管理人のつぶやき(13)


2006/08/27 木下恵介『二十四の瞳』(2)
              ーー映画が捉えた郷土ーー

◇木下恵介の『二十四の瞳』は郷土色の強い映画である。原作の小説を書いた壺井栄が小豆島の出身だから、それは当然と言えるかもしれない。映画のストーリーも、いくつかのエピソードと人物設定など、部分的な変更を別にすれば、壺井栄の原作をほぼ忠実になぞっている。木下恵介は浜松の出身だから、小豆島のことをよく知っていたとは思えないのだが、それにしては小豆島の風景と人びとの生活をよくつかんでいるように思われる。壺井栄の小説がよほど気に入ったのか、あるいは、小豆島と瀬戸内海の風景に自身の原風景のようなものを見て取ったのか。いずれにしても、この映画の風景と事物には極めて自然なリアリティが感じられる。まるで昭和のはじめの小豆島がそこに現前しているように見えるのだ。

◇この映画は郷土色が強いだけではなく、郷土愛のようなものさえ感じられる。その郷土愛を愛郷心と言い換えても構わないと思うが、もちろんそれは愛国心とは違う。そもそも壺井栄はプロレタリア文学系統の作家であったと言われている。それゆえ、壺井栄の作中の分身と考えられる大石先生は、学校の教頭(映画では校長)から、「大石先生、赤じゃと評判になっとりますよ。気をつけんと」と注意されるような言動を行なっている。大石先生は戦争と軍人が大嫌いで、非国民、国賊と言われかねない人物なのだ。しかし彼女は、軍人志望、下士官志望が多い男子生徒はもちろんのこと、小豆島とそこに住む人びとを愛している。つまり、この物語に見られる反戦思想は戦後民主主義のそれとはかなり違っているように思える。

◇この映画が戦後を代表する「国民映画」となった理由のひとつはそこにある。木下恵介は、高峰秀子が演ずる大石先生に、自分が戦争と軍人が嫌いであることをはっきり語らせている。しかし男子生徒たちとの会話においては、「そう、先生弱虫」とも言わせている。また、夫のところに召集令状が届いた場面では、母親、夫、ふたりの子供の言動を通じて、大石先生のわがままぶりを浮き上がらせている。大石先生の長男大吉は典型的な軍国少年として登場するが、実に愛すべき少年としても描かれている。映画の後半になると、この大吉が物語の推進力にもなっていくのだが、戦争をくぐり抜けた公開当時の観客たちが、大吉に戦争中の自分を投影したとしても不思議はない。大吉は日本中どこにでもいたであろう普通の軍国少年なのだ。

◇石原侑子の『異才の人・木下恵介』(パンドラ)によると、佐藤忠男は「この映画が戦争の被害者としての庶民の意識のみを描いていて、自分たちが加害者でもあることを不問にしていること」を問題にしているそうだ(P.61)。あるいはそれは、極めて自然な軍国少年としての大吉の描き方から出てきた批判かもしれない。しかし、大吉が生まれたのは昭和9年頃と考えられるから、木下恵介による大吉のキャラクター設定が間違っているわけではない。木下恵介は壺井栄が造型した人物像を更に魅力的にふくらませたにすぎない。佐藤忠男の批判は分からないではないが、そういう視点を『二十四の瞳』に求めるのはおかど違いだろう。木下恵介がこの映画を通して描きたかったことのひとつは、戦争が郷土としての小豆島の平穏な生活と風景を押し流して、軍国主義に染め上げたことにあったと思われる。じっさい大石先生以外の島のおかみさんたちは、戦争中の場面では出征兵士を送り出す愛国婦人会風の集団としてのみ登場する。

◇そういう意味では、戦争中の小豆島のあり方をほぼ過不足なく描き出していると言える。そうして見ると、佐藤忠男の方が戦後民主主義的に見えてくる。木下恵介に見られる郷土への愛は、壺井栄の場合と同様ほとんどぶれがない。それは、木下恵介と壺井栄の戦争批判にはイデオロギッシュなものが感じられないということでもある。それは一種のエゴイズムではあるのだが、そこにあるのは郷土の自然とそこにおける人びとの暮らし、そういうものへの愛にほかならない。当然ながら、そうした愛はエゴイズムに通ずる。しかしそれを批判しても意味があるとは思えない。何故なら、われわれは物質的にも精神的にも郷土なしには生きられないからだ。もちろん戦争は郷土を守るためにも行なわれるのだが、それは働く者たちの国際主義的連帯によって守られなければならない、とするのが壺井栄の考え方だったと思われる。木下恵介にはそういう考え方はなかったかもしれないが、郷土への愛ということでは違いはなかったように思える。

◇この映画には、小豆島のショットに重ねて、「海の色も、山の姿も、そっくりそのまま、昨日につづく、今日であった」という字幕が何度か出てくる。壺井栄の原作にある言葉をそっくり踏襲したものだが、この言葉は郷土についての定義でもある。郷土について「海の色も、山の姿も、そっくりそのまま、昨日につづく、今日であった」という言い方ができなくなるのは、昭和30年頃以降のことである。従ってこの映画は、郷土が郷土でありえたぎりぎり最後の時期に作られたことになる。この映画に見られる小豆島の風景が圧倒的に美しいのはそのためでもある。しかし、その美しさは、この映画の翌年(昭和30年)に公開された『野菊の如き君なりき』(監督:木下恵介)に描かれた信州の風景の幻想的な美しさとは、その意味合いがまったく違う。『野菊の如き君なりき』における信州の田園は、いわば人工庭園なのだ。それは郷土の残像のようなものでしかない。木下恵介がそのことを明確に意識していたことは、風景をいわゆるタマゴスコープ(それは第一次的には回想された情景を意味する白くぼかされた楕円形の額縁なのだが)に閉じ込めたことからも理解できる。要するに、『二十四の瞳』はわれわれが持っていた貧しくも美しい郷土へのレクイエムでもあったということだ。(続く)


2006/08/20 木下恵介『二十四の瞳』(1)

◇いまではあまり顧みられることもないのかもしれないが、昭和29年(1954年)に公開された木下恵介の『二十四の瞳』は、戦後に作られた「国民映画」として、かつては圧倒的かつ熱烈な賞賛を集めていた。吉村秀夫の『木下恵介の世界』(シネ・フロント社)という本によると、1983年にNHK放送世論調査所が行なった調査「日本人の好きなもの」のうち、「好きな日本映画」の2位は『男はつらいよ』シリーズで35.0パーセント、それに対して『二十四の瞳』は単独で41.0パーセントの支持を得たそうだ(石原侑子『異才の人・木下恵介』パンドラP.34)。制作の30年後においてさえダントツの1位だったのだ。ちなみに3位以下は、『幸福の黄色いハンカチ』、『七人の侍』、『人間の条件』、『座頭市』シリーズ、『羅生門』、『蒲田行進曲』、『用心棒』、『夫婦善哉』と続く(同上)。こうして見ると、回答を寄せた人たちの年齢の高さを窺わせるが、それでも80年代半ばぐらいまでは、歌で言えば「青い山脈」のような位置を『二十四の瞳』が占めていたことが分かる。

◇この調査はNHKの調査機関が行なったものだから、テレビ放映を通じての再評価という側面が強いのかもしれない。しかし筆者はテレビではみたことがない。学校時代に壺井栄の『二十四の瞳』を教わったとき、木下恵介の映画のことも聞いたように思うが、遂にみる機会がないままになっていた。従ってこの拙文は、木下恵介のDVDボックスが分売されたことで、ようやくみることができた者の感想のようなものでしかない。しかし歳月を経て古びるものは古びるし、古びないものは古びない。では木下恵介の『二十四の瞳』はどうなのかと言えば、古びないどころか、いかなる映画よりも新しく、歳月とともにますます輝きを増す映画のように思える。いやむしろ、これはわれわれの未来に属する映画と言うべきなのだ。というか、われわれ自身が忘却しているわれわれ自身の潜勢力に関わる映画と言うべきなのかもしれない。つまり、つねに来たるべき映画としてみられるべき映画なのだろう。そういう稀有な映画と言うべきなのだ、この『二十四の瞳』は。

◇そういうわけだから、この映画について語ることは簡単ではない。しかも、筆者のように公開されてから半世紀以上が経ってからみた者としては、この52年のあいだに『二十四の瞳』と木下恵介について語られてきたことをなにも知らない。とはいえ、幸いなことに『二十四の瞳』が公開された当時のことは多少知っている。幼児だって世界を知らないわけではないのだ。しかも、「もはや戦後ではない」というよく知られた言葉を含む経済白書が発表されたのがその2年後の昭和31年のことであれば、一個の幼児だった筆者の前に開かれた世界と、『二十四の瞳』の世界とがそっくり重なっていた可能性さえあるのだ。もしかすると、『二十四の瞳』はその当時幼児だった者に特別な喚起力をもつ映画なのかもしれない。『二十四の瞳』はまた唱歌映画という一面を持っているから、聴覚への喚起力も強い。それゆえここで語られることは、まずは個人的な視点からのものになるかもしれないが、だからと言って意味をもたないとは言えない。この映画の底にあるものが、人間のコモンセンスのあり方に関わっているとしたら、それについて語ることはたしかに意味をもちうる。

◇ところで佐藤忠男はこの映画について次のように書いている。「日本映画史上、おそらくはもっともたくさんの涙を観客の涙腺からしぼり取った作品のひとつであり、戦争はもう嫌という気持を最も広くひきおこしたという意味で、戦後の日本の反戦映画の最大の作品である」(『日本映画300』朝日文庫P.258)と。現在は絶版になっているようだが、佐藤忠男は『木下恵介の映画』(芳賀書店)という本も書いているから、上に引いた短い紹介文に『二十四の瞳』についての佐藤の見方が書き込まれているとは思えないが、それでも最大公約数的な観点は見てとれる。「日本映画史上・・・もっともたくさんの涙を観客の涙腺からしぼり取った作品」というのと、「戦後の日本の反戦映画の最大の作品」という2点がそれだ。このうちの前者については、「快いセンチメンタリズムに徹して押しまくる充実した仕事ぶり」という言い方もしている(同上P.259)。壺井栄の原作小説に解説を寄せている小松伸六という評論家も、「私はこの映画を東京渋谷の満員の映画館でみたが、とめどなく涙を流したおぼえがある」と書いているから(壺井栄『二十四の瞳』新潮文庫P.277)、この映画が公開当初から情感のたっぷり詰まった泣かせる映画としてみられてきたことは間違いないようだ。

