管理人のつぶやき(14)


2007/04/13 溝口健二『武蔵野夫人』

◇前回取り上げた『雪夫人絵図』と『歌麿をめぐる五人の女』同様、昭和26年9月に公開された溝口健二の映画『武蔵野夫人』も一般には「失敗作」といわれている。新藤兼人の「失敗作である。大岡文学と溝口健二は結びつかない」から、佐相勉の「一般の評判通りあまり面白い作品ではない」に至るまで、この映画が積極的な評価と批評の対象とされることはなかったように思われる。ベストセラーになった大岡昇平の原作との落差ということもあるのであろうが、もっと根本的な理由は、戦後社会における思想、道徳、風俗の変貌をそのものとして描くことができていないことによっていると思われる。

◇それから『武蔵野夫人』の登場人物たちが上流中産階級に属するひとびとであるということもある。つまり、山谷辺りの貧乏な家に育った溝口にそのような題材が扱えるわけがないではないかということ。それはその通りかもしれない。しかし小説と映画が手段、方法、素材を異にするアートである以上、出来上がった映画から原作の雰囲気や香りが伝わってこないといってもあまり意味がない。従ってこの映画をまさに映画として捉えることが問題になるのだが、新藤兼人や佐相勉のような溝口映画の信奉者、研究者たちまでが『武蔵野夫人』の持つ力をそれ自体として捉えていないことは理解しがたい。

◇この映画の主題は表面的には姦通あるいは不倫である。だからストーリーも戦後的メロドラマの代表といえるよろめきドラマ風の線によって枠づけられている。登場人物にも2組の夫婦プラス復員してきた若い男という定型がみられる。当時そのような設定が好まれたのかどうかは知らないが、いまから見れば滑稽なほど紋切型という印象が強い。ともあれ武蔵野を舞台にした姦通物語というのがこの映画の枠をなしている。問題はこのような枠あるいはパターンから溝口がどのようなドラマをつくり出したかということになるのだが、あらかじめいっておくと、ここでも溝口は傾向作家としての本領を発揮している。

◇上に述べたように、この映画の物語上の主題は姦通あるいは不倫である。それは日本の家、家族、家庭の崩壊というテーマにもつながる。じっさいこの映画の物語はヒロイン秋山道子(田中絹代)の家である宮地家の終焉物語でもある。しかし傾向作家である溝口にとって、そのような主題が切実な主題であったとは思えない。そこで溝口が考えたことは、道子と復員してきた若い従弟宮地勉(片山明彦)との「禁じられた恋」をドラマ化することであったと思われる。そのことを通じてここでも人間の「意地」というものを主題化すること、溝口がこの映画を制作していく基本方針はそういうものであったと想像される。

◇この映画のドラマは、道子が勉に向かって語る次のようなセリフによって構成される。「道徳だけが力なのよ」、「信じてちょうだい。わたしあなたを愛しています。でも自分で気の済むようにしたいの」、「本当はわたし、道徳より上のものがあると思っているの」、「(それは)誓いよ」、「わたしたちが本当に愛し合って、いつまでも変わらないことが誓えれば、そうして誓いを守ることができれば、世間の掟のほうで改まって行くわ」、「(そういう時が)こなくてもいいわ」、「誓って。わたしを信じて」、「(何に懸けてか)分からないから信じるのよ」、「わたしいまの道徳が間違っていてもいいの。間違っているから守るんだわ」、等々。

◇こういう具合に引用すると馬鹿馬鹿しいようなセリフだが、それが田中絹代によって語られると恐ろしいほどの説得力を持つ。説得力というのはもちろん論理的な説得力ではない。そうではなく人間にとって本当に大切なことは、信じること、誓うこと、守ることであるというこの場面における田中絹代による言明の説得力である。人間が人間であることの証しはそこにしかないという「信」の力といってもいい。しかも信じるあるいは誓うという行為はそれ以外の目的を持たない。のみならず、何に対して、何に懸けてという根拠さえない。いやむしろ根拠がないからこそ信じること、誓うことに意味がある、と田中絹代はいう。

◇この田中絹代による言明がまた驚くほどデリダ的であるといえる。例えば、「いかなる宗教批判も・・・信仰一般に・・・打撃を与えることはできないと私には思われる。・・・誓いの言葉(それは知の彼岸に、そしてあらゆる「事実確認的」可能性の彼岸にある)の中にある信念、信用、信仰という経験は、社会的なつながりないしは他者への関係一般の構造に、また、厳命と約束と行為遂行性ーーすなわち、あらゆる知、あらゆる政治行動、そしてとりわけあらゆる革命の中に含まれる厳命と約束と行為遂行性ーーに属している」(ジャック・デリダ『マルクスと息子たち』岩波書店P.105)。これがその一例である。

◇あるいは、「一つの約束は、それが守られることを約束しなければならない。つまり「精神的」ないし「抽象的」にとどまることなく、出来事を作り出すこと、行動、実践、組織等々の新たな形態を作り出すことを約束しなければならない」(同P.126)。ここにも「出来事」が出てくるのだが、それをつくり出すものこそ「信」、「誓い」、「約束」、そして「行為」、「実践」、「革命」にほかならない。もちろん溝口は田中絹代の道子にそこまでいわせてはいない。しかし「誓い」が危機にさらされたと思った時、彼女は決定的な「行為」、すなわち自殺によってそれを守る。以上が映画『武蔵野夫人』がつくり出したドラマの概要である。

◇『雪夫人絵図』の場合と同様、当方『武蔵野夫人』の原作を読んでいないため、映画と原作とのストーリー上の異同はまったく分からない。新藤兼人によれば、公開当時、田中絹代のミスキャストが指摘され、溝口の演出も酷評されたそうだから、ここに述べたような受け取られ方はされなかったように思われる。逆にいえば、溝口がつくり出したドラマは原作とは相容れないものと受け取られたようだ。大岡昇平がこの映画についてどう思ったかも分からないが、原作のストーリーを借りた傾向映画として受け容れたのではないかと想像する。いずれにしても、溝口映画の「新しさ」の射程は依然として量りがたい。


2007/04/09 溝口映画における「ドラマ」

◇前回の話の補足だが、マルクスが共産主義をGespenst(幽霊、亡霊、妖怪)として捉えたことのうちには、歴史的必然性とされるものを人間世界の出来事へと変えること、いい換えれば歴史と共産主義の実在化・実体化・物象化を解除してそれをひとびとの間の約束、行為、コミットメントへと開くこと、そういうことが含まれていたと思われる。少なくともデリダが理解するマルクスの核心はそこにある。つまり、幽霊的なものは社会的諸関係から生まれるのだが、それを変更する出来事は社会的諸関係や実体化された歴史とは違うということ。とはいえ、そういう意味において幽霊的なものは無ではないということ。

◇デリダのマルクス理解はそういうものであると思われる。マルクスが「ヨーロッパに幽霊が出るーー共産主義という幽霊が」(『共産党宣言』)と述べたことの意味もそこにあったと想定される。そして溝口健二が顔の見えないお徳をヒロインに据え、島原の太夫たちを幽霊として描いたことは、それに呼応していると考えられる。つまりわれわれの視線はある条件のもとで幽霊を見るということ、それはわれわれを捉え社会的諸関係の変更を迫るということ、溝口健二の映画にメッセージというものがあるとすれば、そのこと以外ではないだろう。溝口の映画づくりの基本的な構えはそのようなものであると考えられる。

◇上に述べたことはあくまでもラフでアバウトな覚え書きにすぎない。幽霊を捉える視線、出来事、そして「主体」といったことの関連についてはもっと考えて行かなければならないし、溝口映画を理解する補助線にデリダやマルクスを持ち出すにしても、更に適切な切り口が必要だろう。というわけで、今回は溝口映画におけるドラマのあり方を溝口の「失敗作」に沿って見てみたいと思う。溝口映画がそれをみる者になにかを促すとすれば、それは主として映画のドラマを通じてであろうと思われるからだ。

◇以上を踏まえて、今回まず取り上げるのは昭和25年10月に公開された『雪夫人絵図』。この映画について『映画読本・溝口健二』(フィルムアート社)の作品解説者佐相勉は次のように述べている。「雪夫人の悲劇はひたすら悪人にいじめられる新派悲劇に近づいてしまっている。しかも涙のメロドラマとしてうまく出来ているわけでもないから、雪や(菊中)方哉のなす術もないあまりの弱さに馬鹿馬鹿しくなってきてしまうのだ」(P.118)と。佐藤忠男『溝口健二の世界』(平凡社ライブラリー)の評価もほぼ同様で、「かんじんの雪夫人と菊中に観客の共感を呼ぶ人間味が希薄だったことが失敗なのである」(P.162)と述べている。

◇だが本当にそうか。それはこの映画における情動喚起力、あるいはカタルシス喚起力の微弱さをいっているにすぎないのではないか。そもそも悪人の策略に対してひとが「なす術もない」のは世の常というべきで、そうでない映画がみたいのなら、不死身のヒーロー映画をみればいい。それはいい過ぎにしても、雪夫人(小暮実千代)とその恋人菊中方哉(上原謙)の「あまりの弱さに馬鹿馬鹿しくなってきてしまう」のは、評者の洞察力のなさを語っているに過ぎないのではないか。むしろ弱さが強さであるという逆説的事態が生ずるところに、必然性というものを切り裂く出来事のしるしがあるのではないか。

