以後の世界というものを理解しようとしていないからね。それどころか、クリントン政権の頃からグローバリゼーション志向のアメリカとは一線を画そうとしていたからね。当時日本の首相だった橋本龍太郎とイギリスのブレアが、クリントンと同じカウボーイみたいな格好をしているのに、シラクとドイツの首相が背広で出て来たサミットの写真があったじゃないか。もしフランスとドイツが「世界を返せ」と言うとすれば、その相手はブッシュなんじゃなくて本当はクリントンなんだろうと思うよ。
 そんなことがあったかな。それはそうと、ヨーロッパがある普遍的なものを担って来たと考えるという点では、デリダやハーバーマスに代表されるヨーロッパの知識人たちもシラクなんかと同じなのかもしれないね。デリダやハーバーマスがカントに依拠しているとすれば、ホッブスに依拠しようというのがネオコンの主張なのかもしれない。ロバート・ケーガンは『ネオコンの論理』でそういうことを書いているらしいよ。
 なるほど。そうするとライスはマキアヴェッリということになるわけか?

 そうなるかもしれないということだよ。とにかくいまのアメリカは満州事変や日華事変の頃の日本とは国力がぜんぜん違うから、松岡洋右的な行き方でもいいのかもしれないからな。
 問題はアメリカの行き方というより、ヨーロッパ、イスラム、アジア、アフリカ、中南米を含むグローバリゼーションと9.11以後の世界のあり方をどう捉えるか、ということになるわけだ。
 そうだ。ブッシュ再選にばかり目を奪われていると、クリントン時代から続いて来たアメリカとヨーロッパその他との対立の構図も見えなくなるし、いまのアメリカがフランスやドイツの世界認識を旧思考と批判している意味も分からなくなる。いずれにしても、恐らくはパウエルともネオコンとも違うライスの外交姿勢・外交路線に注目して行く必要がある。多分ライスには期するところがあると思うよ。
 そうだろうね。もしライスが外交で成功を収めることができれば、次期大統領選挙はライス対ヒラリーという女の戦いになる可能性だって出て来るわけだからね。
 そう。ライスには是非そういう意識を持ってやって行って欲しい。なにしろアメリカの国務長官というのはアメリカ大統領に次いで世界で最も公的な存在でもあるわけだからね。因みにヒラリーについて言えば、イラクへ行ったのは彼女なりの見識と言うべきだろう。もう遅いが、ヒラリーはケリーにも行くように言うべきだったかな? あるいは次の大統領選挙をにらんで敢えて言わなかったのかな?


2004/11/17(対話-66) パウエル辞任表明

 君はこの前ブッシュがケリーに350万票の差をつけて勝ったから、パウエルは辞めない可能性が出て来たと言っていたが、君の予想とは逆に辞任を表明したそうじゃないか。
 いや、本当は辞める可能性が高くなったと見ていたから意外とは思わなかったよ。もしブッシュの勝利が僅差の勝利だったのなら、パウエルはブッシュと条件闘争ができたはずなんだが、そうじゃなかったからね。パウエルだって自分が政権にいることでブッシュが勝ったとは考えようもなかったろうし。俺はブッシュに伝統的な共和派と国務省に配慮する余裕ができたかもしれないと思ったから、パウエルは辞めない可能性が出て来たと言ったんだが、普通に考えればやっぱり辞めることになるだろうとは思っていたよ。
 パウエルの後任は君の好きなコンドリーザ・ライスらしいよ。
 ライスというのは非常に興味深い人物らしいと言ったのであって、ライスが好きだと言ったことはないよ。しかしやっかいなことになったことは間違いないね。
 やっかいってどういうことだ?
 ライスはユダヤ人を中心とするいわゆるネオコン・グループとは比較にならないくらい危険な存在になる可能性があるということだよ。ライスはウィリアム・クリストルやポール・ウォルフォウィッツのようなユダヤ系とは利害はもとより世界観においても共通するところはまったくないだろうからね。ライスというのはなんとなくマキアヴェッリのアメリカ版、21世紀版という感じがするじゃないか。