◇既に述べたように、『二十四の瞳』は唱歌映画という一面をもっている。使われている唱歌を順に挙げていくと、「仰げば尊し」、「アンニー・ローリー(才女)」、「村の鍛冶屋」、「ふるさと」、「おぼろ月夜」、「春の小川」、「荒城の月」、「港」、「星の界(よ)」、「浜辺の歌」、「埴生の宿」、「蛍の光」、「兵隊さん」、「庭の千草」の14曲におよぶ。唱歌以外では「七つの子」、「ひらいたひらいた」、「あわて床屋」、「ちんちん千鳥」、「金毘羅船々」、そして軍歌・戦時歌謡では「日本陸軍」、「露営の歌」、「暁に祈る」、「若鷲の歌」が使われる。あと、「汽車は走る、煙をはいて」という歌と、「千引の岩」と呼ばれる歌が出てくるが、いずれも初めて聴くものでジャンルは不明。このうち「七つの子」は映画全体を通じて9回繰り返される。この9回というのは、小津安二郎の『晩春』(昭和24年)において繰り返される鎌倉の家の表玄関前ショットと数のうえでは同じ。『晩春』の表玄関前ショットが昼であったり夜であったりするように、『二十四の瞳』の「七つの子」も歌われたり器楽演奏だったりする。木下恵介がそこで小津を意識していたかどうかは不明だが、この「七つの子」の反復は、小津のショットが潜在的には無限回のうちの9回であるのとは意味が違う。「七つの子」は12人の子供たちのテーマとして繰り返し使われるにすぎない。そういう意味ではワーグナーのライトモチーフに近い。

◇しかし、繰り返されるのは「七つの子」だけではない。例えば「アンニー・ローリー(才女)」は5回、「ふるさと」は4回、「仰げば尊し」は3回、「おぼろ月夜」と「埴生の宿」もそれぞれ3回、「港」と「浜辺の歌」と「蛍の光」はともに2回、つながりをもった一連の場面で使われるとはいえ、「星の界」は合計3回出てくる。1回しか使われない楽曲でも、「村の鍛冶屋」、「汽車は走る・・・」、「あわて床屋」、「荒城の月」、「日本陸軍」、「庭の千草」などは強く心に残る。多くの場合、それらは大石先生(高峰秀子)と12人の生徒たち、あるいは出征兵士を送る小豆島の人びとによって歌われる。つまり、『二十四の瞳』で使われる音楽はただのBGMなどではないのだ。それはこの映画の重要な話法のひとつであり、それ以上に物語の推進力なのだ。例えば、大石先生とその教え子たち(を含む6年生)が修学旅行で四国へ向かう途中、大石先生たちが乗った船と、大石先生の夫が乗った遊覧船が瀬戸内海ですれちがう場面があるが、そこに流れる「埴生の宿」は遊覧船のブラスバンドによって演奏されるもので、映像・物語と完全に融合している。これほど晴朗で躍動的で幸福な場面はみたことがないほどだが、それはここで演奏される「埴生の宿」を抜きにしては考えられない。

◇同じことは映画の転換部で使われる「日本陸軍」についても言える。それは12人の子供たちが小学校を卒業(ひとりは貧乏のため中退)してから8年ほどが経ったのち、小豆島の人びとが白い吹き流しを押し立てて行進しながら歌うもので、小学校の分教場がある岬を含む小豆島の全体が戦時体制に入ったことを鮮烈に告げる。彼らが行進する海と山に挟まれた道は、映画のはじめの方で大石先生が分教場から帰ってくるときに自転車で走っていた道でもあり、そのときはのどかな「ふるさと」が流れていたから、「日本陸軍」による行進はみる者に痛みをもたらすとともに、物語が折り返し点をまわったことを教える。

◇また、大東亜戦争の実質的な終焉(敗戦)は、島に帰ってきた白木の箱を抱えた人びとの列のバックに流れる、フルートで演奏される「おぼろ月夜」によって告げられる。雨のなかのこの美しい葬列の場面は、唱歌が説話的機能を果している典型的な事例と言える。ちなみに、この島の桟橋上の静かな葬列は、小津安二郎の『小早川家の秋』(昭和36年)の葬列のショットにおいてそっくり引用されているように思える。このことは、木下恵介が小津の『風の中の牝鶏』(昭和23年)の売春宿から見られた月島小学校の校庭のショット(そこでは「夏は来ぬ」が流れる)を、この映画で引用したこと(「星の界」が流れる本校の校庭のショット)への返礼とも取れるのだが、それは筆者の想像でしかない。しかし、山中貞雄が『丹下左膳餘話・百萬両の壺』(昭和10年)において、小津の『出来ごころ』(昭和8年)の指のギャグを、眼のギャグに変えて引用した例もあるから、大いにありうることだ。ついでに言っておくと、移動撮影の名手と言われた木下恵介が、この映画では固定ショットを(小津的なカーテン・ショットさえ)多用している。そこにはやはり小津の影が感じられる。

◇この映画の唱歌が流れる場面で、最初に強く心に刻まれるのは、本校に通うことになった5年生たちが歌う冒頭の「村の鍛冶屋」の場面だろう。物語は、5年生になった岬の子供たちが、本校がある本村に向かって「村の鍛冶屋」を歌いながら歩いてくる昭和3年4月4日の場面で始まるのだが、画面が山の連なりを背景にしたロングショットに切り換わった瞬間、われわれは小豆島の山の異様な高さと尋常ならざる美しさに息を飲む。その驚嘆すべき風景のなかを、岬の子供たちが「しばしもやまずに槌うつ響き/飛び散る火の玉はしる湯玉/ふいごの風さえ息をもつがず/仕事に精出す村の鍛冶屋/あるじは名高きいっこく親父/早起き早寝の病知らず/鉄より硬しとほこれる腕に/勝りて硬きは彼がこころ」と歌いながら歩いて行く。歌は「稼ぐに追いつく貧乏なくて」と続いていくのだが、そこまできてわれわれは、この映画の物語を予感する。つまり、この映画は圧倒的に美しい島の風景と、そこに生きる勤勉で貧しい人びとの物語に違いないと。じっさいその通りなのだが、その意味でこの映画は、監督の木下恵介と、その義弟のキャメラマン楠田浩之、そして音楽を担当する恵介の実弟木下忠司(作曲家)のコンビネーションから生まれた映画であるとも言える。

◇島の人びとの貧しさについては、例えば次のように語られる。「先生がそんなに言うてくださっても、赤ん坊が死なないかぎり、松江を学校へやることはできません。・・・ どうせ月足らずの赤ん坊ですもの、母親の乳がのうなってしもうたら、長うは生きておらんでしょう。その方が赤ん坊のためにも幸せです。こんな貧乏家に育ったかて、なんでええことがあるもんですか」と。これは、大石先生の生徒である川本松江(通称マッちゃん)の母親が、赤ん坊を生んだ直後に急死したため、松江に子守りをさせるほかなくなり、学校へやることができなくなったことを、マッちゃんのお父さん(小林十九二)が大石先生に語る台詞である。それを聞いた大石先生は、マッちゃんのお父さんとともに泣く。バックには「星の界」が流れる。この映画の最も美しい場面のひとつであるが、映画が公開された昭和29年当時においても、このような悲劇はそれほど珍しいことではなかったはずだ。マッちゃんはそのとき(物語の上では昭和8年)小学6年生になったばかりなのだが、義務教育とは名ばかりで、それを保障する制度はなかった。これが島の人びとの貧しさの姿である。

◇ところで、その頃のこうした貧しさを不条理と言うべきだろうか? たしかに不条理には違いないのだが、そのような貧しさは日本人全体、あるいは日本全体で共有されていた。この映画が、「日本映画史上、もっとも多く、もっとも深く、観客を泣かせた映画」(佐藤忠男/石原侑子の上掲書P.60より)となったのは、そういう事情にも依っていた。この映画に見られる小豆島の海と山の驚嘆すべき美しさは、生活の豊かさとは両立しえない。言い換えれば、この映画に見られるような風景の美しさは貧しい者にのみ与えられる。マッちゃんは赤ん坊が死んだあと高松へ奉公に出される。木下富士子という教え子は小学校卒業後、より悲惨な運命をたどるように思われる。片桐コトエといういちばん成績が良かった少女は、奉公先で肺病になって若くして(実家の納屋のようなところで)死ぬ。しかし、いわばそうしたことと引き替えに、幼少期の彼ら彼女らには「山は青き・・・水は清きふるさと」(唱歌「ふるさと」の歌詞)と、この上なく美しい歌が与えられる。従って、貧乏ではあっても不条理なことはなにもないとも言える。それが昭和30年頃までの多くの日本人の生のあり方だったのだから。(続く)

(追記:この映画の登場人物たちは、よく泣き、よく歌い、よく走り、よく憤るのだが、それらの意味についてはまた改めて考えてみたい。また、この映画の風景の意味がきちんと理解されないかぎり、この映画がわれわれの未来に属するという筆者の予断は予断にとどまる。)


2006/07/25 富田メモ

◇いささか旧聞に属するが、昭和天皇の言葉を記録したとされる富田朝彦元宮内庁長官のメモなるものが、大手メディアによって公表された。メモの日付は1988年4月28日とされるが、その日はサンフランシスコ講和条約が発効した日から数えて36年目に当たる。その意味するところは明らかであると思われる。そしてその日付からして、そのメモが偽造されたものとは考えにくくなる。昭和天皇はサンフランシスコ講和条約発効の日に、そのこんにち的な意味を宮内庁長官に語ったと推察されるからだ。