◇『雪夫人絵図』というタイトルから分かるように、この映画の主人公は雪夫人であるといちおうはいえる。しかし溝口は舟橋聖一の同名の小説を映画化するに当たって重大な変更を加えているようだ。それは雪夫人の恋人菊中方哉を「性的不能かと思うほどに頼りない二枚目」(佐藤忠男)として造型したことに見られるようだ(当方原作を読んでいないため、こういう伝聞めいたいい方しかできないのだが)。しかし菊中をフィジカルではない人物に仕立てたことで、現実的行動とは無縁のこの男をめぐるドラマが担保されたといえる。それゆえ菊中はストーリー上は無能者でしかないが、視点的存在としてドラマに関わって行く。

◇ほぼ同じことが昭和21年12月に公開された『歌麿をめぐる五人の女』についてもいえる。この映画については「歌麿の人間像をつっこんで描いた映画にはなっていない」(佐相勉)とか、「カサカサとした艶のない作品」(新藤兼人)とかいわれている。しかし先入見を持たずにみれば分かることだが、この映画では「歌麿の人間像」が目指されているわけではない。というか、より正確にいえば、江戸町人たちの集合的シンボルとして「歌麿の人間像」が浮き彫りにされる。その手法たるや山中貞雄の『河内山宗俊』(昭和11年)を凌ぐほどのもので、新藤兼人の評とは反対に、これほど「艶」のある映画は滅多にないといえる。

◇ちなみに佐藤忠男は『歌麿をめぐる五人の女』について「面白いけれどもいささか貧弱な作品だった」と述べている。これらの評言は溝口の代表作である『浪華悲歌』や『祇園の姉妹』を基準にしていわれていると思われる。つまり「執拗に非情に人間そのものを追い詰めるところに、溝口映画の強い訴求力があったはずである」(田中眞澄『雪夫人絵図』DVD解説)という評価軸によっていると考えられる。だから山中貞雄的な粋と軽妙洒脱さに満ちたこの映画に戸惑うのだろうが、実際は『浪華悲歌』にも『祇園の姉妹』にもそういう要素はたっぷりあるのだ。そのような傾きを前面に押し出したのがこの『歌麿』なのだ。

◇評者たちは暗くて嗜虐的で強烈なカタルシスがあれば溝口的リアリズムとして評価するのだろうが、どうもそこにはドラマとストーリーの混同があるように思われる。だから『雪夫人』の視点化されたドラマは「高揚感を欠くことは否めない」(田中眞澄)とされ、『歌麿』の巧妙に複数化されたドラマは「歌麿をめぐる女を鋭く凝視した映画としてはやや物足らない」(佐相勉)とされる。だが溝口映画におけるストーリーとは、それを突き抜けるドラマをつくり出すための枠組か地図のようなものではないだろうか。

◇『雪夫人』についてはポイントを述べたから、『歌麿』についてもう少しいっておくと、この映画の事実上の主人公は浅草の水茶屋の女おきた(田中絹代)であるといえる。おきたは銀座の紙問屋の若旦那庄三郎(中村正太郎)に惚れているのだが、彼は松の位の多賀袖花魁(飯塚敏子)に惚れて駆落ちしてしまう。おきたは庄三郎をいったんは奪い返すものの、三角関係は解消されず、最後には庄三郎と多賀袖花魁を刺し殺す。おきたはそのあと歌麿(坂東簑助)の家にやってきていう。「おきたは間違っちゃいない」、「自分を騙して、ほどよい恋や、損得ずくの恋なんかできるもんか」、「あたしゃ自分の思いのまま身ぐるみ生き抜いたんだ」、「たとえ、打ち首、縛り首、火あぶりにあったって本望。立派にお仕置きを受けます」、と。

◇この場面の田中絹代の演技は、彼女のベスト・パフォーマンスのひとつといえると思うが、そういう評価は読んだことがないし、聞いたこともない。江戸の町人女の典型としてのおきたの造型が、みる者の印象を弱めているのかもしれない。しかし、おきたが自首するために去ったあとで歌麿が叫ぶ「描きてえ、描きてえ、絵が描きてえ」というセリフを含めて、このシークエンスには絶大な感動がある。殺人というおきたの非日常的行為をきっかけにして、江戸庶民の集合的無意識のようなものが画面に溢れ出す。そういう意味で、この映画には溝口映画に特有のドラマが最も純粋なかたちで見られるといえる。

◇いい忘れたが、おきたが歌麿の家へやってきていう最初のセリフは、「おきたの生き霊がきました。女の生き霊が別れにきましたよ」というものだ。これは映画の始めの方でおきたが語る「歌さんは女の生き霊を追っているのさ」を受けたものだが、ここにも「霊」というものへの溝口のこだわりが見られる。ここまでくるとデリダやマルクスとの関連も偶然とは思えなくなるが、それはともかく、溝口映画に特有のドラマの肝が幽霊的なものにあることはもう明らかだろう。つまり溝口映画のドラマはストーリーや物語的因果性には還元されえないこと、更にいえばそれは必然性を破る出来事へと通じていること、これである。


2007/03/23 溝口健二『噂の女』

◇溝口健二の映画『噂の女』について佐藤忠男は次のように述べている。「かつてあれほど、貧しい女性の人権の擁護のために闘争的な映画をつくった溝口が、こういう、売春問題についての抗議をあまり含んでいない作品を、のんびりと愉しげにつくっているのは不思議でさえもあった。・・・「噂の女」・・・は巨匠の晩年の休暇であり、売春に抗議するいっぽう、売春を大いに享受もした彼の、その遊び人としての、通人としての矛盾した側面をにじみ出させた作品であったといえるだろう」(『溝口健二の世界』平凡社ライブラリーP.285)と。

◇このうちの「のんびりと愉しげにつくっている」というのはその通りかもしれない。しかし、溝口が「貧しい女性の人権の擁護のために闘争的な映画をつくった」というのは違う気がする。そういうわけで、昭和29年6月に公開された『噂の女』に即して溝口健二の映画づくりの構えを見てみたいと思う。

◇この映画の物語は、京都島原の老舗の遊廓を経営する未亡人の女将(田中絹代)と、失恋のために自殺未遂を起こして東京から里帰りしてきた音楽家の卵であるその娘(久我美子)、そして遊廓の女将の愛人である若い医者(大谷友右衛門)、という三者の人間関係がベースになっている。従ってこの物語を追うかぎりでは、この映画は典型的な三角関係物語として見ることができる。しかしそういう風に見てしまうと、若い医者の卑劣さに怒った娘が鋏で彼を突こうとする終りの方のエピソードを別にすると、不自然に感じられるところもあって、それほど面白いとはいえない。しかし主要登場人物と思われるこの三者を、遊廓の太夫たちの存在を際立たせる表層の狂言まわしとして見ると、この映画はまったく違った様相を見せてくる。

◇溝口は久我美子の娘が太夫たちと関わって行くなかで成長して行くというラインを描いてもいる。しかし、そのような成長物語がこの映画のメインのラインなのかというと、そうではない。久我美子にはそういうドラマを演ずる力はあったと思うが、溝口はそういう筋がメインとは考えてはいない。そのことは、太夫になることを望む薄雲太夫の妹千代(峰幸子)に対して、「そんなこと考えてもいけないわ」「そんなイージーな考え方をしてはいけないわ」といわせていることからも分かる。太夫になる以外に選択の余地があるとも思えない水飲み百姓の娘千代に対して、「そんなイージーな」たてまえをいっても始まらないからだ。

◇従って久我美子の娘がどれほど良心的な人物であろうと、田中絹代の母親を超えて行くことは考えにくい。三角関係のトラブルによる心痛で倒れた母親に代わって、久我美子の娘が遊廓の帳場に座ることになる結末は、この表層の物語の必然的帰結といえる。このように見てくると、けっきょくこの映画の主要登場人物と見られる三者は、狂言まわしと見るほかなくなってくる。『映画読本・溝口健二』の解説筆者(佐相勉)も同じような見方をしているようだが、それは溝口の狙いとするところでもあったはずだ。

◇この映画は遊廓の内部が主要な舞台になっている。井筒屋と呼ばれる田中絹代の女将が経営するこの遊廓は、広い玄関、帳場、台所、太夫たちのいる部屋(置屋)、女将と娘の住居、そして2階にある座敷(茶屋)からなっている。そしてこの映画の中心をなすドラマは、玄関と帳場と台所に広がる空間、そして置屋を中心に展開する。あるいは溝口の好む洛中洛外図的構図がそのようなドラマを中心に押し上げたという事情もあるのかもしれないが、ともかく、太夫以下の使用人たちがいる広いセットの内部を、宮川一夫のキャメラが自在に動いているように見える。そういう意味からも『噂の女』は戦後の溝口の代表作といえると思う。

◇このような見方からすれば、この映画のドラマは、薄雲太夫(橘公子)の病気と死、如月太夫(長谷川照容)の逃亡と帰還、薄雲の妹千代の太夫になろうという意思、そして「あてらみたいなもん、いつになったらないようになんのやろ。あとからあとから、なんぼでもできてくんねんなあ」という尾上太夫(大美輝子)の述懐からなるといえる。「あてらみたいなもん」を生み出す原因が失敗、零落、貧しさなどにあることは、「うちら水飲み百姓の娘どすさかい」という太夫のひとりの台詞で語られている。しかし溝口はそのような現実に「抗議」したりはしない。ここで溝口がなしていることは、そのような現実を溝口なりのやり方で描くことだ。