 そうかもね。「わが魂より、わが祖国を愛する」というマキアヴェッリの言葉をライスが奉じているとしても不思議はないよね。なにしろ独身の黒人女で、身寄りもほとんどいないと言われているからね。しかも稀に見る秀才で、すべてを公的生活に捧げているみたいだからな。
 マキアヴェッリならまだいいんだが、彼女がマキアヴェッリのアイドルだった権謀家のチェーザレ・ボルジアだったりしたら、これは極めて危険なことになるだろうということだよ。
 しょせんは学者の出だからチェーザレ・ボルジアはないだろう。やっぱりマキアヴェッリだよ。ただ、ブッシュが私的・社会的利害を超越した共和主義者ライスと組んでアメリカの世界政策を進めて行くとなると、これはちょっと怖いことになるだろうね。
 ブッシュは中西部のキリスト教徒たちを基盤にした「真空大統領」って感じがするからな(ついでに言っておくと故小渕首相は「真空総理」などではなかった)。
 そうだな。中西部のキリスト教徒たちにとっては胡散臭いネオコンなんかより、「祖国」によって「魂」の平安を得るというような共和主義の方がずっとしっくり来るだろうからな。なんでアメリカ人がユダヤ人やイスラエルのことを考えなきゃならないんだという思いはいまでもあるかもしれないからね。問題は財務長官と財務省だろう。アメリカのネックが双子の赤字であることは変わっていないからね。イラクで財政赤字を垂れ流し続けることにアメリカ政府とアメリカ経済がいつまでも耐えられるわけはないんでね。

 それだよ。もしアメリカが際限のないドル安政策を採ることで経常赤字と財政赤字をしのいで行くことを決意したりしたら、世界経済はめちゃくちゃなことになるよ。とりわけ日本経済は壊滅状態だよ。アメリカの国債を大量に持っている日本の政府部門もヤバイことになるね。
 しかし君としては、リヴァイアサンと化したアメリカが「自由」と「民主主義」を叫びながら世界中で暴れまわるのを見てみたいなんて思っているんじゃないのか?
 大きな声では言えないけどね(^^)。なんと言っても、アメリカにはそれができる"力"と"可能性"があるというのが怖いよ。そういう事情がよく分かっているのがイギリスのブレアなんだろうな(フランスやドイツはそんなことは分かりたくもないということなのかもしれない)。日華事変の頃の帝国日本に対してもイギリスはかなり融和的だったからね。ブレアほどではなくても、小泉もかなり分かっていると思うよ。
 そう言えば、いまのアメリカは満州事変の頃の日本を思わせるところがあるね。
 たしかにそうだな。21世紀版の帝国主義なのかもしれない。まあ国際社会においては帝国主義というのは"普通の"あり方なんだろうからな。そういう意味では、国際社会を「万人に対する万人の闘争」の場と考えるネオコンだって特別に変わった考え方をしているわけではない。われわれとしてこれにどう対応すべきかというのはまた別問題なんだが、まず戦争や紛争を排除すべきものと考える平和ボケ・平和原理主義を払拭することから始める必要があるね。具体的には国連への関与という話になるのかもしれないが、あるいは政治史の北岡伸一が国連大使に転進したのはそういうことが分かっていたからなのかもしれない。


2004/11/11(対話-65) ユーミン、世界、忠誠心

 今年もユーミン(松任谷由実)の新作アルバムが出たみたいだが、もう聴いたんだろう?
 もちろんさ。すぐに買って聴いたよ。
 で、どうだった?
 難しいね。なにが難しいかと言うと、まずは音楽なんだが、ここ何年かのユーミンのアルバムだったらそこで彼女がなにをやろうとしているのかということがすぐに分かったものだが、今回はそれがよく分からない。つまり、捉えどころがないような感じなんだよ。
 君みたいに年季の入ったユーミン・ファンがそういうことを言うとは意外だね。
 83年にユーミンが出したアルバム『REINCARNATION』もよく分からなかったものだが、その時の捉えどころのなさに似ているかもしれない。それ以降の80年代のユーミンの音楽はいまもってよく分からない。しかし去年の『FACES』や一昨年の『WINGS OF WINTER...』なんかはそれなりに理解できたわけだから、これは俺の問題と言うよりユーミンの方の問題なのかもしれない。
 ユーミンの方の問題というと?
 なんとなくだが、今回のアルバムは松任谷正隆の方に主導権があるような気がするんだよ。83年頃から90年代始め頃にかけてのユーミンの音楽もそうだったと言っていいんじゃないのかな? つまり松任谷正隆がユーミンの音楽に"仕える"場合は最高の仕事をするんだが、そうでなくて松任谷正隆が主導権を取った場合はなにか違うものが生まれるような気がするんだよ。まあ、アーチストとプロデューサーとは言っても彼女たちは夫婦なんだから、本当の事情はそれほど単純なものではないのかもしれないけどね。
 今回は「J-POPレビュー」では取り上げないのか?
 ある程度理解しないと書けないよ。