◇ところが、例えば朝日新聞の社説では、「東条英機元首相ら14人のA級戦犯が靖国神社に合祀されたのは、78年のことである。戦後も8回にわたって靖国神社に参拝していた昭和天皇は、合祀を境に参拝を取りやめた。/その心境を語った昭和天皇の言葉が、故富田朝彦の手で記録されていた。A級戦犯の合祀に不快感を示し、「だから私あれ以来、参拝していない。それが私の心だ」とある。/昭和天皇が靖国神社への参拝をやめたのは、A級戦犯の合祀が原因だったことがはっきりした。」とされる(7月21日朝刊)。

◇たしかに、公表された富田メモを見るかぎり、朝日の社説のような読み方もできるかもしれない。しかし、なぜ「A級戦犯の合祀が原因」で「参拝していない」のかと問えば、「憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること」、あるいは、「批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること」という、日本国憲法第七条「天皇の国事行為」に規定された天皇の"職責"からきていることがはっきりする。天皇はサンフランシスコ講和条約を公布し、それを認証する責務を負っているということだ。

◇つまり、「昭和天皇が靖国神社への参拝をやめたのは、A級戦犯の合祀が原因だった」のではない。そうではなく、A級戦犯が合祀された靖国神社に参拝することは、サンフランシスコ講和条約の第11条に抵触するゆえに、参拝したくとも参拝することができない、という風に理解されなくてはならない。昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯の合祀を希望していなかったか、その逆だったかは分からない。しかし昭和天皇"個人"としては、東條英機や武藤章の合祀を密かに希望していた可能性はある。

◇その場合、天皇は靖国神社に参拝することはできなくなるのだが、東條英機や武藤章については昭和の国事殉難者とも見ることができるからだ。しかし、軍人でもなく処刑されたわけでもない松岡洋右や白鳥敏夫を国事殉難者と見ることができるだろうか? むしろ、東條や武藤を昭和の国事殉難者たらしめた張本人こそ、三国同盟を推進した松岡や白鳥たちではなかったのか? 恐らく昭和天皇の考えはそういうものだったろうし、昭和史を公平に見ていけばそういう結論に至る可能性が高い。

◇げんに、公表された富田メモを冷静に読むと、そういう風にも読むことができる。「私は 或る時に、A級が合祀され その上松岡、白取までもが/筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが/松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と・・・」というくだりがそれだ。戦後の靖国神社がひとつの宗教法人にすぎないということを昭和天皇が知らなかったことはありえないわけだし。いずれにしても、富田メモに見られる発言は、「国政に関する権能を有しない」(日本国憲法)象徴天皇としての"私的"な談話と見るべきだろう。

◇しかしながら、この談話が4月28日になされたということを意図的に無視して、昭和天皇がA級戦犯に不快感を抱いていたかのような情報を垂れ流す大手メディアのふるまいは看過することができない。それは読者と国民を見くびった報道であると言わなければならない。そうしたふるまいは、松岡洋右や白鳥敏夫や大島浩(駐独大使)がなしたこととほとんど違わない。戦前から常に過ちを繰り返してきたのは、大手メディアの方ではないのか? それに今回の報道には談合の疑いさえ持たれかねない。

◇つけ加えておくと、サンフランシスコ講和条約第11条の「戦争犯罪」条項は、A級戦犯に限定されているわけではない。それゆえ、A級戦犯の分祀というということを問題にするとすれば、合祀されているBC級戦犯をどうするのかということも考えておかなくてはならない。A級が"政治犯罪"であるとすると、BC級こそが純然たる"戦争犯罪"であるという事実に直面させられることもありうるからだ。だからこそ「慎重に対処」されなければならないということだ。昭和天皇が言われたように。


2006/05/28 小津安二郎の犯罪映画

◇改めて言うまでもないことだろうが、戦後の小津安二郎は犯罪映画らしきものを撮っていない。戦後の小津の映画に警察が出てくるのは、1957年の『東京暮色』と、1959年の『お早よう』の2作だけだろう。しかも後者はほとんどギャグ的な仕方で警官が出てくるわけだから、犯罪がらみで警察が出てくるのは『東京暮色』だけと言える。それも有馬稲子が男を待って深夜に喫茶店にいたために刑事に補導され、それを姉の原節子がもらい受けにくるという設定で、軽度の非行がからんでいるに過ぎない。しかし、寒い冬の深夜に大きなマスクで顔を隠した原節子が警察署に現われるシーンは、かなり衝撃的と言える。ちなみに、有馬稲子を補導した刑事役の宮口精二もマスクをしていた。もちろんマスクは顔を隠すための小道具であるわけで、そこに戦後の小津映画のなかにおける『東京暮色』の特異な位置を見ることができる。

◇しかしそうは言っても、『東京暮色』を小津安二郎の犯罪映画と呼ぶことはできない。有馬稲子がほとんど自殺と思われる死に方をするのは、警察に補導されたことと無関係ではないのだが、直接的には「うちには警察なんかに呼ばれる者はいない筈だ・・・そんな奴は、お父さんの子じゃないぞ」と父親(笠智衆)に言われたことの帰結と言える。それは妻に駆け落ちされた父親に娘2人という家庭環境がもたらした悲劇であり、『東京暮色』の主題はむしろそこにある。小津自身が、妻に逃げられた夫を描いたと語っており、物語の展開から言ってもこの映画が親と子のあり方を軸とした小津的ホームドラマのひとつであることは間違いない。しかし「白昼の作家」(蓮實重彦)と言われる小津安二郎が暗い夜を、あるいは寒い冬を描いた作品としてこの映画を見るとき、われわれは小津映画の制作の底流を見て行くことを促されることになる。

◇小津安二郎が撮った犯罪映画としては、1930年の『その夜の妻』と1933年の『非常線の女』を挙げることができる。しかし、前者が病気にかかった子供の治療代を得るためにピストル強盗をはたらく夫(岡田時彦)とその妻(八雲恵美子)の物語であるのに対して、後者はギャングスターの与太者(岡譲二)とその情婦(田中絹代)を中心とする犯罪メロドラマであるといった具合に、両者の性格は異なる。ギャングスターの与太者を描いた映画としては、『その夜の妻』と『非常線の女』に先立つ1930年3月公開の『朗かに歩め』が挙げられる。但し、この映画は「ナイフの謙」と呼ばれる与太者(高田稔)が堅気の娘(川島弘子)の愛によって回心するということがテーマになっており、厳密な意味での犯罪映画とは言えない。しかし、犯罪者を描いた映画という意味も含めて、ここに挙げた3作を小津安二郎の犯罪映画3部作と呼ぶことにしよう。

◇1931年の『淑女と髯』にも恐喝をはたらく不良モガ(伊達里子)が登場する。しかし彼女は与太者グループの仲間とはいえ、あくまでも脇役として出てくるにすぎない。従って、これはどう見たって犯罪映画と呼ぶことはできない。むしろ『淑女と髯』は、バンカラでエキセントリックな正義の味方(岡田時彦)を主人公にしたヒーロー映画、あるいは、彼に恋する清純なタイピスト広子(川島弘子)とのやりとりを面白おかしく描いたかなりメロドラマチックな恋愛映画を呼ぶべきだろう。こんにち残っている小津映画のなかで、恋愛そのものを扱った本格的恋愛映画と言えるのは、この『淑女と髯』だけかもしれない。それだけに、この映画はまことに貴重な異色作と言うべきなのだが、それについては機会を改めて見て行くことにする。

◇そういうわけで、小津安二郎の犯罪映画は『朗かに歩め』に始まると見ることができる。そのテーマが与太者の回心ということにあるように、この映画は夜の暗さや冬の寒さとは無縁と言える。この映画はスリをはたらいて逃げる仙公(吉谷久雄)と、彼を追いかける男たちの場面から始まるが、その追跡劇からしてコミカルである。仙公は男たちに捕まるが、紳士を装った兄貴分の謙二(高田稔)の介入によって無罪放免となる。謙二は仙公が盗った財布を、仙公の身体検査によってまんまと手に入れる。こうして、この映画はれっきとした犯罪によって始まるのだが、そこには暗さがない。そのあとの謙二のアパートや玉突き場における与太者たちの奇妙なしぐさ、モダンな服装、気取った挨拶などは、完全にアメリカ・サイレント映画の模倣と言える。しかし、後年の小津映画の特徴と言われる人物配置と動作の相似形と言われるものが、与太者たちのこのバタ臭いアクションに見られることも事実なのだ。しかも、この与太者たちの集団相似形パントマイムは、デヴィッド・ラフィンを中心とするテンプテーションズのステージ・アクションを思い出させもする。

◇いま小津の映画は世界のあちこちで熱心に見られ、また語られてもいるわけだが、その原点はサイレント時代の『朗かに歩め』に求められるのではないかとも考えたくなる。60年代におけるテンプテーションズ、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズ、フォー・トップス、シュープリームスなどのステージ・アクションがひとびとにどれほどの感動を与えたかは分からないが、「マイ・ガール」や「ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ」の大ヒットが、テンプテーションズやシュープリームスのステージ・アクションと無関係だったとは考えにくい。つまり、人物配置と動作の相似形がわれわれに深い感動をもたらすとすれば、それは小津映画の専売特許とは言えない。それを最初にフィルムに定着させたのはアメリカ・サイレント映画の作家たちだったろう。しかしトーキーの時代になって、ひとびとに感動と笑いをもたらしたサイレント映画のパントマイム芸は急速に忘れ去られて行った。よく知られているように、小津のトーキー第1作は1936年の『一人息子』だったわけだが、これは大手の映画会社に所属する映画作家としては異例に遅いトーキー採用と言える。

◇移動撮影やスムーズなパンができる機材が開発されても、絵(構図)を見せるアートとしての映画という考え方から固定ショットにこだわり続けたように、小津はサイレント時代に完成の域に達した演出技法を放棄しなかった。それどころか、遺作となった『秋刀魚の味』(1962年)においてさえ、岡田茉莉子(1934年に亡くなった岡田時彦の娘)にパントマイム的芸を要求している。夫役の佐田啓二を小馬鹿にしたような上を向いて「フン」とやるしぐさがそれだが、人物配置と動作の相似形ということでも、近くのバーにおける笠智衆と加東大介と岸田今日子の行進と敬礼の動作において反復される。これらの小津的演出技法の原型が1930年の『朗かに歩め』に見られると言っても決して過言ではないのだ。