◇問題の核心は、この溝口なりのやり方でというところにあるわけだが、そのことは前(2007/02/02)に触れた溝口の世界観とも関わる。溝口は階級の問題はコミュニズムが解決するが、男と女の問題はそのあとにも残ると考えていたようだが、この映画では後者の中心をなすであろう売春婦としての太夫を扱っている。しかし売春婦という存在が孕む問題は男と女の問題には還元できない。それは階級の問題と男と女の問題が交差するところに横たわる問題といえる。従ってこの映画が「のんびりと愉しげにつくっている」(佐藤忠男)ように見えるにしても、傾向映画の作家でもあった溝口が、「会社のいうことをきいた間に合わせの仕事」(昭和28年公開の『祇園囃子』についての溝口自身の発言)と考えていたとは思えない。

◇溝口自身のコメントにもとづいて『祇園囃子』を評価する者もいないだろうが、太夫たちの姿を捉えたこの『噂の女』には、ほかの溝口映画には見られない視線が感じられる。『映画読本・溝口健二』の解説筆者(佐相勉)はそれについて次のように述べている。「薄雲(太夫)が倒れる前に、この帳場の空間に登場するシーンも忘れることができない。・・・まるで幽霊のように薄雲が現れ、・・・玄関の方へ向かっていく。・・・まるで死んだ人間のように静かに歩いていくその薄雲の姿に、一瞬時間が凍りついたような粛然とした感じを抱かせられる」(同P.126)と。まさに慧眼というべきだろう。またそれは共産主義を幽霊・亡霊・妖怪として捉えたマルクスを(更には『マルクスの亡霊たち』を書いたジャック・デリダを)思い出させもする。

◇この映画に見られるそのような視線の意味については改めて考えてみたいと思うが、いずれにしてもそれは奴婢(奴隷)という存在を扱った前作の『山椒大夫』(昭和29年)にはほとんど見られなかったものだ。『山椒大夫』は奴隷制度に「抗議」する映画といえるだろうが、奴隷制度を廃棄する「主体」は奴隷自身であるという観点は弱いように思われる。しかし溝口は、『噂の女』の太夫たちに、捉えがたく侵しがたい幽霊のようなオーラあるいはディグニティを与えた。つまりこれは「貧しい女性の人権の擁護のための闘争的な映画」などではないということだ。むしろこれは売春という奴隷制度の変種を廃棄する「主体」を描いた映画というべきなのだ。こういった志向は溝口映画の基本的な構えによっていると思われる。

◇ひとつ付け加えておくと、『噂の女』の真の主役が太夫たちであることは、薄雲太夫(橘公子)と女将(田中絹代)、如月太夫(長谷川照容)と女将、という関係が、いわば階級的な敵対関係として描かれることからも理解される。つまり田中絹代の女将は、太夫たちの生殺与奪の権を握る奴隷主のような存在として描かれる。太夫たちは娘の久我美子に気を許すことはあっても、女将に対してはそのようなことはしない。そしてきれいなべべとおしろいで身を飾って「死んだ人間のよう静かに歩いていく」太夫たちというのは、遊廓の女将とその娘の視点から見られているように思われる。女将とその娘にとっては、太夫たちはアンタッチャブルな存在でもあるからだ。これは「顔が見えない」ヒロインお徳(森赫子)が、『残菊物語』(昭和14年)の真の主役であったことに通じるような事情が、『噂の女』にも見られるということなのかもしれない。

◇顔が見えないということは主人の側から見られた奴隷の属性(非他者性)である。顔が見えない存在としてお徳を造型したところに『残菊物語』のドラマとしての成功の秘密があったことについては、『映画監督・溝口健二』(新曜社)に収録されている加藤幹郎の「視線の集中砲火」が詳細に論じている。しかし『噂の女』の太夫たちは顔が見えない存在とはいえない。それは太夫以外の遊廓の使用人たちの太夫たちへの「如月さんこったい」「八千代さんこったい」といった呼び方からも理解される。「こったい」というのは「こちの太夫」「うちの太夫」をつづめた島原独特のいい方だそうだが、同じ被支配階級に属する女中たちには太夫たちが見えているということだ。それゆえこの映画の視点は主人の側に置かれていると見ることができるのだが、それを映画を見る観客の視線と等置したのは、溝口特有のアイロニーであろうと思われる。もちろん、それをアイロニーというのであれば、共産主義を幽霊といったマルクスにもそれが見られるわけだが。


2007/03/11 フーコー「啓蒙とは何か」

◇1984年に発表されたミシェル・フーコーの「啓蒙とは何か」は、そのちょうど200年前に書かれたカントの「啓蒙とは何か」を踏まえながら、フーコー独自の啓蒙の概念と理念を打ち出した文書といえる。従って、まずはカントの「啓蒙とは何か」における啓蒙の定義から見て行く必要がある。

◇カントは「啓蒙とは何か」を次のような文章で始めている。「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある。というのは、この状態にある原因は悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようという決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから「敢えて賢こかれ!(Sapere aude)」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」ーーこれがすなわち啓蒙の標語である」(岩波文庫『啓蒙とは何か』P.7)。

◇それに続けてカントは、「大方の人々」が「身を終えるまで」未成年の状態にとどまっている理由を述べる。それは「お為ごかしにこの人達の監督に任じている例の後見人たち」(P.8)、及び「さまざまな制度や形式」(P.9)のしわざなのだが、また未成年状態にあるひとびと自身がそれらの「くびきに繋がれた」状態を望むからでもある。「未成年でいることは気楽」(P.8)だからである。

◇そこからカントは次のように述べる。「このような啓蒙を成就するのに必要なものは、実に自由にほかならない。しかもおよそ自由と称せられる限りのもののうちで最も無害な自由ーーすなわち自分の理性をあらゆる点で公的に使用する自由である。・・・・自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない。これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい」(P.10)と。この理性を私的に使用することの制限についてカントは次のようないい方で補足、あるいはいっそう強調している。「公民的自由が過度に増大すると、国民の精神の自由にとって有利であると思われるかもしれないが、実はこの自由に克服しがたい制限を加えることになる。むしろ公民的自由のいくらか低めの方が却って精神的自由に、力を尽してみずからを拡充すべき余地を与えるのである」(P.19)と。

◇カントは理性を公的に使用することを「公民的自由」とは考えない。カント自身「公民的自由というこの硬い殻」(同)といういい方をしているように、「公民的自由」といわれる場合の公民とは、「公職に任ぜられている人」、「将校」、「聖職者」などに代表されるひとびとのことなのであって、彼らはその職務において理性を私的に使用しうるに過ぎない。つまり、ここでいわれる公民にはそもそも自由はない。しかし彼らとて、「自分を同時に全公共体の一員ーーそれどころか世界公民的社会の一員と見なす場合には・・・・本来の意味における公衆一般に向かって・・・・議論することはいっこうに差支えないのである」(P.11)。

◇つまり、カントの称揚する自由は公民的自由ではない。上にも述べたように、そのような公民にとどまるかぎり自由はない。カントの称揚する自由はあくまでも「自分の理性をあらゆる点で公的に使用する自由」であって、それはむしろ公民的自由(=私的自由)の抑制によって拡充への道が開かれる。いい換えれば、「自分の理性をあらゆる点で公的に使用する」かぎりにおいてのみ人間は自由でありうる。更にいえば、人間は公的であるかぎりで自由でありうる。ハンナ・アーレントの言葉を借りていえば、「自由の内容とは・・・・公的関係への参加、あるいは公的領域への加入である」(『革命について』ちくま学芸文庫P.43)。

◇カントが「啓蒙とは何か」で述べていることはそのことに尽きるように思われる。つまり、啓蒙とは人間が自分の未成年状態から抜けでることなのだが、それは彼ら自身が政治的に行為するかぎりにおいてのみ手にしうる、と。カント自身は政治的な事柄に関わるつもりはほとんどなかったのかもしれないが、「啓蒙とは何か」が述べているプログラムには政治への志向がたしかに見られる。現に「啓蒙とは何か」の最後の部分では、人間が自分自身の理性を公的に使用することによって、宗教(良心)、立法、統治という具合に自分自身の未開状態から抜け出すことができるという希望が述べられている(P.17-19)。そしてアーレントの『革命について』は、「啓蒙とは何か」が孕むそうした志向の展開と見ることもできるように思える。

◇それではフーコーはこのようなカントの「啓蒙とは何か」をどういう風に読んでいるのだろうか? フーコーの「啓蒙とは何か」の記述を追うかぎりでは、フーコーが特に強引な読みをしているようには思われない。しかしその「位置」ということに関してフーコーは次のように述べている。「私はこの短い論文とカントの三大『批判』との間にある結びつきを強調すべきだと考えている。じじつ、この論文は、啓蒙を、人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用しようとする時(モーメント)であると描いている」(『フーコー・コレクション6』ちくま学芸文庫P.372)と。また、「私が提出したい仮説は、この小さな論文が、批判的省察と歴史についての省察との、言わば、連結部(ターニングポイント)に位置する、というものだ。それはカントによる自分自身の企ての現在性についての反省なのだ」(P.373)とも述べている。