 じゃあここで少しやっておこうか。ところで前作の『FACES』はセルフ・カバー・アルバムだったわけだから、今回の『VIVA! 6X7』は『WINGS OF WINTER...』に続くアルバムと言えるんだろう?
 そういう意識がユーミンにも松任谷正隆にもあったことは間違いない。つまり今回の『VIVA! 6X7』が、「21世紀のリラックス・ゾーン」あるいは「近未来の精神的リゾート」というコンセプトで創られた『WINGS OF WINTER...』が踏まえられていることは間違いない。しかしアルバム・ジャケットからはそういうものが感じられない。今回のジャケットは『SURF & SNOW VOL.1』(1980)に戻っているよ。つまり、『SURF & SNOW VOL.1』の続編として構想された『WINGS OF WINTER...』が"廃墟のリゾート"をテーマにしていたとすると、今回のはそれを"救済"するアルバムなのかもしれない。
 そういう意味でも今回のアルバムは『WINGS OF WINTER...』の"続編"と言えるんじゃないのか?
 たしかに。それはジャケットを見れば明らかだね。但し、裏ジャケやブックレットのなかのイラスト(水彩画?)のイメージはほとんど『昨夜お会いしましょう』(1981)だけどね。ユーミン自身がPR誌『EYES V.17』のなかで『VIVA! 6X7』の音楽について、「久しぶりに松任谷由実前期の後半ぐらい、『悲しいほどお天気』とか『パール・ピアス』、そのあたりのトーンかもしれない」と語っているからまず間違いないだろう。
 ということは今回のテーマは"回想"と言えるんじゃないか?
 まあね。しかし人間は回想する動物であるとも言えるからね。
 回想であるとしてもその意味や意図がよく分からないということか。つまり、AKの「山ノ内のマリア」に見られるような「世界に対する忠誠心」(デーナ・リチャード・ヴィラ『政治・哲学・恐怖ーハンナ・アレントの思想』法政大学出版局P.206)が感じられないということかな?

 デーナ・R・ヴィラやハンナ・アーレントの言うレッシングにおける「世界に対する忠誠心」なるものがAKの「山ノ内のマリア」に見られるかどうかはまったく別問題だよ。しかしユーミンの『OLIVE』(1979)や『時のないホテル』(1980)が一種の世界を担っていたことは間違いないね。
 だったらその回想には意味があるわけじゃないか。
 どうかな? しかし考えてみたらセルフ・カバーの前作『FACES』も回想には違いないよね。だから『WINGS OF WINTER...』を含めて回想3部作と言えるのかもしれないが、ユーミンも松任谷正隆も『OLIVE』や『時のないホテル』が担っていた世界というものを理解していないかもしれない。
 そういうことはあるかもしれないが、自分たちが創った音楽について彼らが君よりも理解していないなんてことは考えられないよ。
 そうだろうね。そう言えば、今回のアルバムのI「Invisible Strings」は『時のないホテル』に入っている「コンパートメント」にそっくりだよ。
 え、ホントか? あのチョー暗い曲か? 俺はあの曲が好きだよ。
 もっと言えば、J(最後の曲)の「霧の中の影」が『時のないホテル』の最後の「水の影」を意識して書かれたことも間違いないね。タイトルからしても明らかじゃないか。
 なるほどね。しかしなんでユーミンは自分のPR誌で『時のないホテル』のトーンと言わなかったんだろう? 暗い音楽だと思われたくなかったのかな?
 そういうことはありうる。なにしろ売らなきゃならないわけだから。
 とにかく問題は今回のアルバムがどういう「世界」を担っているか、だろう?
 その通りだ。回想に意味があるとすれば、それがどのような可能な「世界」へとつながっているのか、"忠誠心"や"責任"の感覚を喚起しうるような「世界」を提示しえているかどうか、ということだ。しかし、いまのところ今回のアルバムからはそういうものが見えて来ない。CDケース裏の暗い水彩画になにかが暗示されているらしいことは分かるんだが・・・。それから、海岸を遠景にして横じまのシャツを着た女の子を背中から描いたブックレット表3の絵にも意表をつかれたよ。既視感に襲われたよ。多摩美出身だからな、ユーミンは。そうは言っても実際に絵を描いたのはユーミン本人ではないけどね。


2004/11/04(対話-64) ブッシュ再選をめぐって

 最終的な結果は出ていないようだが、どうやらブッシュが再選を果たしたみたいだな。
 そうだな。得票数でケリーを350万票ぐらい引き離して、同時に行なわれた上下両院選挙でも共和党が勝ったわけだから、まあブッシュの勝ちだろうな。ラルフ・ネーダーについてはまったく報道されていないが、大勢にはほとんど影響がなかったということなんだろうな。
 この結果を君はどう評価する?
 もちろん予想通りさ。もしこれがコリン・パウエルとヒラリー・クリントンの戦いだったのなら、俺としても冷静ではいられなかったろうが、ブッシュ対ケリーじゃあケリーにはほとんど勝ち目はなかったからね。ただブッシュ側の副大統領がチェイニーというのはちょっと不安だったな。ハリバートンの元会長というのではイメージが悪すぎるよ。もしブッシュが死んだら、チェイニーが大統領になるわけだからね。
 次回はパウエル対ヒラリーの戦いになるんだろうか?