◇小津安二郎は、ハリウッド的な制作技法に背を向けて、小津調と言われる様式を完成させて行ったのではない。逆なのだ。むしろ小津は、サイレント時代にひとつの完成を見たアメリカ映画の制作技法を、トーキーの時代においても守り抜いた作家と言うべきなのだ。上に述べた小津映画と60年代モータウン特有のステージ・アクションとの驚くべき近似性などは、そのことを措いては考えにくい。戦後の小津安二郎は保守的で伝統主義的な映画作家と見なされてきた。もちろんそうした評価が間違っているわけではない。しかし小津が『秋刀魚の味』に至るまで守り抜いた伝統というのは、1920年代〜30年代のモダンボーイ小津安二郎が、アメリカ映画から学びとった映画制作技法の伝統と言うべきなのだ。小津的な説話の技法が不自然でぎこちなく見えるのはそのためだ。しかし、『宗方姉妹』(1950年)で田中絹代に語らせた台詞に言う「古くならない」「新しさ」が小津映画の核にあるとすれば、それは60年代モータウンのステージ・アクションにも通ずる小津特有のアクション観、身体観、あるいは視覚観によっているに違いない。(続く)


2006/05/18(対話-99) 小津安二郎『麦秋』の謎(4)

 前回までの話で、『麦秋』のストーリー上の謎が徐々に明らかになってきつつあるわけだが、その後新たに気がついたことがあって、今回はその話をしておこうと思ってね。
 新たに気がついたことってなんだ?
 前回ちょっとだけ触れた佐野周二の佐竹専務と淡島千景のアヤとの会話のなかで、原節子の紀子は学校時分ヘップバーンが好きだったとアヤが言う場面があるだろう?
 あるね。
 その部分を再現すると以下のようになる。ーー佐竹「(紀子は)だれかに惚れたことないのかい?」/アヤ「さあ、ないでしょ、あの人。学校時分ヘップバーンが好きでブロマイドをこんなに集めてたけど」/佐竹「なんだい、ヘップバーンて」/アヤ「アメリカの女優よ」/佐竹「じゃ女じゃないか」/アヤ「そうよ」/佐竹「変態か?」/アヤ「まさか」/佐竹「いやあ、そんなとこだよ。おかしな奴だよ。」
 その会話が問題なのか?
 そうだよ。佐竹じゃないが、「ヘップバーン」って誰だい?
 オードリーじゃないのかい?
 おれもてっきりそう思い込んでいたんだが、『麦秋』は1951年の映画だから、アヤの言う「ヘップバーン」がオードリー・ヘプバーンということはありえない。

 なるほど、そういうことか。オードリー・ヘプバーンのデビューはいつ頃だ?
 映画デビューは1948年頃だと思うが、オードリーが世界的なスターになったのは、1953年の『ローマの休日』と1954年の『麗しのサブリナ』によってだよ。
 じゃあ、オードリー・ヘプバーンということはありえないな。アヤの台詞によれば、紀子がヘプバーンの熱心なファンだったのは女学校時代のことらしいからな。『麦秋』が作られて公開されたのが1951年で、その時点で紀子は28歳だったわけだから、彼女の女学校時代は30年代半ばから40年頃までだろうから。
 そう。オードリー・ヘプバーンは1929年生まれだから、オードリーではありえない。
 そうすると、アヤの言う「ヘップバーン」というのは、キャサリン・ヘプバーンのことか?
 それ以外には考えられないよ。1930年代から40年にかけてキャサリン・ヘプバーンが出演した映画は、『愛の嗚咽』(1932)、『勝利の朝』(1933)、『若草物語』(同)、『赤ちゃん教育』(1938)、『素晴らしき休日』(同)、『フィラデルフィア物語』(1940)という具合に傑作が目白押しだから。
 そう言われても、おれは知らないよ。おれが見たキャサリン・ヘプバーンの映画と言えば、ヴェネツィアを舞台にした『旅情』ぐらいだから。
 『旅情』は1955年の映画だよ。キャサリン・ヘプバーンは1907年の生まれだから、『旅情』に出演した時はもう48歳だよ。
 ヴェネツィアで出会ったイタリア男と恋に落ちるオールド・ミスの役だったかな。

 たしかそうだった。『麦秋』と同じ1951年には『アフリカの女王』という映画が作られているが、ハンフリー・ボガードとの共演がとてもよかった。ストーリー自体は他愛ないものだが、キャサリン・ヘプバーンの持つオーラというかデグニティが実に素晴らしかった。
 1930年代の映画はどうなんだ?
 その頃の映画でおれが見たのは1940年の『フィラデルフィア物語』だけだよ。小津で言えば『戸田家の兄妹』(1941)と同時期の映画だが、それも名作と言える。キャサリン・ヘプバーンのディグニティは原節子の気品と同質のものだが、更に杉村春子に当たるようなコメディエンヌでもある。
 原節子プラス杉村春子ならもう最強じゃないか。
 まあね。いずれにしても、半世紀以上も前の映画を見る場合には、その時代背景や社会通念をしっかり押さえなければならないということさ。
 その通りだね。ともかく今回の話で女学校時代の紀子のアイドルがキャサリン・ヘプバーンだったことが分かったわけだ。12歳の頃の紀子の愛唱歌が「雨降りお月」だったことに加えて、そういう"事実"が明らかになったわけだが、それでまた新たな紀子像が見えてくるのかな?
 ちょっと難しいね。なにが難しいかと言うと、『麦秋』が作られた当時の日本におけるキャサリン・ヘプバーンのイメージがまだよく分からなくてね。しかし、佐竹専務の言う「そんなとこだよ。おかしな奴だよ」の意味がより見えやすくなったことだけはたしかだね。


2006/05/03(対話-98) 小津安二郎『麦秋』の謎(3)

 前回の話はなかなか面白かったよ。たしかに小津安二郎の『麦秋』は、ただ見ているだけでは物語の構造がよく分からないからね。というのも、小津と野田高悟(シナリオ制作のパートナー)が、ストーリーそのものよりそれを駆動させる細部の方を重視する傾向があるからだろう。
 面白い物語というのは多かれ少なかれそういうところがあるんじゃないのか? ストーリーが百パーセント分かってしまうようなものはやっぱりつまらないよ。しかし小津安二郎の『麦秋』がスリリングなのは、物語が面白いというより見る者を動かす力を持っていることだろう。
 分かるような気がするが、それを説明してくれよ。
 例えば4月6日に話題にしたような、物語が別の物語を生み出して行くというようなことだよ。具体的に言えば、『麦秋』という物語が「雨降りお月」という新しい物語を生むというようなことさ。
 しかしあれは君の想像だろう? 蓮實重彦は小津安二郎を「白昼の作家」と呼んでいるようだが、君は小津における雨降りの意味を理解しているわけではないんだろう?
 もちろんはっきり理解しているわけではない。しかし、『麦秋』の間宮紀子が「雨降りお月」であることはまず間違いないよ。

 小津にとってもそうだったということか?
 と思うよ。もちろん、兄の笠智衆に「(12歳の頃の紀子が)よく雨降りお月さまなんか歌ってましたよ」と言わせた小津の真意がそうだったという意味ではない。真意なんか分かるわけがない。しかし『麦秋』を見るわれわれは、笠智衆の台詞の意味を理解することができるということさ。
 そういう台詞が出てくる流れを映画に見ることができるということか?
 そうだ。原節子の紀子が二本柳寛の謙吉(スマトラ島で戦没したと思われる紀子の次兄の親友)との結婚をひとりで決めて、気まずい家族会議が終ったあと菅井一郎の老父と東山千栄子の老母が二階に上がるよね。そこで東山千栄子が「のんきな子、ひとりで決めちゃって」、「自分ひとりで大きくなったような気になって」と言うじゃないか。
 そうだな。
 それから最後の方で、紀子が秘書をやっていた佐野周二の佐竹専務のところにお別れの挨拶に行くわけだが、そこで「アヤでも呼んで、どっか飯でも食おうか」という佐野周二の誘いを、「せっかくですけど、わたくし」と言って断わるじゃないか。もちろん佐野周二としてはお祝いと慰労のつもりで言っているわけだから、普通だったら受けるよね。
 しかし紀子は受けないんだよな。

 受けない理由は、自分の結婚によって鎌倉の間宮家が離散することを予感していること、それゆえ自分の結婚は祝福されるようなものではないと考えているからだろう。いずれにしても、紀子は結婚を「ひとりで決めちゃって」、ひとりで嫁に行くわけだよ。
 そこから「お嫁にゆくときゃ、ひとりで傘(からかさ)さしてゆく」と歌われる「雨降りお月」が出てくるというということだな。
 「雨降りお月」の歌は「傘ないときゃ・・・お馬にゆられて濡れてゆく」という風に続くわけだが、それは東山千栄子の台詞と佐野周二の誘いを断わることから見えてくる紀子の姿だよね。
 ひとりで結婚を決めた紀子を「大変古風なアプレゲール」と評したのも専務だったな。
 それは佐野周二の専務のところに挨拶に行く前の、紀子と淡島千景のアヤ(紀子の親友)の話のなかで出てくるのだが、たしかに「雨降りお月」なら「大変古風なアプレゲール」と評されるに相応しい。
 すべてが笠智衆のあの台詞に向かっているということか?
 そう。すべての要素とベクトルが紀子のあるイメージへと向かって行ったところで、「ここのところにリボンなんかちょこんとつけて、よく雨降りお月さまなんか歌ってましたよ」が言われるわけだ。
 そうすると、それは「白昼の作家」小津安二郎における雨の意味とは関係がないということか?
 関係がないかどうかはまだおれには分からない。しかし物語の流れから言えば、紀子が「雨降りお月」であることは疑いようがないよ。