◇そして、「歴史における差異としての〈今日〉、また、個別的な哲学的使命の動機としての〈今日〉、についてのこのような反省こそ、このテクストの新しさだ、と私には思えるのである。・・・・〈現代性(モデルニテ)〉の態度、と呼んでよいかもしれないようなものの素描が、そこには見て取れるのだ」(P.374)、という具合にフーコーは論を進める。こうしたフーコーの解釈になにか問題があるだろうか? 問題があるとすれば、批判的省察と歴史についての省察との連結部(ターニングポイント)に位置する、とされるカントの「啓蒙とは何か」の位置づけだろう。何故ならば、カントのこの小論文からはそのような意図は読み取れないように思われるからだ。むしろカントの「啓蒙とは何か」は、フーコーのいうカントの「歴史についての省察」の先端に位置しているというべきではないのだろうか。いやもっと正確にいえば、上にも述べたように、カントの「啓蒙とは何か」は「歴史についての省察」から更に進んで、政治理論の形成へ向けた踏み出しとして読まれるべきであるように思われる。このような読み方こそがカントの「意図」に即した読みであるように思われる。

◇このような読み方とフーコーの読み方とのあいだには大きな違いはないと思われるかもしれない。現にフーコーは彼の「啓蒙とは何か」のあとの方で、「今日における批判の問題は、積極的な問いへと反転されるべきだと、私には思われる。・・・・要するに、必然的な制限のかたちで行使される批判を、可能な乗り越えのかたちで行使される実践的批判へと、変えることが問題なのだ」(P.385-386)というような、まるでマルクスがいうようなことを述べている。このような結論についてならフーコーのいうことにほぼ同意しうる。しかしフーコーが繰り返し述べる「普遍的な価値」を求めてではなく(P.386)とか、「超越論的ではなく」(同)とか、「全体的で根源的なものであると主張されるようなあらゆる企てに背を向ける」(P.387)というようなエクスキューズは、カントの啓蒙を「歴史的-実践的批判」(P.389)につなげようという歪みから出てくるのではないか? このようなフーコーのいい方は、「歴史の終焉」ということがいわれたあとのグローバリゼーション下の砂漠においては反動的というべきではないのか? むしろ21世紀に生きるわれわれとしては、カントが『実践理性批判』で述べるように「普遍的立法の原理として妥当するように行為する」ことが求められているのではないか?

◇フーコーは彼自身の立場が相対主義だとかプラグマティックだとかいわれることを否定しないのかもしれないが、われわれから見れば批判的省察と歴史についての省察とを「連結」させるというような哲学的「全体」志向を放棄すればいいことだと思える。つまりカントに倣って啓蒙を政治的プログラムとして理解すること。そして批判的思考と政治(公的関係への参加、あるいは公的領域への加入)とを別次元の事柄として理解すること。そうすればコミュニズムだろうがマルクスだろうがなんら恐れるに足らない。もっといえばマルクス以後のマルクス主義でさえ恐れるに足らない。逆にジャン=リュック・ナンシーがいうように、「「マルクス」において、実体および主体の存在論すべてと共約不可能な共同性[en-commun]に対する肯定が明るみにもたらされた」(『共出現』松籟社P.93-94)こと、しかしながらそのことが忘却されてしまったがゆえに「「民主主義的な」広大な無の荒野[no man's land]のなかで、政治的な怒りもまた姿を消してしまった」(P.82)こと、それゆえ結局のところ「私たちの時代を「コミュニズム的な問い」の時代として思考しないならば、私たちの時代は自由に思考されるままにはならない」(P.84)こと、これらのことが改めて理解されてゆくと思われる。


2007/02/02 溝口映画における「傾向」

◇「傾向」とは傾向映画のことである。佐藤忠男によれば、傾向映画とは1929〜30年に大流行した左翼的傾向の強い映画という意味だそうだが(『溝口健二の世界』平凡社ライブラリーP.108)、それはロシア革命に始まるコミュニズムの思想と文化の世界的拡大の、日本の大衆文化における現われにほかならない。そういう映画が日本で大流行したというのは、映画会社の首脳たちがコミュニズムに染まったからではもちろんない。むしろ「マルクス主義者にあらずんば人にあらず」という言葉に象徴される昭和初期の風潮への迎合、更には「儲かるものならおおいにけっこう」(同上P.109)という資本の論理からきている。

◇溝口健二がつくった傾向映画としては、昭和4年の『東京行進曲』と『都会交響楽』、同6年の『しかも彼等は行く』が知られている。しかしいずれもフィルムは失われてしまったようだ。今回は溝口の傾向映画を問題にしようというわけではなく、あくまでも溝口映画に見られるコミュニズムへの傾きのあり方、即ち「傾向」について考えてみたいわけで、溝口の傾向映画そのものについてはここでは措く。

◇溝口は昭和30年に次のように述べたそうだ。「大体、僕は昔から、階級の問題はコンミュニズムが解決するが、その後には男と女の問題が残る、と考えていましてね。だから男と女の問題をとりあげることに特別な関心をもっていたわけなんです」と(同上P.104-105)。佐藤忠男は溝口のこの発言の内容を批判しているが、重要なことは、溝口が戦後においてもそういう考えを持っていたことだ。そしてこの発言を額面通りに受け取ることで、溝口の映画に一貫したテーマを見出すことができるように思う。

◇溝口自身がコミュニストであったかどうかは不明だが、彼がコミュニズムというものを「階級の問題」を「解決」する思想、理論として受け取っていたことは間違いないようだ。しかも階級の問題が溝口にとって重大なテーマであり続けたことは、上の発言の前後、即ち昭和29年の『近松物語』と、同30年の『新・平家物語』において再び階級が取り上げられていることからも理解される。

◇『近松物語』と『新・平家物語』において階級の問題がテーマになっていることは、これらの映画を虚心にみればあまりにも明らかだろう。つまり、前者においては名字帯刀を許された京都の豪商大経師以春の若妻おさん(香川京子)と奉公人茂兵衛(長谷川一夫)の身分違いの恋物語として、また後者においては支配階級の公家によって傭兵としてこき使われる卑しい地下人(じげびと)である平清盛(市川雷蔵)の青春物語として。古代末期の傭兵が近代のプロレタリアに当たるかどうかはともかくとして(かなり違うが)、彼らが新興勢力として台頭していくには階級としての覚醒と結束が必須であったことは間違いない。じっさい『新・平家物語』では若き平清盛が武士としての階級意識に目覚めてゆくさまが鮮やかに描かれる。

◇『近松物語』に戻ると、佐藤忠男はこれを「西洋的なラブ・ロマンス」と呼んでいるが、果してそうだろうか? たしかに手代の茂兵衛はこの映画の物語を通じて、おさんに仕える従者から恋に生きる男へと変貌していくようにいちおうは見える。だが、茂兵衛はそれ以前からおさんを慕っていた。だからこそ茂兵衛は同じ身分のお玉(南田洋子)の求愛をクールかわしていたのだ。この映画のクライマックスは琵琶湖の場面といえるが、そこに至る鴨川の河原の場面、鴨川沿いの宿の場面もそれを凌ぐほど美しい。何故ならおさんに仕え助けることが茂兵衛の道であり、おさんに対する彼の恋の表われであることがよく分かるからだ。男女と主従関係は逆だが、彼もまた『残菊物語』のお徳と同様「意地」に生きようとしている。

◇従って『近松物語』も『残菊物語』と同じ身分違いの恋の物語と見ることができる。いうまでもなく「天地神明に恥じない堂々たる恋愛」(同上P.277)だけが恋ではない。むしろわれわれから見れば、無償の「意地」として表現される恋の方がより美しく、よりパワフルに見えるのではないか。それが日本的な恋といわれるのであれば大いにけっこうなことだが、もちろんそのような恋も普遍性を持っている。何故なら、神でも真理でも「普遍的立法の原理」(カント)でもいいが、そういうものに叶うように努めることは、どこにおいても規範的とされるであろうから。琵琶湖の場面以降のこの映画の展開がかなり退屈に感じられるのはそのためだ。明らかにこの映画のエネルギーは階級と「人間の努め」と恋が交差する前段に詰まっている。

◇恐らくここにはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」のようなものが見られるのだと思う。のみならず、レーニンやトロツキーが(マルクスもそうかもしれないが)革命的なエートスは先進地域ではなく後進地域に生まれると考えたことの証明ともいえる。もっといえば、フランス、ドイツ、ロシア、中国といった強力な封建制が存在した国にコミュニズムが根付き、アンシャン・レジームから絶縁したところから出発したアメリカ合衆国にコミュニズムが根付かなかったことにも関わる。ここでキーになるのが封建制から生み出された規範意識と「意地」なのだと思われる。しかしそうであるとすれば、溝口健二に見られる「傾向」は溝口ひとりの問題ではなくなるのだが、それを映画を通して語り続けたことの意味は決して小さなこととはいえない。

◇それどころか、日本の近代思想や近代文学にかかわる未解決の難問への思いも寄らない問題提起がなされていると見ることさえできる。そういう意味での溝口映画の「新しさ」はまだよく理解されていないようだが、そこにはまた、現在の袋小路を突破する鍵が隠されているようにも見える。


2007/01/09 溝口映画における「意地」

◇松竹のプロデューサーだった升本喜年という人が書いた女優山田五十鈴の評伝『紫陽花(あじさい)や山田五十鈴という女優』(草思社)という本を読んだ。この本の風変わりなタイトルは、山田五十鈴の愛人であった花柳章太郎が詠んだ俳句から採られている。ただし、その句がつくられたのは終戦の少し前であったと思われるから、「う」となっている送り仮名は元来は「ふ」であったようだ。

◇山田五十鈴の評伝を書くぐらいだから、五十鈴の熱烈なファンであることは間違いないと思われるのだが、著者自身のファン歴には触れられていない。昭和4年の生まれだそうだから、五十鈴の映画を初めてみたのは昭和14、5年の頃だろうか? しかしそういうことは別にして、女優山田五十鈴を生み出した映画として昭和11年の『浪華悲歌』を挙げているのには注目しないわけにはゆかない。