 民主党がヒラリーを担ぎ出したら、共和党はパウエルで行くしかなくなるかもしれないね。しかしパウエル本人はヒラリーとは戦いたくないんじゃないのか? もちろんアメリカ大統領の座をめぐって黒人と女性が戦うというのは、これは是非見てみたいけどね。
 ところでパウエルは国務長官を辞めるんだろうか?
 ブッシュが約350万票の差をつけて再選されたわけだから、辞めない可能性が出て来たんじゃないか? チェイニーが副大統領だから、それとバランスをとる意味でも国防長官に横滑りすることだってありうるんじゃないか? そうすると国防副長官をどうするかという問題が出て来るけどね。ウォルフォウィッツが副長官じゃあ、パウエルだって受けようがないだろうから。
 しかしイラクの復興は今後ますます国際的なテーマになって行かざるをえないわけだから、パウエルには国務長官として頑張って欲しいよね。パレスチナ問題もからむわけだし。

 もちろんそうだよ。ブッシュだってパウエルの留任を望んでいるだろうから、これからは条件闘争になるんじゃないか? もしそれがうまく行って、パウエルがヨーロッパなどを巻き込んだイラク復興と中東安定化の道筋をつけることに成功すれば、次期大統領はパウエルになる可能性が高くなるよ。
 そういうことも期待できる選挙結果だったということだね。
 可能性としてはありうるということだよ。それから日本としても保護主義的で戦略的通商論者が多いいまの民主党が政権を取るよりもブッシュ政権の方がいいに決まってるからね。
 そういうことも含めて第2期ブッシュ政権には期待できると?
 俺としては民主党が保護主義を捨てて本来のリベラリズムとケインズ主義を回復すれば民主党を支持するんだが、そうではないからブッシュやパウエルに期待するしかないんでね。なんで民主党が新自由主義のグローバリスト党になってしまったのかというのがいまひとつ分からないんだが、研究してみる価値はあるな。いずれにしても、今回の選挙結果と経過を見れば第2期ブッシュ政権に現実的な政策を期待してもいいだろう。但し、アメリカの中流や下層のひとびとにとってはいいことはあまりないかもしれないね。


2004/10/30(対話-63) 法、政治、正面突破

 ところで「山ノ内のマリア」でAKが使っている内面形成⇒法的主体形成⇒世界形成という道具立てをハンナ・アーレントも使っているのか?
 使ってはいないと思うよ。あれはアーレントに触発されたAKのオリジナルだよ。アーレントがそれに近いことを言っているのは『全体主義の起源・3』の「全体主義」においてだよ。ナチスの強制収容所における収容者たち(ユダヤ人)の法的人格、道徳的人格、個体性の破壊についての記述だよ。
 なるほどね。収容所とは逆に「始まり」だから順序を逆にしたわけだ。
 そうだと思うよ。個体性と道徳的人格の形成をまとめて内面形成としたんだろう。よく考え抜かれた枠組みだとは思わないが、いろんなところで使えそうじゃないか。
 そうかもね。しかし60年代の反乱者たちを法的主体と呼ぶというのは面白いね。
 たしかに。しかしアーレントだって収容者のなかの政治犯を含む犯罪者たちについては、罪など犯していないユダヤ人とは別の法的カテゴリーに属する者として扱っているよ。
 そうだね。法的カテゴリーに属する者という意味では法を作る者、法を執行する者、法を犯す者というのはある種の同等性を持っているとは言えるからね。とりわけ確信をもって法を犯す者というのは明確な法的主体と言えるだろうからね。職業的犯罪者でなければ政治的に行為する者だろうから。
 そう。60年代の反乱者たちは自分を佐藤栄作(首相)や美濃部亮吉(都知事)と法的には対等の存在と考えていたはずだよ。もちろん彼らのすべてがそうだったというわけではないが、彼らの先端の部分においては政治的責任主体という自覚があったことは間違いないと思うよ。