 シナリオも実によく書けているからな。
 もうひとつ言っておくと、紀子たちが大和から出てくる父のお兄さんの高堂国典を東京駅に迎えに行く前に、笠智衆の兄、三宅邦子の嫂と一緒に新橋あたりの料理屋で飯を食う場面があるだろう。
 あるね。
 そこで兄が「お前そんなこと思ってるから、いつまでたってもお嫁に行けないんだ」言うのに対して、紀子は「行けないんじゃないの。行かないの。行こうと思ったら、いつだって行けます」と言うよね。それに対して兄は「嘘をつけ」と応じるわけだが、この冗談めいたやりとりにも、嫁に行くか行かないかは自分で決める、あるいはひとりで決めるという含みが聞き取れるよね。
 たしかに。そういう台詞は原節子が演ずる紀子のたたずまいにそぐわないようにも見えるが、そこに小津の演出の恐ろしさがあるんだろうな。紀子がかなり剣呑な女だということは分かったよ。
 剣呑というのとはちょっと違うよ。いまやわれわれは12歳の頃の紀子の愛唱歌が「雨降りお月」だったことを知っているわけだから、おれとしては紀子をハンナ・アーレントの言うsolitude(ひとりであること)を体現する人物と考えたいわけだよ。
 ここでもハンナ・アーレントが出てくるのか。
 どこでも出てくるよ。

 しかし小津はアーレントを知らないだろう?
 それは知らないだろう。しかし小津がアーレントの言うsolitudeのひとであることは間違いないよ。しかも『麦秋』がsolitudeとlonelinessをめぐる物語であることもまず間違いない。
 どういうことだ?
 小津は『麦秋』の紀子という人物に現代の日本人を象徴させていると思われるということさ。象徴させているというより、"規範化"させていると言った方がいいかもしれないが。
 結局われわれはひとりなんだと。あるいは単独なんだと。
 そう。ハンナ・アーレント風に言うとsolitudeなんだと。結婚や家族によっても、ひとりぼっちであることを逃れることはできないんだと。アーレントはsolitudeとlonelinessを区別しているが、前者が後者に接していることも知っていた。小津の認識もそういうものだったと思う。
 『東京物語』ではそういうテーマが前面に出てくるよね。
 『東京物語』以降の小津においてはsolitudeもlonelinessへと帰結して行くほかないという認識があったと思うんだが、それは"solitude賛歌"とも言うべき『麦秋』の否定ではない。というか、小津は『麦秋』において現代日本人のオルタナティブな行き方を示したわけで、そういう意味では映画を超える『麦秋』みたいな映画はもういいだろうという思いがあったのかもしれない。
 たしかに『麦秋』は恐るべき映画だと思うし、小津の理念のようなものが見える映画でもあるのだろうが、おれとしては君の言う「雨降りお月」の隠喩にとどめたいね。

 そうだな。小津や原節子が実生活においてもsolitudeを貫いたこと、つまり独身を通したことから映画を解釈するようなことは控えなくてはならないからね。しかし間宮紀子が「雨降りお月」なのだとすると、『麦秋』という物語はかなり不思議なラブ・ストーリーでもあることになるよ。
 どういうことだ?
 いま佐藤忠男の『完本・小津安二郎の芸術』(朝日文庫)という本を読んでいるんだが、そこに「彼女(紀子)を好きだったらしい専務(佐野周二)」という記述があってちょっと意表を突かれてね(P.430)。
 しかしそれは当たっていそうだな。
 佐野周二の佐竹専務が紀子を好きだったことは、淡島千景のアヤに対してはなんでも言うし、いまならセクハラとされかねないことまで言うのに、紀子には仕事と縁談に関すること以外なにも言えないことから分かる。自分が持ち込んだ縁談についてさえ、アヤに「一度聞いてみてくれないかな、君から」だから。
 佐野周二の専務が紀子に向かって意味のあることを言うのは、最後の「アヤでも呼んで、どっか飯でも食おうか」と、「もしおれだったらどうだい、もっと若くて独り者だったら」だけだからね。
 ところが飯は断わられるし、「もしおれだったら」にも答えてもらえない。
 紀子は笑うだけだからね。それで佐野周二の「駄目か、やっぱり」と、「ハハハハ」という空虚な笑いが続き、腰を叩きながら、「おい、よく見ておけよ。東京もなかなかいいぞ」というよく知られた台詞になるわけだが、まるで自分が秋田へ行くみたいな表情だよ。
 紀子への思い入れなんだろう、あれは。そして佐野周二の喪失劇に対応するのが、紀子が嫁に来てくれることになった二本柳寛の謙吉の困ったような「嬉しいさ」だよ。心から嬉しいと言えるのは、紀子にプロポーズして「わたしでよかったら」という返事をもらった杉村春子の謙吉のおっかさんだけだから。
 たしかに不思議なラブ・ストーリーだね。しかし紀子が「雨降りお月」ならそれも分かるよね。


2006/04/26(対話-97) 小津安二郎『麦秋』の謎(2)

 前回は『晩春』の話をしたが、今回はまた『麦秋』に戻るよ。
 いいね。前回の『晩春』の謎の話を踏まえることで、前々回話題になった『麦秋』の家の場所をめぐる謎が少しは見えてくるかもしれないからね。
 『麦秋』における現実の鎌倉の抹消をめぐる謎は『晩春』からは見えてこないと思うよ。それはむしろ『晩春』と『麦秋』に挟まれた昭和25年の『宗方姉妹』からきているんじゃないかな。
 どういうことだ?
 『宗方姉妹』は『晩春』なんか問題にならないほどの観光映画だったということさ。しかも田中絹代、高峰秀子、上原兼、山村聡といったオールスターを起用することで、興行収入でも1位だったそうだから。
 『宗方姉妹』はたしか新東宝映画だよね。
 そうだ。『宗方姉妹』の冒頭のショットは京都東山の五重塔を望むロングショットだから、『晩春』が踏まえられていることは明らかなんかだが、映画自体はまったくの別ものだ。
 観光映画なのか?
 まあ、そう言っても過言ではないというほどの意味だが。

 それに対する反省が、『麦秋』における現実の鎌倉の抹消をもたらしたということか?
 そうも考えられるだろうという程度のことだよ。小津の意図は依然として不明だし、結局それは分からないのかもしれない。しかし『麦秋』には現実の鎌倉の抹消以外にも至るところに謎が仕掛けられていて、あの鎌倉の家自体もかなり不思議な感じだよ。
 『晩春』の家よりもか?
 『晩春』の家ほどではないかもしれない。しかし、蓮實重彦ほどの小津マニアでさえあの家の間取りを間違って理解しているぐらいだからね。
 へえ、どういう風にだ?
 蓮實重彦は『麦秋』の鎌倉の家の構造についての記述のなかで、「一階には茶の間があって一家団欒の場を提供し、その奥に夫婦の洋服ダンスが置かれた部屋が続いている。二間続きのこの一階の空間は、その両端が廊下で仕切られており、その一方は台所に、いま一方は湯殿に通じている」と書いているんだが(『監督 小津安二郎』ちくま学芸文庫P.156)、それは間違っていてね。
 どこが?
 「二間続きのこの一階の空間」と書いていることがだよ。「その両端が廊下で仕切られており」というのも間違いで、台所に通じる廊下と見えるのは実は部屋の一部なんだ。

 あれは廊下じゃないのか?
 廊下じゃないんだ。四畳か六畳ぐらいの部屋だよ。とは言っても、庭とは反対側の端の方は使われていなくて物置のようになっているけどね。古いミシンのようなものが置かれているよ。
 そうすると、あの家の一階は二間続きではなく三間続きということになるね。更に君の言う物置が廊下でないとすると、あの家の廊下はコの字型になっていることになるね。
 そうだよ。玄関を入ると正面左手にまっすぐ庭の方に伸びる廊下があって、その左に「茶の間」と「夫婦の洋服ダンスが置かれた部屋」がある。そのつき当たりを左に折れると右手が庭で、正面に湯殿の右横の流しが見える。流しの手前で左に折れると正面が台所だよ。台所の手前の左に電話があるが。
 だとすると、かなり変な作りの家だな。そうすると、廊下づたいに二階へ上がる階段まで行くとすると、コの字をそっくり歩かなければならないことになるね。
 二階は後から建て増されたということなんじゃないのか(そういうことが現実に可能かどうかは、おれにはよく分からないんだが)。二階が建て増される前は、古いミシンのようなものが置かれている部屋が茶の間だったのかもしれないし。
 なるほどね。あえてそういうややこしい構造の家にすることで、家族と家(家屋)の歴史を表わしたかったのかもしれないね、小津としては。しかしもしそうだとすると、『麦秋』における現実の鎌倉の抹消、あるいは鎌倉と北鎌倉の混同というのも、やはり意図的に行なわれたことになりそうだね。

 それはそうだと思うよ。その意図がおれにはまだ分からないんだが・・・。しかし最近新たに分かってきたことがあって、今回はその話をしておこうと思ってね。
 新たに分かってきたことってなんだ?
 『麦秋』の終わりの方で、菅井一郎と東山千栄子の老夫婦が大和に引っ込むことが決まって、原節子の紀子が「すみません、あたしのために」と言う場面があるじゃないか。
 あるね。あの台詞の意味が分かったのか?
 分かったというか、それについて思いも寄らなかった解釈をしている人がいてね。
 へえ、誰なんだ。
 高橋治という、元は映画人だった作家だよ。それも『東京物語』で小津の助監督をやった人だよ。その高橋治という人が『絢爛たる影絵ーー小津安二郎』(講談社)という本を書いているんだが、そこでちょっとびっくりするような解釈をしていてね。
 なんと言ってるんだ?
 重要な部分を引用すると、「このシナリオが書かれた昭和二十六年初頭、朝鮮戦争を奇禍として日本経済は立ち直りつつあったが、敗戦の痛手はまだ様々な形で残っていた。そんな時代、原は堪能なタイピストとして、外国企業とつながる会社の専務秘書も兼ねている。自家用車など庶民にとっては夢の彼方だった頃に、専務専用車を自由に使わせて貰うことが出来る。当時の社会を考えると、公立病院のスタッフだった笠よりも高収入を得ていたことさえあり得ないとはいえない」のだそうだ(同上P.192)。