◇いやそれどころか、この本全体を通じて五十鈴の演技を細部にまで踏み込んで説明を加えているのも、やはり『浪華悲歌』における演技なのだ。この著者によれば、五十鈴が出演した映画は全部で262本になるそうだが、『浪華悲歌』における五十鈴の演技は特別のものであったようだ。前にも述べたように(2006/12/22)、この映画は名台詞映画である。台詞が人物と世界のあり方を決定づけている。

◇溝口健二も五十鈴の台詞がこの映画の命と考えていたように思える。五十鈴の演ずる主人公アヤ子が父親と一緒に警察から家に帰ってきたあと、はしゃいで「わあ、おいしそうやわあ。すき焼きやないかあ。あてもよばれよう」というシーンがあるのだが、溝口はなかなか五十鈴のいうその台詞が気に入らず、3日間にわたってリハーサルを繰り返したそうだ。4日目にようやく本番に入ってオーケーになったそうだが、じっさいその台詞こそ『浪華悲歌』のなかでも最も深く心に残る台詞といえる。

◇溝口の映画においては、多くの場合ロングに引いたキャメラが複数の人物を(主に縦方向に)捉えるため、成瀬巳喜男の映画に見られる目線演技のような微妙な動きはつかみにくい。成瀬の目線演技に代わるものが溝口においては台詞演技であり、身体演技であるといえる。例えば、溝口の『元禄忠臣蔵』(昭和16、17年)には討ち入りの場面がないのだが、それを討ち入りと吉良の討ち取りを報告する手紙を読み聴かせることに代える。読むのは戸田局(梅村蓉子)であり、聴くのは浅野内匠頭の夫人瑶泉院(三浦光子)なのだが、その場面における三浦光子の台詞と身体演技はあらゆる討ち入りシーンを凌ぐとさえ思われる。

◇前にも書いたように、成瀬映画の目線演技の代表的なものは、突然訪ねてきた亡夫の妾(中北千枝子)を前にした三浦光子が、妹(高峰秀子)を一瞬見遣る『稲妻』の演技といえる。その三浦光子が10年前に溝口の要求する台詞と身体演技を完璧に演じていたことは記憶しておくに値する。話を戻すと、三浦光子の瑶泉院は主人浅野内匠頭の命日に訪ねてきた大石内蔵助(河原崎長十郎)の不可解な態度に怒って、主人の霊前への焼香を許さない。吉良邸への討ち入りはその翌未明となったゆえ、それを知った瑶泉院の喜びは想像に余りあるが、仇敵討ち取りというクライマックスを女優の演技に代えるという発想は普通ではない。

◇しかし事情は昭和14年公開の映画『残菊物語』においても変わらない。この映画のクライマックスはヒロインお徳(森赫子)の死と、その「夫」尾上菊之助(花柳章太郎)の船乗り込みにあるのだが、病床の森赫子(かくこ)が花柳章太郎を迎えてから船乗り込みに送り出すまでの台詞こそ「一世一代の名演」(佐藤忠男)と呼ぶに相応しい。森赫子のお徳はいつ死んでもおかしくない重篤な状態で屋根裏部屋に寝ているのだが、それを知っている花柳を船乗り込みに送り出すため究極の欺瞞的な言葉をいう。「わたしなら、済んでからだってゆっくりお目にかかれるじゃありませんか」、「もうあなたにお会いできないようなわけでもありますか?」、「さあ、わたしは女房なんでしょう・・・それじゃあ女房の言葉を素直に聞いてくれたっていいでしょう」と。

◇当方がみたかぎりでいえば、戦前戦中の溝口映画のヒロインとしては、『浪華悲歌』の村井アヤ子(山田五十鈴)、『祇園の姉妹』の芸妓おもちゃ(同)、『愛怨峡』のふみ(山路ふみ子)、『残菊物語』のお徳(森赫子)、『元禄忠臣蔵』の瑶泉院(三浦光子)とおみの(高峰三枝子)を挙げることができるが、彼女たちのあいだに共通点があるのだろうか? もっと端的にいえば、山田五十鈴が演ずる村井アヤ子や芸妓おもちゃといった「不良少女」と、歌舞伎役者の「夫」が立派な役者になるためには自分を捨てることさえ厭わないお徳や、亡き主人に仕えて生きる瑶泉院といった「貞女」とのあいだに共通点があるのだろうか? それとも前者はエログロ・ナンセンスの時代を代表し、後者は戦時イデオロギーを代表しているにすぎないのだろうか?

◇ひとついえることは、『残菊物語』のお徳も、『元禄忠臣蔵』の瑶泉院も、アヤ子たちと同様(あるいは彼女たち以上に)自分の「自我」などではなく世界を指向していることだ。お徳の場合は「夫」の歌舞伎役者尾上菊之助を通じて世界を指向する。もちろん一介の女中風情が世界を指向することなど誰にも理解しえないから、菊之助の妻の座を狙っていると見られて、菊之助の母(梅村蓉子)から里へ帰されてしまう。瑶泉院の場合は、世間から短慮者、うつけ者と見られている亡き夫浅野内匠頭の名誉回復を通じて世界へコミットしてゆく。お徳は里へ帰されたあとも大阪へ行った菊之助を見守っていて、1年後に菊之助のもとへ走る。瑶泉院は大石たちの処分(切腹)が決ったあと、彼らの立派な最期を願って菊の花を贈る。

◇『元禄忠臣蔵』の場合は、瑶泉院と並ぶ(あるいは凌ぐ?)特異な存在として、47士のひとり磯貝十郎左衛門の「妻」おみの(高峰三枝子)という女性が登場する。彼女は「偽り(の結婚)を誠に返す」という言葉通り、磯貝の切腹に先立って自害する。四方田犬彦は優れた論文「『元禄忠臣蔵』における女性的なもの」(『映画監督 溝口健二』新曜社収録)のなかで、「おみのの死がどこまでも主張する非公式性は、国家のイデオロギーの側にはどこまでも解消されないままに残存する」と述べているが(同P.215)、それは瑶泉院の場合でも同じことだ。たしかに瑶泉院は「公的」な存在に見えるが、その行動原理は極めて特異なものである。彼女が願っていることは、結局のところ仇敵吉良の死と大石たちの立派な最期なのだから。

◇要するに人間のすべての行為は「私的」であるほかない。あるいは人間の行為は「単独」であるほかない。佐藤忠男の言葉を借りれば、人間の行為の原理は「意地」であるほかない。逆にいえば、人間の世界建設能力といったところで、その原動力はといえば「意地」へと行き着く。山田五十鈴や山路ふみ子が演ずるヒロインたちの戦いへの意志も、森赫子、三浦光子、高峰三枝子が演ずるヒロインたちの「命がけの跳躍」というべき自己放棄も、その向かう先が世界であるがゆえに自己憐憫とはまず縁がない。それを「意地」という言葉で表現した佐藤忠男は正しい。ただし佐藤には「意地」は人間の世界建設能力の原理であるという観点がない。しかしながら溝口の映画がわれわれに教えていることはそのことに尽きるように思われる。


2006/12/28 昭和11年の溝口映画

◇『浪華悲歌』に続いてつくられた溝口健二の映画『祇園の姉妹』(昭和11年)と『愛怨峡』(昭和12年)をみた。『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』は同じ年に同じ第一映画でつくられ、主演も同じ山田五十鈴だから、セットにして語られることが多い。しかし、このふたつの映画はストーリーが違うようにテーマも違う。前回も述べたように『浪華悲歌』のテーマは人間の特異性、とりわけ山田五十鈴が演ずるアヤ子の特異性に置かれる。ところが『祇園の姉妹(きょうだい)』においては女たちのものの考え方が主題化される。そういう意味では小津の『宗方姉妹』(昭和25年)に先行する映画であるともいえそうだ。ただし、小津が伝統を重んずる姉(田中絹代)を中心に描くのに対して、溝口は男や世間を敵視する妹(山田五十鈴)を中心に描く。

◇しかし、なぜものの考え方が主題化されるのか? あるいは『浪華悲歌』で山田五十鈴の演ずるアヤ子が行動する女であったこと、それゆえ次の映画でその原理を明らかにしたいという思いがあったのかもしれない。とにかく『祇園の姉妹』の登場人物たち、とりわけ主人公の芸妓おもちゃ(山田五十鈴)はよくしゃべる。五十鈴にコケにされた呉服屋の番頭に円タクから突き落とされ、重傷を負った彼女は病院のベッドで次のように語る。というか叫ぶ。「黙っていうなりになって、ええ人間になっても、どうもしてくれはれへんねん。・・・あてらは一体どうしたらええのや。・・・なんであてらをこないにいじめんならんのやろ。なんで芸妓みたいな商売がこの世の中にあるんや。こんなもん間違うたもんや。こんなもんなかったらええのや」、云々。

◇呉服屋の番頭(深見泰三)は五十鈴に惚れていたのだが、彼女は彼に姉梅吉(梅村蓉子)の着物の布地をみつがせた上で捨ててしまう。更に悪いことに、五十鈴の旦那に収まった呉服屋の主人(進藤栄太郎)から彼は店をくびにされる。五十鈴はその彼から復讐されたのだが、自分が彼に対して行なったことについてはまったく反省がない。それどころか、五十鈴はこの映画の始めの方で姉に向かって次のように語ってさえいる。「男はんちゅう男はんはみんなあてらのかたきや。にくいにくい敵や」と。明らかに五十鈴は過剰にしゃべる。『浪華悲歌』の最後に五十鈴が語る凝縮された台詞とはあまりにも違う。だから、『祇園の姉妹』は偽装された傾向映画(左翼映画)なのかとも考えたくなる。あるいは芸妓という存在をプロレタリアに擬した階級映画なのかとも。じっさい「なんで芸妓みたいな商売がこの世の中にあるんや。こんなもん間違うたもんや」という台詞は、資本主義社会あるいは男社会へ向けた糾弾の叫びとも受け取れる。