 政治的責任主体という自覚はたしかにあったと思うよ。しかし法的主体という意識があったかというのはよく分からないな。彼らは法そのものを馬鹿にしていたんじゃないのか?
 当事者の意識という意味ではね。現行法はブルジョワ国家の制度でしかないという認識はあったと思うが、それでも彼らにとって裁判闘争は重要な戦いではあったわけだからね。しかしもっと重要なことは、彼らが佐藤栄作や美濃部亮吉と法的な同等者であるという意識を持っていたことだよ。
 なるほど。AKの言う「法的抗争」というのはそういうことか。
 政治闘争というのは具体的には法や制度をめぐる闘争だからね。いま現在の話に戻しても、俺たちが国に税金を払い、選挙において投票を行なうというのは、もちろんそれ自体では政治的行為とは言えないが、それらの行為に責任の意識、つまり自分が属する現実の(あるいは可能な)政治体への当事者意識が伴なっているのであれば、それは政治的行為へと移行しうるわけでね。
 つまりそれは革命への権利あるいは義務へも移行しうるということだ。
 ここで革命を言うのはちょっと飛びすぎだよ。俺たちが税金を払ったり投票をしたりというのは、それ自体では孤立した個人の同意(合意)の行為でしかないわけで、それはわれわれが日本という政治体(国家)のなかで生まれ育ったことを受容することを超えるものではない。
 子供にとっては生き延びるためにはそれを受容するしかないわけだからね。しかし広義においてはその受容という行為が法的人格を生み出すわけだよね?
 もちろんナチスの収容所が最初に破壊するのはそのレベルの法的人格だよ。しかしAKの場合は法的人格と言うより法的主体と言っているよ。

 なるほど。アーレントの言う法的人格とは微妙に違うということだ。と言うか、AKの言う法的主体というのはアーレントの法的人格の発展形なんだろうな。
 「山ノ内のマリア」におけるAKのアーレントの使い方はかなり恣意的だよ。AKの言う法的主体というのはアーレントが「市民的不服従」で言っている市民的な主体に近いよ。アーレントの言う市民も、孤立した個人のこと(経済的主体)を言う場合と、合意をなして公的事柄へと持続的に参加して行く主体(政治的主体)の二通りの意味があるが、AKは後者と言うかその予備軍的な存在を法的主体と呼んでいるわけだ。
 だったら法形成主体、あるいはもっと端的に政治的主体と言った方がいいじゃないか?
 AKの場合は内面形成という過程との連続面の方を重視したかったんじゃないのかな。つまり税金を払ったり投票に行ったりしない子供でも法的主体たりうるということが言いたかったんだろう。そういうことをしないという意味では子供は市民とは言えないわけだから。そういう制度的な意味では子供は投票行動を通しての法形成には参与しえないわけだから。
 つまり法形成主体とか政治的主体とは言えないんだと? しかしパリ・コミューンやハンガリー革命では子供も参加しているよ。60年代においては高校生はもちろん中学生の政治犯もいただろうし。
 例外はいくらでもいるさ。しかしいずれにしても、前に君が引用していた「投票に行かずにカゲで文句ばかり言ってもしょうがない。民主主義では投票で自分の意思を表す以外ない。棄権は白紙委任ということだ。」という小沢一郎の発言の意味では子供は政治的主体ではない。だが、子供といえども自分がそこで生まれ、そこに属する共同体や政治体に対して責任を果たそうと決意することはできる。恐らくAKの言う法的主体というのはそういう人間のあり方のことを言っているんだと思うよ。

 AKは文化的反乱や社会的反乱といったものが嫌いらしいからね。彼のカウンター・カルチャー攻撃・批判はちょっと尋常じゃないよ。
 嫌いとかなんとか言うより、AKが言っているのは対抗文化的行き方は端的に間違っているということだよ。俺は小沢一郎がけっこう好きだし、上に引いた彼の言葉も正しいと思うが、それはどうしてかと言うと彼が国民に向かって責任や義務を訴えているからなんでね。小沢はまず投票行動で自分の意思を表わせと言っているんだが、そこに限界があることを知らないわけじゃない。現行の法や制度が、現行のものであるが故に正統であるとは小沢だって思っていないよ。しかしまずは責任と義務を果たせということだよ。
 それで駄目なら革命をやれ、と?
 小沢自身が一種の革命家だからね。経済政策を別にすると俺は小泉もけっこう好きなんだが、彼も権威のようなものを持ち出して人に何かを押しつけるようなやり方を好まないよね。言葉というよりはフレーズやイメージで勝負しようとするのはいただけないが、それでも自分で語ろうとはするよね。そういう意味では、小沢も小泉も責任や義務ということを理解しているように見えるじゃないか。
 たしかにね。小沢も小泉も60年安保世代なんだろうから、彼らが権威のようなものに頼ろうとしないと君が言うのもなんとなく分かるような気はするけどね。
 話を戻すと、われわれに責任や義務が発生するとすれば、それはまず自分がそこに属する共同体や政治体に対してなんでね。つまり、好むと好まざるとにかかわらず、われわれは法的主体たらざるをえないということだよ。AKがカウンター・カルチャーを攻撃するのは、そういう行き方が人間の存在条件から眼を逸らせようとするからさ。いつだってわれわれは責任を自覚して正面突破を目指すこと、つまり法的・政治的に行為するしかないということさ。もっと言えば、われわれの主戦場はいつだって国家と権力をめぐる攻防だということだよ。政府に対して民間を対置するような発想は責任と義務からの逃亡だということさ。