 なるほどね。そうすると、原節子の紀子の「じゃ今度たくさん買ってくる」に対して、「どうぞ」と答えた三宅邦子の嫂に900円のケーキを買ってきた経済的背景も見えてくるね。
 なにしろ東京・大阪間の国鉄普通運賃が770円の時代だからね(田中真澄『小津安二郎周遊』文藝春秋P.363)。つまり、いまで言えば1万円以上もするケーキを買ってきたわけさ。
 凄い話だな。嫂ならずとも食欲がなくなるよ。そうするとこういうことかな。つまり、兄の笠智衆の収入で一階の夫婦と2人の子供の合計4人の生活がまかなわれていたとすると、二階の菅井一郎と東山千栄子の老夫婦の生活は、彼らとともに二階に住む原節子の紀子の収入に支えられていたということかな?
 その可能性が高いね。原節子の紀子が三宅邦子の嫂と海岸で話をする最後の方の場面で、「わたしが行っちゃったら、うちの方どうなるのかしら?」と紀子が訊いているからね。それに対して嫂は、「そんなこと気にしなくていいのよ。お父さまとお母さま、あなたの幸せだけを考えていらっしゃるのよ」と言うんだが、その答えは経済的なことはとりあえず横に置いてということだからね。
 しかし老夫婦には年金があるだろう。
 当時の年金や恩給の制度がどうなっていたかは知らないが、少なくとも原節子の紀子は、三世代家族が一緒に楽しく暮らすには自分の収入が欠かせないことを知っていたようなんだな。

 しかし大和に引っ込んでも事情は同じだろう?
 それが同じじゃないんだな。菅井一郎の兄の高堂国典は間宮本家の人間で、先祖の資産をそっくり受け継いでいるんだろう。間宮家は大和の庄屋だったんじゃないのか。だから『麦秋』のエンディングに出てくる麦畑がすべて高堂国典の所有地だったとしても不思議はないんじゃないか。
 なるほどね。高堂国典はそれを言いに鎌倉にやってきたということか?
 高橋治はそう書いている。高堂国典の台詞は「一度、大和へも来んかな。・・・ 来た方がええ。お茂げさんもな。大和はええぞ。まほろばじゃ。・・・ いつまでも若いもんの邪魔しとることない」だからね。
 菅井一郎と東山千栄子の経済的な面倒は自分がみると? その代わり自分は寡夫(そう見える)で耳も遠いから、日常的な世話をして欲しいという含みもあるのかな?
 あるかもね。昔は晩年は生まれ故郷に戻って故郷の土になるというのが慣例でもあったらしいし。
 明治以降の話か?
 明治から昭和30年代前半ぐらいまでだろう。おれは初めて『麦秋』を見たとき、菅井一郎と東山千栄子の老夫婦が大和へ引っ込む流れが分からなかったんだが、廣松渉が「昔は学校を出ればサラリーマンになって田舎から一度都会へ出て行くけど、老後は生まれ故郷に戻って来てっていうのが普通のパターンです」と語っているのを読んで(『哲学者廣松渉の告白的回想録』河出書房新社P.24)、だいたい分かったような気になっていたのだが、『麦秋』の場合は更に具体的で経済的な事情もからんでいるということだな。
 紀子が嫁に行ってしまえば、重要な稼ぎ手がいなくなるわけだからね。
 そう。原節子の紀子が自分にかかわる縁談や結婚について他人事のようにふるまっていたことも含めて、それでほぼ首尾一貫して理解されるということだな。


2006/04/21(対話-96) 小津安二郎『晩春』の謎

 前回の『麦秋』の謎に続いて、今回は『晩春』の謎か?
 そうだ。小津安二郎の映画はすべて謎に満ちていると言えるはずだが、それを小津の代表作と言われる映画で見ておくのがいいと思ってね。
 まあそうだろうな。それで『晩春』の謎って一体何なんだ?
 まずはカットの異様さと、表玄関前ショットの執拗なまでの反復だろう。
 というと?
 カットの異様さから行くと、吉田喜重が『小津安二郎の反映画』(岩波書店)で指摘していることだが、笠智衆の父と原節子の紀子が横須賀線のなかで言葉を交わす場面で、カットの切り返しが2人を結ぶ線をまたいで行なわれていることだよ。具体的に言うと、座席に座っている笠智衆を左前方から撮っているのだから、つまり左を向いている笠智衆の言葉に対しては、原節子も左側から撮って右を向かせて返事をさせるのが映画の「文法」なんだが、逆に原節子を右側から撮って左を向かせて返事をさせているじゃないか。
 たしかにそうだな。しかし小津の映画では登場人物たちに同じ方向を向かせるのがひとつのパターンになっているが、あの切り返しは少なくともそのパターンには適っているよ。

 たしかにね。登場人物を並んで座らせる、あるいは立たせるという小津が好んだやり方については、佐藤忠男が『定本・小津安二郎の芸術』(朝日文庫)のなかで述べているが、『晩春』のあの場面では、座席に座っている笠智衆と吊り革につかまって立っている原節子は向き合っているからね。
 しかし向き合っているというのは君の想像でしかないわけだろう? つまり、2人が向き合っているショットはフィルム上には存在しないんじゃないのか?
 そう言えばないね。
 だったら、小津はそこでも自分のパターンに従っただけだろう。
 しかしそうだとすると、原節子の紀子は父親に背を向けて返事をしたことになるよ。
 そうじゃないよ。原節子は立っているわけだから、座席に座っている笠智衆の方に視線を向けて、つまり少し下を向いて返事をしているだろう。2人が向き合っているという設定には変わりないよ。
 たしかにそうだな。そうすると場面の設定は設定として、同じ方向を向かせるという小津が好んだパターンに従わせることがそこでの目的だったということか?
 そう思うよ。観客を不安がらせることだけが小津の目的だったとは君だって思わないだろう?

 しかしもしそうだとすると、吉田喜重の推察は見当外れだったことになるよ。そうするとこういうことかな。つまり、小津の映画における蓮實重彦の言う「説話論的構造」と「主題論的体系」が一点に重なることがあると。その場合、小津は「主題論的体系」を優先させるのだと。
 蓮實がなにを言っているのか知らないが、小津が映画で追求し続けたテーマは、物語そのものよりも重大だったということなんじゃないのか。
 なるほどね。あるいはそれは小津映画の新しい見方につながるのかもしれないが、それはともかく『晩春』のカットが異様なのは横須賀線車内のシーンだけじゃないよ。笠智衆の父が、宇佐美淳演ずる父の助手の服部を結婚相手としてどう思うかを原節子の紀子に訊く場面があるんだが、その前に部屋と廊下を歩きまわる笠智衆を撮ったショットはどこをどう歩いているのかよく分からないんだ。
 あの鎌倉の家は単純な構造のはずなのに、あの場面はショットのつなぎが変だよね。人物とキャメラが迷路で鬼ごっこをしているような奇妙な感じがあるよね。
 そうなんだ。あの場面だけじゃないのかもしれないし、『晩春』にかぎった話でもないのかもしれないが、小津の映画では誰かが部屋から廊下に出てくる時のショットのつなぎは変だよ。
 そうだな。家が突然見知らぬものに変容する感じだな。と言うのも、小津の映画では廊下が部屋の手前と向こう側にあるような感じなんだな。『彼岸花』の佐分利信の家もそうだったかな。

 たしかにそうだな。そのことと前回話題にした鎌倉の異郷化とはなにか関係があるんだろうか?
 あるかもね。家の異郷化の方には子供の視点といったものが感じられるが。
 たしかに子供は押し入れだとか天井裏といったところに強い興味を示すよね。それは見知っているものに見知らぬものを見ようという欲望によっているんだろうが。
 少し大きな子供が洞窟を好むようにね。
 もっと大きくなると路地裏を好むようになったりとかね。
 そうすると、小津のなかの子供が鎌倉を異郷化させたということかな。
 あるいはね。『麦秋』に紀子の兄の男の子2人が「家出」して、七里ガ浜を江ノ島の方へと歩いて行く場面が出てくるが、ひょっとするとあれは子供の幻想だったりとかね。
 あれは幻想じゃないだろう。下の男の子だってもう6歳ぐらいだろうから、長谷か笹目町のあたりの家から七里ガ浜まで歩いて、また鎌倉駅まで歩くぐらいはわけないよ。
 いずれにしても子供の視点の導入というのは、小津映画の重要な構成的要素なのかもしれないな。『晩春』に見られるカットバックとショットのつなぎの不思議さは、小津における固有のテーマへの執着と子供の視点の導入によっているらしいということが押さえられれば今回は充分だろう。表玄関前ショットの執拗な反復についてはまた改めてということにしよう。


2006/04/06(対話-95) 小津安二郎『麦秋』の謎

 また間があいてしまったが、今回は小津安二郎の映画の話をするんだって?
 そうなんだ。ここ1ヶ月ぐらい小津安二郎の映画を中心にして、昭和20年代から昭和30年代半ば頃にかけての日本映画を少しまとめて見たものだから。
 というと、小津以外の映画も見たのか?
 見たよ。とは言っても、原節子が出ている映画ばかりなんだが。
 たとえば?
 成瀬巳喜男の『めし』(昭和26年)と『山の音』(同29年)、それに黒澤明の『白痴』(同26年)だよ。
 そうすると、君の目当ては小津というより原節子なんじゃないのか?
 両方だよ。そもそもそれらの映画を見ることになったきっかけというのが、友達から小津安二郎の『麦秋』のDVDを借りて見たことだったものだから。
 そう言えば『麦秋』の主演は原節子だったな。
 そうだ。それでいっぺんに小津安二郎と原節子のファンになったというわけさ。