◇それに五十鈴が病院のベッドのなかで語る(叫ぶ)最後の台詞は、ストーリーの展開からはみ出している。たしかに梅村蓉子の姉がそばに付き添ってはいるが、その台詞への答えが期待されているわけではない。じっさい五十鈴の叫びが終わったところで映画も終わる。それゆえ、その台詞は映画の外側、つまり観客に向けて語られていると受け取るのが妥当と思える。こういう映画が昭和11年につくられた(公開日は10月15日)ことが不思議な気がする。しかしその年は2.26事件の年だから、事件を主導した将校たちはもとより、決起した部隊の兵士とその家族、更には多くの日本国民に受け容れられやすいものであったとは考えられる。そういう読みが溝口にあったにしても、基本的には偽装された傾向映画であると思われる。

◇その翌年に公開された『愛怨峡(あいえんきょう)』には、『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』に見られる剥き出しの激しさはない。主演者も山田五十鈴から山路ふみ子に代わっている。ストーリーにも起伏があって、男に捨てられた若い女の変貌を山路ふみ子が見事に演じている。部分的には林芙美子の『放浪記』を思わせるところもあるし、役名がまた「ふみ」だから、林芙美子が意識されていたことは大いに考えられる。その『愛怨峡』が名作映画であることは疑えないが、『浪華悲歌』や『祇園の姉妹』に比べると普通の映画という印象は否めない。堅い女からあばずれ女へと変貌する山路ふみ子の名演にもかかわらず、とりわけ『浪華悲歌』に見られた山田五十鈴の暴風のような存在感からは後退している。山路ふみ子は50円の出産費用を置いて自分の許から去った男を決して許そうとしないのだが、それは人情としてよく理解できる。

◇『愛怨峡』から見ると、『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』がセットで語られる理由も見えてくる。しかし既に述べたように、この二作の主題は異なる。『浪華悲歌』のアヤ子は行動する女であると述べたが、彼女は決断する女でもある。その理由が映画を通じて明らかにされていないにしても、この映画をみる者はその理由を与えることができる。従って溝口はなぜ『祇園の姉妹』のようないわば図式的な映画をつくったのかという謎は依然として残る。『浪華悲歌』のフィルムは18分ほどが失われているようだと前に述べたが、『祇園の姉妹』の方もおもちゃが円タクから突き落とされるシーンが検閲でカットされたほかに、合計23分ほどが失われているようだ。しかし、その部分が発見されれば解けるという謎でもなさそうだ。むしろ溝口がつくった『都会交響楽』(昭和4年)などの傾向映画との関連で考えられるべきテーマであるように思われる。

◇ともかく、かなり複雑な背景を持っていると思われるこの微妙な映画においてさえ、山田五十鈴の存在感は突出している。五十鈴の特異性は思わぬところで映画を溢れ出す。さっきストーリーの展開からはみ出していると述べた五十鈴の最後の台詞が語られる前のところで、付き添いの梅村蓉子が涙を流す場面がある。梅村は店が潰れて無一文になった元の旦那志賀廼家弁慶と一緒に暮していたのだが、志賀廼家は梅村に黙って女房の実家へ去ってしまう。それで梅村は泣いていたのだが、それに気付いた病床の五十鈴は不思議そうに訊く。「なんやね、姉さん。そんな不景気なもん目から出して。どうしたん。ええ? どうしたんやな」。梅村から事情を聞いた五十鈴はいう。「そんなこっちゃ。みとうみ。なんぼ実を尽くしても・・・」云々。この「不景気」以下の皮肉な調子は、それに続けて語られる五十鈴の最後の台詞とは噛み合わない。だが溝口はそれでよしとしたようだ。五十鈴の場違いな皮肉さはこの映画に向けられているようにも聞こえる。つまり、考え方やイデオロギーが問題なのではなく、世界へと向き直ることこそ問われていることなのだと。


2006/12/22 溝口健二『浪華悲歌』(2)

◇最近、佐藤忠男が書いた『溝口健二の世界』(平凡社ライブラリー)という本を読んだ。教えられることがたくさんあったし、溝口映画をみてゆく上での基本文献と思われた。とりわけ次のくだりを読んだときは、かつて田中絹代が佐藤忠男を評していったという「優秀な批評家」の意味が分かった気がした。「ポーズを発見するということは、芸術にとっては、その中味を発見するということにほかならない。なぜなら、芸術というものは精神の型の不断の発見と創造にほかならないからである」(P.176-177)。

◇これは恐らく演出と演技の基本にある考え方なのだろうが、ポーズを発見したといえるような映画はそうあるものではない。日本映画が「発見」した代表的なポーズとしては、『二十四の瞳』の高峰秀子が教え子たちに取り囲まれるポーズ(合計3回ぐらい出てくる)、『東京物語』の原節子が笠智衆の義父の前で顔を覆って泣くポーズ、『野良犬』の刑事三船敏郎が手錠をかけた犯人木村功の号泣を凝視するポーズ、『稲妻』の三浦光子が訪ねてきた亡夫の愛人を前にして一瞬妹の高峰秀子を見遣るポーズ、などが挙げられそうだ。ここに挙げた映画は名作ばかりだから、感動的なポーズを挙げて行ったらそれこそきりがない。

◇ところでポーズとは何だろうか? 少し存在論めいたいい方をすると、それはある人物あるいは人物たちの特異性(singularité, uniqueness)がそこにおいて現われるところの姿かたちといえるだろう。つまり、その人物または人物たちが誰(who)であるかがそこにおいて現われるところの姿かたちである。それゆえそれは月並みで凡庸な姿かたちではありえない。それは「不断の発見と創造」によって世界にもたらされる。ところでポーズといえば差し当たりは視覚の対象であるわけだが、彼、彼女が誰であるかは声や語りを通しても現われる。つまり、知覚対象として見た場合、ポーズは音声的な姿かたちをともなう。というか、彼、彼女が誰であるかは、個々の知覚を超えた綜合的な構成によって世界にもたらされるといった方が正確だろう。

◇とりわけ映画においては登場人物たちが語ること、つまり台詞が決定的な意味を持つ。いやむしろ映画の出来具合は台詞にかかっているともいえる。だから上に挙げた4つの映画は名ポーズ映画であるとともに名台詞映画でもある。では『浪華悲歌』はどうなのかといえば、これも独創的な台詞に満ちている。前回挙げた山田五十鈴によって最後の場面で語られる台詞は映画史上の名台詞であるが、『浪華悲歌』はその圧倒的なフィナーレに向かって台詞が語られ、積み上げられてゆく映画であるともいえる。

◇この映画は、題名、スタッフ、キャストを紹介するタイトルとそのバックに流れる30年代デューク・エリントン風の享楽的な音楽で始まる。物語冒頭の道頓堀のショットを挟んで、場面は山田五十鈴が電話交換手として勤務する麻居(あさい)製薬がある建物とその内部へと移る。そこで女中たちに向かって威張り散らす麻居製薬の主人志賀廼家弁慶の横柄で滑稽な人柄が知らされる。女中たちに威張る志賀廼家は夫人の梅村蓉子には頭が上がらない。彼は老舗麻居製薬の当主ではあるが実は婿養子なのだ。

◇そういうことを知らせる会話がなされたあと、梅村が住まいから事務所へと歩いて入って行く。そこでわれわれは麻居製薬のある建物が住まいと事務所から成っていることを知る。電話交換手山田五十鈴と彼女の恋人原健作もその事務所で働いている。原が梅村から何か(芝居の切符なのだが)をもらったのを見て、五十鈴が原に電話をかける。「あんた、いま奥さんに何もらいはった」、「いえ、それは」、「はっきりいうたらええやないの」、「ご心配には及びません」、「ところがこちらはご心配に及び過ぎますのやわ」、云々。

◇場面は株屋の進藤栄太郎が通されている応接室に変わる。そこへ山田五十鈴がお茶を運んでくる。それで彼女が麻居製薬の電話交換手であるとともにお茶汲み(給仕)でもあることが知らされる。進藤は五十鈴に気があるらしい。その進藤が五十鈴を口説いているところに志賀廼家が入ってくる。「うちの箱入り娘を誘惑したらどうもならんな」、「あのこ、ほんまにええこやなあ」、「ええこやろ」、・・・「ハハハハ」、等々。

◇進藤が4千5百円の小切手を受け取って帰ったあと、志賀廼家がブザーで五十鈴を呼ぶ。「あのなあ、この間の話なあ、あれ考えておいてくれたか」、「金が要ったらなんぼうでも出すで」、「そないに固うならんでもええがな」、「わしなあ、ええアバ(ハ+濁点)ート見つけてあるね」、「わしなあ、ほんまにさむしいんのやで」、「ほんまや、ほんまやで」。しかし五十鈴は「いけませんわ」云々といって逃げる。