2004/10/16(対話-62) 「心」について

 AKが「山ノ内のマリア」の第23回でハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』に触れているが、アーレントはAKがあそこで言っているような原理主義者ではないよね?
 AKは"原理主義者"とカッコを付けているじゃないか。つまり、カッコ付きの原理主義者なんだということだろう。そうであれば、AKが言ってることも分からないではないよ。
 しかしアーレントがよく引用する原理主義的格言「正義は為されよ、たとえ世界が滅ぶとも」というのは、アーレントにおいては否定的な意味あいで引かれているよね。
 たしかに「真理と政治」などにおいてはそうだ。その格言の「正義」のところに「真理」を入れて、真理と政治は両立しえないということを言ってるわけだよね。政治においては真理ではなく、様々な意見が存在することが意味を持つということだよね、アーレントが言っているのは。
 つまり、たとえイスラエルが笑うことを許容しない国家だとしても、アーレントはイスラエルが滅ぶことなどを望んではいないということだよね?
 あたり前だよ。イスラエルがいま見られるようなテロリズム国家になりかねないことをアーレントが憂慮し続けて来たこと、それ故アーレントがシオニズムの修正主義やユダヤ民族主義を批判し続けて来たことはたしかだろうが、しかしそれでも彼女がシオニストであり続けたことも間違いないんじゃないか。まあ彼女の場合は国際主義のシオニストと言うべきなのかもしれないが。
 そもそもアーレントはシオニストとして政治活動をはじめたわけだからね。

 そうだ。だから『イェルサレムのアイヒマン』はアーレントのシオニストとしての立場の表明でもあったわけだ。しかし、そういうことはアーレントの経歴を知らない者には分からないよね。
 いわゆる「真面目な精神」の持ち主にはまず分からないだろう。アーレントとしてはダヴィッド・ベン=グリオン(イスラエル首相)やヨーロッパ・ユダヤ人社会の指導者たちを批判すること、もっと言えば彼らを「コケにする」ことが自分にとって自明の責務と心得ていたようだからね。
 それだよ。どうしてアイヒマンの極悪非道を言うより前にベン=グリオンやイスラエル政府に対する揶揄や批判が来るんだ、ということだよ。しかもアイヒマンの官僚主義的殺戮は「陳腐な悪」であって、何よりも許し難いのはナチスに「協力」したユダヤ人指導者たちだと言わんばかりだからね。
 ナチスより酷いのは、ナチスの指導などなくても「自主的」にポグロムを行なってユダヤ人たちを殺しまくったルーマニアやポーランドの人びとだった、という風にも受け取れるしね。
 それもあるよね。そしてそれを書いたのが、同じユダヤ人でもローザ・ルクセンブルクやトロツキーのようなマルクス主義者だったのなら受け止め方もおのずと違って来るのだろうが、アーレントは左翼でさえないわけだからね。だからアーレントには「心がない」と受け取られたわけだ。本人もそのことは自覚していたようで、メアリー・マッカーシー宛の手紙で「あなたは、私が奇妙な幸福感でこの本を書いたことを分かっているただ一人の読者です。そしてまた、それを書いてからずっと私はーー二十年後もーーこの問題について気楽な気持ちでいることも。だれにも言わないでね、私に心がないはっきりとした証拠じゃないかしら、なんて」(エリザベス・ヤング=ブルーエル『ハンナ・アーレント伝』晶文社P.449)と書いているよ。

 しかしアーレントが書いた『イェルサレムのアイヒマン』を読んでほぼ100パーセント納得するだけでなく、それを楽しんで読める君も「心がない」と言うべきなんじゃないか?
 俺はユダヤ人ではないからね。いや、もしユダヤ人だとしてもやっぱりアーレントに同意すると思うよ。アイヒマンが極悪非道の殺人者であるというのは要するにイデオロギーなんであって、そういう固定観念や常套句や世論によって思い込まされて来たことに過ぎないんだということを理解すると思うよ。
 つまり「心」というのは思い込みの結果にすぎないということかな?
 そういうケースが多いということだよ。君も俺も認識の拡大や精神の成長にともなって「心」を失って来たということがあると思うよ。
 えっ、俺も「心がない」のか?
 もちろんまったく「心」を失ってしまっているわけではないよ。すべての「心」のあり方を反省的に理解し直すことができればそれがベストなんだが、そんなことは人間にはまず不可能だからね。俺たちにできることは、われわれに生ずる違和感やいつわり(偽善)の感覚を見逃さないぐらいのことだから。
 なるほど。そういうことなら分からなくはないよ。差別や不平等や悲惨な事柄への怒りや憤りや同情といったものは、それ自体では人間的で自然な感情と言えるのだろうが、そういう自然で人間的な反応から生み出されるものが暴力だったり排外感情だったり諦念だったりするわけだからね。
 そういうことだ。アーレントの場合も『イェルサレムのアイヒマン』(1963)に先立つ「リトルロック事件についての考察」(1957/59)をめぐる論争を通じて、世間や知識人社会というものがどういうものかをよく承知していたはずなのに、いつわり(偽り)と思われたことを放置しておけなかったんだろう。