 しかしそんなにいいのか、原節子は?
 いいなんてもんじゃないよ。そんな言い方ではとても追いつけない。
 それを説明してくれよ。
 おれなんかが言葉で説明するより、君が自分で見るのがいちばんいいんだが、ひとことで言えば、原節子は昭和20年代という戦後が最も戦後的だった時代の日本人の女神だったということさ。女神というのは、その時代の理想の女性像を体現した者、というような意味なんだが。
 もっと具体的に言ってくれよ。
 小津の『晩春』(昭和24年)と『麦秋』(同26年)と『東京物語』(同28年)を見れば一発で分かるんだが、説明するには『東京物語』がいちばんいいだろう。その映画のラスト近くで、老妻を亡くしたばかりの義父(笠智衆)と、戦死した次男の嫁の紀子(原節子)が話をする場面があって、そこで紀子が「・・・わたくし、そんなおっしゃるほどのいい人間じゃありません。・・・わたくしずるいんです。お父さまやお母さまが思ってらっしゃるほど、そういつも昌二さんのことばかり考えてるわけじゃありません」と言うんだ。
 なるほど。前後の脈絡がよく分からなくても、ぐっと来るね。

 そう。戦争が終って8年が経ってからそういうことを言っても、まったく不自然に感じさせないたたずまいが原節子にはあるんだよ。原節子の紀子が自分のことを「ずるい人間」と言っていることに、当時の多くの観客は胸を突かれたはずなんだ。
 国が破れ、夫が戦死しても、ほとんどの日本人は生きてきたわけだからね。
 いわば動物のようにね。しかし動物のように生きていることを、戦後8年がたってなお「ずるい」と言うところに日本人あるいは人間としての持続があるということなんだな。
 なるほどね。生きることの後ろめたさを痛切に表現できるところに原節子の凄さがあるわけだ。しかし原節子が戦後日本人の女神だったということの意味は、そのことだけじゃないんだろう?
 もちろんそれだけじゃないよ。『晩春』と『麦秋』では未婚の娘の役をやるんだが(いずれも役名は『東京物語』と同じ紀子)、その溌剌とした芯のある存在感は、「溌剌とした」とか「芯のある」といった言葉がそのまま人間(あるいは娘)の姿で現われたようなところがあってね。
 そうなのか。じゃあおれもちゃんと見てみるかな。
 それがいいよ。原節子を知らないということは、女というものを知らないに等しいからね。現実の女がどれほどスクリーン上の原節子とは異なるにしてもだ。

 しかし今回話題にしたかったのは、原節子の方じゃなくて映画『麦秋』がはらんでいる謎の方でね。
 あれはたしか北鎌倉を舞台にした映画だったよね。
 謎というのはそのことなんだ。たしかに原節子の紀子は北鎌倉の駅から丸の内のオフィスへと出勤して行くんだが、冒頭の映像とその後の展開を見るかぎり、紀子たちが住んでいる家はどう見ても鎌倉にあると思われる。恐らく長谷か笹目町のあたりと思われる。
 しかし北鎌倉の谷戸のロング・ショットが出てくるだろう?
 出てくる。だからかどうかは分からないが、『小津安二郎映画読本』(フィルムアート社)でも、佐藤忠男の『定本・小津安二郎の芸術』(朝日文庫)でも、蓮實重彦の『監督・小津安二郎』(ちくま学芸文庫)でも、北鎌倉に住む一家の物語というのが当然の前提とされている。
 ところが実際は長谷か笹目町のあたりなのか?
 いや、その「実際は」ということを小津は問題にしているらしいのだが、それはあとで述べるとして、一家のお爺ちゃん役の菅井一郎がカナリヤの餌を買いに出る場面があるんだが、途中菅井一郎が腰掛けて休む踏み切りは寿福寺と護国寺を結ぶ踏み切りと思われる。だから彼らの住まいは扇ガ谷に違いないと推測している人もいる。HPにそういうことを書いている人がいた。

 しかし扇ガ谷と長谷ではかなり離れているよ。
 映画の流れから言えば長谷か笹目町だよ。まず冒頭のショットが坂ノ下寄りの由比ガ浜であること、家の2階から見える山の南斜面の景観が長谷か笹目町のあたりと思われること、大仏の近くらしいこと(紀子が、孫娘を連れた近所のおばさん=杉村春子と大仏で出会う場面がある)、七里ガ浜もそう遠くないこと、由比ガ浜通りの近くと思われること(杉村春子の台詞にある「長谷の通り」というのは由比ガ浜通りを指すと推察される)、これらを総合すると長谷か笹目町のあたりということになるわけだよ。
 そうすると北鎌倉に住む家族の物語ではないんだな。
 映画の流れから言えば、長谷か笹目町のあたりに住む家族の物語と考えられるのだが、紀子たちが北鎌倉駅から出勤しているのは映画上の"事実"でもある。北鎌倉駅ホームの場面の前にわざわざ「驛倉鎌北」の看板をアップで映しているから。
 なるほどね。そうすると、現実の鎌倉駅では落ち着きと閑静さが損なわれるから、北鎌倉駅を鎌倉駅として使ったということではないわけだな。
 ない。そういうような映画表現上の"特権"ということではもうない。恐らく小津は、現実の鎌倉と北鎌倉を撹乱させる意図をもって「驛倉鎌北」の看板をわざわざ映し出したものと思われる。

 しかしなんだってそんなややこしいことをしたんだ。
 現実の鎌倉を映画から抹消して異郷化したかったんじゃないか。
 なんのために?
 問題はそれだよ。映画に写し取られ再構成されたものは、われわれが現実に存在すると考えるものとはもう違うだろうし、違ったところで不都合はないとするのが通常の考え方だとすれば、この小津の振るまいはかなり異様だよ。小津はそこで映画外(前)の自分の意図を映画に挿入しているわけだから。
 不思議なことをするね。観客に「小津さんはこの映画で現実の鎌倉ではなく鎌倉なるものを描こうとしたんだな」、と思わせることで済ませようとはしなかったということだろう?
 そうらしい。吉田喜重は、『晩春』では神聖なる父の役だった笠智衆を、『麦秋』では俗なる兄の役としたことなどを指して、『麦秋』を反『晩春』と呼んでいるが(『小津安二郎の反映画』岩波書店)、『麦秋』で描かれた鎌倉というのは"鎌倉なるもの"どころか、いわば"反鎌倉"だからね。
 小津特有の一種の遊びなのかな?
 まあ、『晩春』に見られた北鎌倉、円覚寺、湘南海岸、八幡宮、清水寺、龍安寺などの観光映画的な描き方への反省というか自己批判というか、そういう含みはあるのかもしれないが。いずれにしても、ここに見られる不思議さ・異様さは、小津の映画を見て行くに当たってのひとつの切り口にはなると思う。
 たしかに面白い切り口になりそうだね。

 きのうまた『麦秋』を飛ばしながら見ていたら、新しい発見があってね。それでついでに触れておくと、この映画の終りの方に紀子が嫁ぐ前の一家団欒の場面があって、そこで兄の笠智衆が、一家が鎌倉に越してきた16年前の紀子について、「ここのところにリボンをちょこんと付けて、よく雨降りお月さまなんか歌ってましたよ」と言うんだ。それに答えてお母さんの東山千栄子が「可愛かったわねえ」と言うんだが、ここで重要なのは、12歳の頃の紀子の愛唱歌が「雨降りお月」だったという兄の"証言"でね。
 というと?
 知らないかな? 野口雨情作詞、中山晋平作曲の「雨降りお月」。「雨降りお月さん 雲の蔭/お嫁にゆくときゃ 誰とゆく/ひとりで傘(からかさ) さしてゆく」という歌なんだが。
 「お嫁にゆくときゃ・・・ひとりで傘さしてゆく」か。たしかにそれは凄いな。
 そうなんだ。おれも「雨降りお月」の歌詞はかすかにしか知らなかったから調べてみたんだが、そうしたらびっくり仰天だよ。まさに『麦秋』の紀子の物語そのものだったわけだから。
 小津は「雨降りお月」の歌詞を知っていたのかな?
 小津かパートナーの野田高悟かは分からないが、もちろん知っていたさ。いずれにしても、紀子は「お嫁にゆくときゃ・・・ひとりで傘さしてゆく」という予感というか運命というか、そういうものを少女時代から持っていたということだよ。「雨降りお月」が紀子の(恐らくは意識せざる)自己認識だったということさ。
 深い話だね。
 深い、実に深い。


2006/03/02(対話-94) 荒川静香、メール騒動、etc.

 最近どうも間が空きがちだから、なんでもいいから話をしておこうと思うんだ。
 なんでもいいというわけには行かないだろう。
 もちろんそうなんだが、なにか話をするにはきっかけが必要じゃないか。
 たしかにそうだが、きっかけはなんでもいいのか?
 なんだっていいよ。きっかけだけなら。ちがうか? まあそういうわけで、まずトリノ・オリンピックから行こうと思うんだ。そうは言っても、おれがちゃんと見たのは女子フィギュアだけなんだが。
 おれもそうだよ。それにしても荒川静香の滑りは素晴らしかったね。
 ほとんど完璧だよ。特にフリー・プログラムの方は、自分でも言っていたようにフィギュア・スケーターとしての「集大成」だったんじゃないのか。おれが採点しても、100点満点で96点ぐらいつけたと思うよ。
 へえ。そうするとサーシャ・コーエンは何点だ?