◇そのあと五十鈴は恋人の原健作に電話をしていう。「話したいことあるよってになあ、帰りに高麗橋の停留所で待っててくれんか。ええ、ええなあ」。場面は五十鈴と原が並んで歩く港沿いの道に変わる。五十鈴の父親(竹川誠一)が会社の金を使い込んでしまったため、それを埋める300円の工面を原に相談する五十鈴。「あの金がなかったら、うちのお父さんの手が後ろにまわるぐらいのもんや」。しかし原の態度は煮え切らない。それで五十鈴は「奥さんと芝居見に行く方がええんやろ」と告げて去る。

◇以上が『浪華悲歌』の物語導入部の概略である。主要な登場人物のキャラクターはそこでほぼ描き尽くされているといえる。男たちには滑稽、好色、自己中心的、卑怯、意気地なしといった性格が与えられるのに対して、女たちには強い性格が与えられる。五十鈴は志賀廼家と進藤には控え目な女(「箱入り娘」)を演じているが、恋人に対しては実に強い。梅村も婿養子の志賀廼家に対してだけでなく、医師の田村邦男に対しても居丈高なほどだ。しかし梅村の強さが大家の娘であり夫人であることからきているのに対して、五十鈴のそれが「個」の強さ(それは不良性として顕在化してゆく)であることも以上の導入部でほぼ理解される。

◇この映画は登場人物たちの特異性を極限的なまでに追求した映画であるといえる。人間の特異性は世界においてのみ現われる。それは映画においてはポーズ、表情、台詞において現われる。この映画の後半、五十鈴が住む「なにわパンション」の部屋で恋人の原健作と話をする場面があるが、そこで五十鈴は鏡台を前にして次のようにいう。「あて、このままでいたらどこまで悪うなっていくか分かれへん。それを思うと、あて、自分が可哀相で、可哀相で」。しかし自分の保身で頭がいっぱいの恋人は、窮境にある五十鈴に手を差し伸べようとしない。この五十鈴の告白と、それに対してなにも応えることができない恋人の卑怯で意気地のない本性が暴露されたところから、映画は最後の場面に向かってほとんど一気に走って行く。

◇話は前後するが、五十鈴は導入部における原の煮え切らない態度に嫌気して、父親を救う300円を得るために志賀廼家の囲われ者となることを受け容れる。自分が勤める会社のボスから妾になることを求められるというシチュエーションは、小津の『朗かに歩め』(昭和5年)や『非常線の女』(昭和8年)のヴァリエーションなのかもしれない。しかし小津映画の女主人公たちはそれを拒む。そこが「保守的」で「小市民的」な小津らしいところといえばいえるのだが、この映画の五十鈴は自らの意思でそれを受容する。妾になった五十鈴は髷(高島田?)を結うのだが、それによって五十鈴は見違えるほど美しくかつ色っぽくなる。

◇小津が溝口を賞賛するのは、恐らくその分岐においてであろう。小津が「後退」するところで溝口は「前進」する。小津が世界を優先するところで、溝口は人間の特異なあり方を優先する。小津は家の崩壊を「嘆く」が、溝口は「個」が特異な存在となることをむしろ「喜ぶ」。しかし、溝口が人間の特異性を優先することで世界から後退しているのでは決してない。世界と人間の特異性とは相互に根拠をなすような関係にある。ここで五十鈴が体現している「個」は「自我」や「自意識」へと引きこもるのではなく、むしろ世界へと向きを変える。この映画における五十鈴の比類のない輝きはそういうところからきているように思われる。


2006/12/14 溝口健二『浪華悲歌』

◇溝口健二の『浪華悲歌』をDVDでみた。浪華とは浪速または浪花のことで、悲歌はエレジーと読む。昭和11年5月28日に公開された比較的初期のトーキー映画で、原作は溝口健二自身による。脚本は依田義賢、撮影は三木稔で、佐藤忠男によると音楽はただ音楽部とされている。恐らく第一映画の音楽部のことだろう。主演は19歳の山田五十鈴で、助演者として梅村蓉子、原健作、志賀廼家(しがのや)弁慶、進藤栄太郎、田村邦男、竹川誠一、大倉千代子、浅香新八郎、志村喬などが出演している。

◇結論からいえば、これは世界映画史に燦然と輝く大傑作であるといわなければならない。これに比べたら当方が先にみた『雨月物語』(昭和28年)と『西鶴一代女』(昭和27年)は、テンションの高さは普通ではないとしても、全体として見ればまあ普通の映画という感じがする。では何が違うのかといえば、まず主演者が違う。既に述べたように『浪華悲歌』の主演者は19歳の山田五十鈴である。それに対して『雨月物語』と『西鶴一代女』の主演者は40歳を過ぎた田中絹代である。若ければいいというものではもちろんないが、『浪華悲歌』における山田五十鈴の存在感はとうてい普通とはいえない。

◇この映画をみる者に山田五十鈴の存在感が決定的に刻み込まれるのは最後の場面だろう。山田五十鈴は助平な株屋(進藤栄太郎)からカネをまき上げたとして警察に逮捕されたあと、父親と一緒にいったん家へ帰るのだが、兄、妹、父の自己中心的な態度に我慢がならず家を出る。そのあと道頓堀と思われる川に架る橋(戎橋?)に佇む五十鈴に知り合いの中年医師(田村邦男)が声を掛ける。それに答えて五十鈴は次のようにいう。「野良犬や」、「どないしたらええか分からへんねん」、「フフフフ、まあ病気やわな。不良少女ちゅう、立派な病気やわ」、「なあ、お医者はん、こないになったおなごは、どないして治さはんねん」と。

◇それに対する医師の返事、「さあ、そらあぼくにも分からんわ」を聞いたあと、五十鈴は昂然と頭を上げて橋を渡ってゆく。五十鈴の右から撮られていたショットが正面からのアップに切り替わる。バックにはマーラーか初期のシェーンベルクを思わせる管弦楽が流れる。これが『浪華悲歌』のラスト・シーンなのだが、こんなにもかっこいい映画のエンディングはみたこともないほどだ。場面は夜で五十鈴には救いがないように思われる。しかし五十鈴は意に介さない。やぶれかぶれになっていると見るには恐ろしく冷静だ。だからこの場面に流れる音楽は表現主義がかった後期ロマン派風の音楽以外には考えにくい。

◇溝口健二の映画の特徴としては、ひとによっては強い不快感を与えかねない加虐的なストーリー、エゴイスティックで卑劣極まりない登場人物たち、パンと移動撮影を多用した長まわし、強いテンションを生み出す(超がつくほどの)ロングショット、意表を突くキャメラ・アングル、などが挙げられる。上に挙げた『雨月物語』と『西鶴一代女』にもそうした特徴ははっきり見て取れる。しかしながら、それらに向けられたトリュフォーやゴダールの賞賛にもかかわらず、当方としては感動よりも不快感の方がまさっているように思われた。悲劇は悲劇でいいのだが、カタルシスをもたらさない悲劇は救われない。

◇ところが『浪華悲歌』には強いカタルシスがある。それをつくり出しているのが山田五十鈴の存在感にほかならない。そして彼女を捉えたキャメラがまた素晴らしい。一例を挙げると、会社のカネを使い込んだ父(竹川誠一)と言い争って家を出た山田五十鈴が、あるとき地下鉄のホームで妹(大倉千代子)と出会い、帰省している兄(浅香新八郎)の学費について口論をしたあとのショットだ。地上に出た山田五十鈴は兄の学費の工面をめぐってある決断をしたようなのだが、その彼女をキャメラは超ロー・アングルで捉える。大柄な五十鈴が逆光のなか地上に立ちつくす。あとから振り返ればそれは説話的なショットだったことが分かるのだが、地上に立つ五十鈴を右下方から捉えた構図の異様さは、映画とストーリーを突き破らんばかりだ。

◇ところで山本夏彦は大正文化の特徴として「口語文、自由恋愛、親不孝」の三点を挙げたそうだが、溝口健二による『浪華悲歌』の山田五十鈴にもそれは見て取れる。山本夏彦が念頭に置いていたのは、大正時代に育った昭和の人間たち、例えば林芙美子や平林たい子といったひとびとであったと思われるが、いずれにしても家の崩壊という事態は昭和初期にはっきり現われていたようだ。それにブレーキがかかるのは、戦争の拡大にともなう戦時体制の浸透、敗戦による日本社会全体の混乱、占領軍=ニュー・ディーラー主導による家の制度改革、朝鮮戦争に始まる日本の経済成長とマイホーム主義の台頭などによる。それゆえ、そういう観点からすれば「狂気が国を滅ぼした」(12月8日朝日社説)というような常套句はほとんど意味がない。何故なら家の崩壊にまずブレーキをかけたのが大東亜戦争へと至る昭和の戦争だったのだから。

◇とにかく『浪華悲歌』の山田五十鈴が体現している人間像、というか女性像は驚嘆するほど「新しい」。それが「ボロカス女」林芙美子や「女賊」平林たい子、もっといえば小津の映画『非常線の女』(昭和8年)の若き田中絹代のヴァリエーションであるにしても、やはり「新しい」。奇跡的なまでに「新しい」。

◇ついでにいっておくと、関西を舞台にした小津の『小早川家の秋』(昭和36年)の冒頭のネオンサインのショットは『浪華悲歌』へのオマージュと思われる。『浪華悲歌』は「キャバレー赤玉」のネオンのショットで始まる。いずれも戎橋付近の道頓堀沿いの夜景と思われる。山田五十鈴を起用した小津の『東京暮色』(昭和32年)も『浪華悲歌』が意識されているはずだが、五十鈴の家からの逃走という共通項以外はまだ見えてこない。あるいは『東京暮色』の明子(有馬稲子)は『浪華悲歌』のアヤ子(五十鈴)が踏まえられているのだろうか? そして五十鈴の恋人・原健作の後継者があの田浦正巳なのだろうか?