 いつわりって何だ?
 ユダヤ人あるいはイスラエル人の偽造された自尊心だよ。言い替えれば彼らが信じて来たユダヤ民族の受難物語だよ(彼らの「選民思想」にとってはそういう受難物語は不可欠だったんだろうが)。あるいはアイヒマンが極悪非道の人非人であるといったような固定観念だよ。
 アイヒマンは極悪非道の人非人じゃないのか?
 なに言ってんだよ。君だって『イェルサレムのアイヒマン』の副題が「悪の陳腐さについての報告」だってことぐらい知ってるはずじゃないか。
 そうだったな。しかしアイヒマンと聞くと、どうしてもヒムラーとか甘粕正彦とかローザ・ルクセンブルクを虐殺した連中などと同じ範疇の極悪人あるいは怪物という先入見があるからね。もちろんアーレントにかかると、ヒムラーも甘粕も陳腐な変質者・道化役者ということになるかもしれないわけだが。そして実際にそうなんだろうけど。たしかに恐ろしいのは彼らよりも彼らに対するわれわれの先入見だな。
 普通は正常な判断力を働かせることができるのが、善悪や価値や信念がかかった問題になるとそれができなくなるというのはよくあることだよ。例えばある誰かが悪しき人物であるという示唆や方向づけを与えられたような場合、そこから抜け出すのは容易ではないよね。
 いまだったらジョージ・W・ブッシュが日本のメディアなどによってそういった示唆や方向づけにさらされていると言えるかもしれないね。さすがに最近はそれほど悪質な報道はなくなったようだが、一時「ネオコン」というのは悪の権化みたいに報道されていたみたいだよ。
 俺には「卑劣な」とか「尊い命を」といった慣用句を伴なった犯罪報道が耐えがたいよ。俺からすればそういう報道こそが犯罪だよ。まあそれも「商売」なんだろうから「卑劣」だとは思わないけどね。


2004/09/28(対話-61) 『朝日』の社説など(常套句、全体主義、反政治)

 また新聞ネタだが、『朝日新聞』が9月25日の社説で、日銀による「量的緩和によって金利をゼロにするという異例の政策」が政治や財政に与えている「危機感の喪失」というものを批判しているよ。「甘えていては後が大変」というタイトルを付けてね。
 そうだね。本当はゼロ金利政策そのものを批判したくてしょうがないみたいだが(^^)、さすがにそれをやると、『朝日』は日本と世界を恐慌にしろと言うのか、あるいは経済的弱者や敗者は死ねというのか、という批判を浴びるということが最近やっと分かって来たらしいな。「景気の回復感も弱い」現状では「金融緩和政策はなおしばらく続けざるを得まい」と書いてるからね。
 「続けざるを得まい」と来るから笑うよ。そしてそれに続くのが「問題はゼロ金利が政治や財政に与えている副作用だ」だぜ。「副作用」だってよ(^^)。
 相変わらず量的緩和を「異例」と言ってるぐらいだから、それさえ「劇薬」なんだと言いたいんだろうな。もし日銀がインフレ目標政策の採用に踏み切ったら、『朝日』はなにを書くんだろう? このままデフレが続いて行ったら、当然インフレ目標(=超金融緩和)は次の選択肢になるわけだからね。
 まあ、日本のマスコミなどがふりまいている新古典派経済学や新自由主義に基づく「構造改革主義」については以前俺たちもさんざん批判したからね。今回はマスコミによるそういう定型化された言論や発想がそもそも何なのかということを確認しておきたくてね。