 コーエンは最初のジャンプで転んだからね。あれは減点3ぐらいに値すると思うが、それにしてはよく立ち直ったと思うよ。さすがは全米チャンピオンだよ。ショート・プログラムでトップ(66.73点)に立っただけのことはあるよ。しかしフィギュア・スケーターがオリンピックの決勝の舞台で転倒の衝撃から立ち直るなんてほとんど不可能だよね。だからSPの得点からは決定的に後退してしまった。まあ83点ぐらいかな。
 すごい差だな。じゃあイリーナ・スルツカヤは何点だ?
 スルツカヤが転んだのは後半だよね。あれは前半のもたつきを取り戻そうとした焦りから生まれた転倒だろう。あるいは、荒川静香には及ばないがコーエンは超えられるかもしれない、というような雑念が頭をよぎったのかもしれない。けっきょく、荒川静香のライバル2人はともに勝たなければならないというプレッシャーに押しつぶされたんだろう。点数をつけるとすれば80点ぐらいかな、スルツカヤは。
 4位の村主章枝は何点だ?
 70点ぐらいだろう。音楽がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番というのも減点対象だよ。

 月並みで耳タコだからな。マスカーニか誰かの曲を使えばいいのにな。その点、「トゥーランドット」を使った荒川静香は選曲も抜群だったな。エキシビションの"You Raise Me Up"も含めて。
 中国の新華社通信が、荒川静香の金メダルに「すべてのアジア人が興奮した」と書いたのも、荒川がトゥーランドットそのものに見えたからだろう。おれは最高のトゥーランドット歌いは誰だか知らないが、ハンガリーのソプラノ、シルヴィア・シャシュが歌ったアリア「この御殿の中で」を思い出したよ。
 荒川は背が高いし、完璧に東アジア女性の容貌だからな。
 若い頃のチョン・キョンファ(ヴァイオリニスト)に似てるよ。ゴルファーのパク・セリもあの系統の顔立ちだったかな。顔の長くないミシェル・ウィーというか。ミシェル・クワンじゃないよ。
 荒川がイナバウアーを演技に入れたのはどう思った?
 得点に関係がないとはいえ、あれを入れたのが荒川の決定的な勝因だろう。つまり、点数よりもなによりも滑りの完成度にこだわったことだよ。

 「いまここで滑るのが私の集大成になるなと、なんとなく感じた」そうだからな。
 あと、演技の直前までヘッドフォンで「トゥーランドット」を聴いていたそうじゃないか。
 要するに徹頭徹尾自分の滑りに没入していたということだな。
 ノルディック・スキーの萩原健司が、「メダルまでどれぐらい行けばいいと頭によぎると勝てない。ベストを尽くすことだけに集中できた人が勝てる。荒川さんそれができていたと思う」と語ったそうだが(朝日新聞2/25朝刊)、まさにその通りだろう。
 村主以下の選手は、ショート・プログラムの段階で、コーエン、スルツカヤ、荒川の滑りに圧倒されていたから、彼女たちの失敗にしか希望が持てなかったということかな。
 基本的にレベルがちがうよ。声楽やなにかと同じで、持って生まれた天分の質において、トリノの女子フィギュアはメダルを取った3人だけの戦いだったということだよ。

 たしかにエキシビションでは村主がボールを使った演技をしていたが、あれはかなり見苦しいものだったね。話は変わるが、民主党のいわゆる送金メール問題についてなにか感想はあるか?
 あれは謀略事件だろう? つまり、何者かが民主党をはめることを目的として偽造したメールを民主党に渡したんじゃないのか。その何者かについては民主党が黙ってるから分からないわけだが。
 自民党の手先かな? あるいは首相官邸か?
 その可能性はあるが、もし自民党か首相官邸がかんでいるとしたら、痕跡を消すだろう。
 しかしメディアに謀略説は出てこないよ。
 それがいまのメディアの犯罪的なところさ。平沢勝栄も同じメールを入手しているそうだから、自民党も同じルートを持っているんだろう。あっさり謀略にひっかかった民主党が馬鹿だったわけだが、そこのポイントが報道されない、いかにもメディア的な騒動だったということだよ、結論を言えば。
 武部は最初うろたえていたのに残念だったな。しかし本当の騒動はこれからかな?

 まあ民主党が「敗北宣言」を出したから、もう無理だと思うけどね。いずれにしても、今回のメール騒動の「犯人」として挙げられるべきなのは、まずはメディアだろう。
 どうもそうみたいだな。ところで最近はなにを読んでいるんだ?
 アントニオ・ネグリの『構成的権力ーー近代のオルタナティブ』(松籟社)というのを読んでるよ。
 面白いのか?
 まあね。簡単に言うと、ハンナ・アーレントに対してマルクスを擁護するという本だよ。
 へえ。それはやばそうな本だね(笑)。
 やばいよ(笑)。ハンナ・アーレントに対してとは言っても、現代において構成的権力と革命を政治理論上で復権させたのはアーレントであることを認めながらそうしているわけだから、ネグリの記述はパラドキシカルでしかもアンビヴァレントだ。
 そうすると次回のテーマはアントニオ・ネグリかな?
 そうなればいいんだけどね。


2006/02/11(対話-93) レヴィナスの「他者」

 最近になってエマニュエル・レヴィナスの『時間と他者』(法政大学出版局)という本を読んだものだから、今回はレヴィナスの「他者」について少し話をしておこうと思ってね。
 へえ、君がレヴィナスを読むなんて意外だな。
 そうかもしれないが、内田樹というレヴィナスの弟子を自称する人がいて、その内田樹がこのところ大量に本を出しているだろう。
 そうみたいだな。
 大量に出しているだけじゃなく、書いていることがなかなか面白いんだよ。
 なるほど。それでレヴィナスを読む気になったわけか。
 そう。内田樹というフィルターを通すと、レヴィナスの思考が非常に魅力的に見えるものだから。
 それで、『時間と他者』はどうだったんだ?
 いきなり『時間と他者』を読んだわけではなく、その前に熊野純彦という人が書いた『レヴィナス入門』(ちくま新書)を読んだのだが、これも入門書としてはとても面白いものだった。

 前置きが長いな。『時間と他者』は面白くなかったのか?
 それがちょっと微妙でね。面白くなかったというより、おれ向きではなかったと言った方が正確かな。
 言いたいことは分かる気がするよ。要するに政治的な人間じゃないんだろう、レヴィナスは?
 『存在と時間』のハイデガーも政治的とは言えないが、実に面白いじゃないか。
 それを言うなら、キルケゴールを挙げた方がいいんじゃないのか。『存在と時間』には政治的なものは見えないが、原政治的なものが隠されていそうだから。それに比べると、キルケゴールにはそういうものもなさそうじゃないか。倫理的なものも政治的であるというのなら話は別だが。
 なるほどね。それで少し分かってきた気がする。キリスト教の信仰には「神の国」への志向が隠されているのかもしれないな。つまり、政治的なものが明示的でなくてもやはり政治的なのかもしれない。
 そういうことか。要するにレヴィナスにはユダヤ教的なものが隠されていると?
 そこまでは気づかなかったが、『時間と他者』に出てくる「他者は寡婦にして孤児」といった言い方(P.83)はタルムードの記述が踏まえられているらしいよ。

 やっぱりそうなんだな。つまり君向きではなかったというのは、君が知らないこと、というより、君には理解できないことが書かれているということなんじゃないのか?
 多分そうなんだと思う。レヴィナスの主著と言われる『全体性と無限』(1961)にしても『存在の彼方へ』(1974)にしても、純然たる哲学書というよりレヴィナスによるタルムード注解かもしれないからな。
 『時間と他者』もそうなんだな?
 恐らく。しかし『時間と他者』(1948)ではハイデガーの『存在と時間』を批判しながら、自身の考えを存在論的に述べることに関心が向けられているようだけどね。『存在と時間』を批判しているとは言っても、ハイデガーの存在論に依拠しながらそうしているわけなんだが。
 存在論的に「他者」が思考されているわけか?
 ここでなされているような「エロス」の存在論が存在論と言えればの話だけどね。
 われわれが「他者」と出会うのは「エロス」においてなのか? レヴィナスはそう言っているのか?
 少なくとも『時間と他者』ではそう言っているよ。

 なんだか吉本隆明の「対幻想」みたいな話だな。
 おれもそう思ったよ。ただ、レヴィナスがハイデガー的存在論を踏まえて思考を進めているかぎり、それはそれで筋の通った「他者」の思考だと思ったよ。
 それはそうかもしれないが、「エロス」からはアーレント的な「間(の政治)」は生まれないだろう?
 問題はそこだな。もちろん「他者」を目指していきなり「エロス」が出てくるわけではなく、主体(「私」、「同一性」)の「死」という媒介項があって、そこから「エロス」が出てくるんだが。
 そうは言っても、「エロス」から生まれてくるのは家族だろうし、そうであるかぎりオイコス(家政)やエコノミー(経済)といったもの、つまりアーレントの言う社会が生み出されるわけだろう? 要するに、アガンベンやフーコーの言う「生政治」を超えることはないんじゃないのか?
 そうも言えないらしいのがレヴィナスの難しいところでね。熊野純彦によると、レヴィナスの「他者」は本質的に「同」でしかない家政や経済の彼方で出会われるらしいんだよ。
 なるほど。レヴィナスの「エロス」は「同」である「二者」を生み出すものとは違うんだと?
 違うようだ。しかしここから先は『時間と他者』では語れないよ。とはいえ『全体性と無限』や『存在の彼方へ』へと進んだところで、ユダヤ的な迷路に入って行きそうな気もするし。

 ところでアガンベンはレヴィナスを読んでいるんだろう?
 それは読んでるだろう。『ホモ・サケル』でもレヴィナスが参照されているし。
 どういう風に?
 よく覚えていないが、「ヒトラー主義哲学」の透徹した思考者・批判者としてだよ。
 なんと言っても「他者」を思考した人物としては20世紀の代表選手だからな。しかし、それにしてもレヴィナスが政治や政治的行為を主題化しなかったらしいのは、いかにも残念だな。
 さっきも言ったように、主題化しなかったのではなくて、タルムード注解としてそれを行なっているのだとしたら、おれなんかにはまず理解できないだろうからな。それから、レヴィナスがイスラエル国家に対してアーレントのようなアンビヴァレントな態度をとらなかったらしいことも、おれにはよく分からないことでね。
 まあ同じユダヤ人とは言っても、トロツキー、ローザ・ルクセンブルク、アーレントたちとは根本的に資質が違うということだろう。それにしてはハイデガーにこだわる気もするが。
 その点アーレントは形而上学と一緒にハイデガー的存在論を捨てたからな。
 最後に『精神の生活』を書いたから、それは微妙だろう。それはともかくとして、アーレントの「間(の政治)」をレヴィナスの「他者」によって基礎づけることも考えていいんじゃないのか。
 ひとつのテーマにはなるかもしれないね。

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