 ハンナ・アーレントが「理解と政治」という文章のなかで常套句(クリシェ)について述べているが、それがいま君が言ってることと関係があると思うよ。彼女は「常套句が私たちの日々の言葉や議論に浸透するその度合いが、私たちがどれだけ言論の能力を奪われているか、そしてそればかりでなく、私たちの議論を終わらせるのに悪書(悪書にかぎってよい武器になる)よりもっと有効な暴力という手段に訴える用意がどれだけできているかを知る指標となる」(『アーレント政治思想集成2』みすず書房P.123)と書いているが、マスコミの言う「改革」をはじめとする常套句こそがひとびとから言葉や議論を奪っているんだよ。
 さすがにアーレントは凄いことを言うね。まさにマスコミなどがふりまく「改革」をはじめとする常套句はほとんど暴力だよ。なんのための「改革」かというのが吹っ飛んでるからね。『朝日』は真剣に「改革」を進めないと「そのつけは負担増という形で子や孫の世代に回る」と書いているが、そういう認識が誤りであるということは小野善康(阪大教授)などがあちこちに書いているよね。
 かつてブッシュ・シニアがサプライサイド経済学のことを「ブードゥー経済学」と呼んだが、マスコミが経済政策にからめて「改革」ということを言う場合には、サプライサイド理論のような裏付けさえないからね。「子や孫の世代」ということを言えば「現行世代」は恐れ入ると思っているらしいが、『朝日』や『日経』の言う通りにやっていたら、「子や孫の世代」が受け取るのは廃墟だけだよ。
 そうだよね。それからマスコミなどが「子や孫の世代」と言うところに「アーリア人種」とか「最も進歩した階級」というのを入れれば、ほとんど全体主義イデオロギーだよ。

 君にしちゃいいこと言うじゃないか。マスコミなどの現在憎悪、現行世代憎悪というのはひょっとするとマルクス主義や国家社会主義の発想がそういう形で生き延びていることの現われなのかもな。
 どうかな。まあ、ナチスやボリシェヴィキ(スターリニスト)のやり方が手法として有効性を持っているということはあると思うけどね。小泉内閣の「構造改革」路線については党内権力闘争と竹中平蔵の新古典派経済学で解けると思うが、マスコミと世論の場合には一種の現在憎悪があるのかもね。
 とにかく幸福じゃないということなんだろうな。「改革」という言葉に込められているのは、何よりもまず現状を打破すべしというほとんど自暴自棄でやけくそな気分だよね(もちろん「構造改革」が事業拡大のチャンスになる勝ち組企業や経団連はちゃっかりその尻馬に乗っているが)。
 しかし、恐らく主として日銀の金融緩和によってマクロ経済の状態は去年の秋ぐらいからそれ以前よりはだいぶ改善しているよね。
 経済だけの問題じゃないんだよ。サッチャリズムやレーガノミクス以来新自由主義的な考え方が多くのひとびとを捉えて来たのは、市場を介したひととひとの関係(とマネー)しか信じられなくなったという実感がベースにあるんじゃないのか? つまり、もはや「社会の習俗と伝統」(モンテスキュー/アーレント)がほとんど失われてしまったという絶望的な気分があるんだろうと思うよ。
 戦後の日本では会社や労組などが「習俗と伝統」という社会のきずなを守る最後の砦みたいになって来たからね。それが成果主義などで破壊されてしまったら、市場しか残らないわけだ。
 そういう絶望的な気分に「改革」という常套句がぴったりハマるということなんだろうね。

 ところできのう(9/27)第2次小泉改造内閣が発足したが、何か感想はあるか?
 俺は政界ウォッチャーではないし、そもそも政界なるものにはほとんど興味も関心もないんだが、「反小泉」の亀井静香や古賀誠はともかくとして、堀内光男や額賀福志郎をかやの外に置いたというのはどうかと思うよ。YKKについては、山崎拓との関係をいっそう強化して、加藤紘一と距離を置いたのは小泉のイデオロギーからすればよく分かるけどね。
 君はどういうわけか堀内光男を高く評価しているんだよね(^^)。
 経済政策についてだけなんだけどね(^^)。それにしても、小泉流の「構造改革」路線に対して亀井静香みたいな教条的で時代遅れの積極財政(国債増発)路線がケインズ主義のように見られるのは情けない。それもこれも野中広務や堀内光男のような実力者がいいブレーンを持っていなかったからなんだろうが。
 もともと自民党なんてその程度のものじゃないか。マクロ政策が中心的な論点でありえた時代は池田内閣や佐藤内閣の頃に終わっているよ。日本が純債務国だったのは1967年までだそうだが、それを脱した途端に経済政策は中心テーマではなくなった感があるじゃないか。
 え、そうなのか。1967年なのか。それをAKに教えてやったら「山ノ内のマリア」をもう少し続けると言い出すかもしれないぞ(^^)。それはともかく、政治から議論や闘争や葛藤が消失して利権をめぐる統治が前面に出て来たのは田中内閣の頃からだったかもしれないね。細川内閣の頃からは利権が世論に変わったわけだが、政治の本質は変わっていない。民主党に至っては世論政治しかない。
 政治から経済論議が消失した途端に政治が"反政治"になってしまった感じだな。いまや「世論の暴政」頼みだもんな。経済的に豊かになって駄目になったのは左翼だけじゃないということだ。

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