◇だが、小津がどれほど『浪華悲歌』に賞賛を捧げようと、小津は小津であって溝口ではありえない。小津が原節子という女優と出会うことで誰も真似のできない映画をつくり上げたように、溝口は山田五十鈴という被写体(女優)を得てまったく比類のない映画をつくり出した。とりわけ先に触れたエンディングは何度みても圧倒される。五十鈴が父親の家を飛び出したところから始まる夜の街の騒音、道頓堀川に映る盛り場のネオンサイン、川岸に堆積した黒々としたどぶ泥とゴミ、それに続く(上に紹介した)五十鈴の台詞、次第に高まる初期シェーンベルク風の管弦楽、決然と橋を渡ってゆく五十鈴の突き抜けた表情。これほど完璧なエンディングを撮ることができた溝口は、やはり幸福な映画作家だったのだというほかない。

◇ただし、まことに残念なことに、現在DVDでみることができる『浪華悲歌』は合計18分ほどが失われているようだ。是非とも完全なフィルムを探し出してほしいものだ。


2006/12/07 永井荷風と林芙美子と世界と

◇先日(2006/12/03)、内田樹が自身のホームページ「内田樹の研究室」に「自我の縮小」というテーマで文章を書いていた。今回はそれを読んで思ったことを書いておく。

◇その文章のはじめの方で内田樹は次のように述べている。「「自我の縮小」あるいは「自我の純化」は我々の時代の病である。自己決定、自己責任、自分探し、自分らしさの探求、オレなりのこだわりっつうの?・・・そういった空語に私たちの時代は取り憑かれている。これは市場経済が構造的に追求する消費単位と消費欲望の最小化の自動的帰結である」と。

◇実は当方、内田樹がどういうひとであるのか、本当のところはよく知らない。しかし、このような考え方が内田樹のふたりの師と思われるエマニュエル・レヴィナスとジャック・ラカンからきているのだとしたら、実に興味深い。というのも当方、ラカンについては内田樹についてよりも更に知らず、フロイトの有力な後継者のひとりという程度の知識を持っているにすぎないからだ。しかし、もし上に引いた内田樹の文章に見られるような「自我」についての考えがラカンから出てくるのだとしたら、やはりラカンは読まれなければならない。

◇それはともかく、内田樹が書いている意味での「自我の縮小」「自我の純化」ということは、最近になって露わになってきた現象ではない。たしかに、自己決定、自己責任、自分探し、という言葉は最近の言葉だ。しかしそれらの言葉が含意する考え方は明治の昔からあった。もちろんそういう考え方が広く受け容れられるようになったのは大正に入ってからだろうが。永井荷風や林芙美子はその代表選手といえるだろう。

◇ここで永井荷風や林芙美子を持ち出すからには、「自我の縮小」あるいは「自我の純化」といわれるものが、文人気質において現われたリベラルな気分、個人主義的な気分といったものに読み替えられている。また貴族主義的個人主義者といわれる永井荷風と、ルンペンプロレタリアの「ボロカス女」林芙美子をひと括りにするのも乱暴な話だが、当方の見るところ、このふたりは極めて近いところにいる。

◇荷風は、「親類は法事の外に用なし。子は三界の首枷なり。・・・皆無きに如かず」(『偏奇館漫録』大正10年3月)とか、「余死する時葬式無用なり。死体は普通の自動車に乗せ直に火葬場に送り骨は拾うに及ばず。墓石建立また無用なり」(『断腸亭日乗』昭和11年2月24日)ということを書く人物だが、芙美子も晩年の小説で、男も家族も社会的承認も要らない、というようなことを書くに至る。とりわけ昭和23年に書かれた『晩菊』はそういえる。荷風においても芙美子においても究極の「自立」が目指される。

◇最近になって再び荷風と芙美子に関する本が活発に出版されている背景には、新自由主義の奔流がもたらした福祉国家日本の崩壊・消滅ということが挙げられるはずだ。つまり、もはや国家や社会をあてにすることができない以上、そういうものに頼らない「自立」した生き方をするしかない、というような背景が。もちろん各個人のレベルでいえばそれは「必要」なことではある。しかし考えてもみよう。荷風や芙美子が生きた時代は強大な国家への同一化が要求された時代だった。そこにおける「自立」志向はこんにちとは比べようもないほど切実な意味を持っていた。それは人間的な生か奴隷の生かという問いを意味していた。幸いなことにというべきか、悲しむべきことにというべきか、われわれの時代はそのような時代ではない。

◇もちろんわれわれが荷風や芙美子から学ぶべきことはたくさんあるし、上に述べたようにラカンも読まれなければならない。しかし忘れてはならないことは、国家や社会からの「自立」ということは、もはやわれわれの時代のテーマではありえないということだ。逆なのだ。われわれは新自由主義の風潮や世論といったものから自由にならなければならない。そうでないと「自我の縮小」「自我の純化」というスパイラルから脱け出すことができない。つまり、われわれがそこから「自立」すべき当のものは国家や社会ではなく、むしろ「自我の縮小」や「自我の純化」を促進する現在の形而上学の方なのだ。いまや個人や主体を自明な単位と見なす形而上学から「自立」しなければならない。ジャン=リュック・ナンシーにならっていえば、「個人(-主体)は共同体の崩壊という試練の残滓であるにすぎない」(『無為の共同体』)ことを肝に銘ずることだ。

◇さて内田樹が述べているように、「自我の縮小という病態がストレスを強化」し、「ときには自分を「まるごと」否定することだって辞さない」、つまり「「自我の縮小」「自我の純化」の最終的な形態は論理的には「自殺」ということになる」のだとすれば、「自我」がそこに拠ることで安定的に存立していた当のものを再構築して行くしかない。要するに、内田樹のいうところの「常識」、言い換えれば人間のコモンセンスがそこから生じてくる世界を再び創り出すこと、これである。

◇もう一度いうと、いま問われていることは国家や社会からの「自立」ではない。その逆であって、国家や社会へと再参加・再関与・再抗争・再異議申し立てをして行くこと、要するに国家と社会の現状とその問題点を明確にして全面的にコミットして行くこと、そのことを通じて国家と社会とそれらがそこから生まれてくる世界を建設して行くこと、これである(分かりやすくいえば革命ですね)。荷風や芙美子の「自立」の裏にもそういう志向があった。そうでなければ荷風や芙美子が改めて読まれる理由がないだろう。

◇難しいのはここからなのだが、今回はアウトラインを述べるにとどめる。

◇まず芙美子から行くと、「ハイハイ私は、お芙美さんは、ルンペンプロレタリアで御座候だ。何もない。何も御座無く候だ。」といった調子で書かれた『放浪記』は、労働者やルンプロたちとの連帯の書でもある。例えば新潮文庫版26-27頁にある「青梅街道の入口の飯屋」の話がそれだ。「お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつを交わ(す)・・・どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗かだ」。ここには労働者、ルンプロたちの連帯の神髄がある。芙美子は昭和のプロレタリア作家たちより遥かにプロレタリア庶民の心を知っていたようだ。世界をともに建設することはいつだって「朗か」な活動であり出来事なのだ。

◇次に荷風だが、荷風の場合は芙美子に見られるようなストレートな記述は少ない。『日和下駄』に「貧しい裏町に昔ながらの貧しい渡世をしている年寄」への「同情」「悲哀」「尊敬の念」が記されている程度かもしれない。しかし、小説『つゆのあとさき』や『ぼくとうきだん』などには、日本人の宗教感覚と文芸の伝統を踏まえた「仄か」で「幽か」な世界への志向が読み取れる。いうまでもなく、宗教にせよ文芸にせよ、人間にかかわる事象は世界なしでは存立しえない。荷風にも世界の読み替え=再創造への志がたしかにある。


2006/11/24 成瀬巳喜男『稲妻』(3)
             ーー原作者・林芙美子の影ーー

◇成瀬巳喜男の『稲妻』には原作がある。林芙美子が昭和11年に「文藝」に連載した小説『稲妻』がそれだ。しかし今回は林芙美子の原作について述べてみたいわけではない。原作を踏まえて成瀬巳喜男の映画について考えてみたわけでもない。だいいち小説『稲妻』はいま手に入らない。だから読みたくても読むことができない。とはいえ、林芙美子の原作と成瀬巳喜男の映画の設定の違い、異同については川本三郎の『林芙美子の昭和』(新書館)などを通じて知ることができる。今回はそのことに触れてみる。

◇まず、原作と映画とでは時代背景が違う。原作はそれが書かれた昭和11年頃の話であるのに対して、映画ではそれが制作された昭和27年頃の物語とされる。但し下谷(上野のあたり)が主な舞台となっていることに違いはない。2つ目は、原作では次女の光子と三女の清子については父親が同じとされているのに対して、映画では4人きょうだいの父親がみな違う。3つ目は清子の設定で、原作の電話交換手という職業が映画でははとバスのガイドに変わり、兎唇(みつくち)という原作の設定がなくなっている。高峰秀子なら兎唇づくりも厭わなかったかもしれないが、当時の観客は兎唇の高峰秀子は見たくなかっただろう。

◇林芙美子の原作と成瀬巳喜男の映画との違いは母親の扱かい、あるいは位置づけにも見られるようだが、そうした微妙な違いは原作に当たらないかぎり厳密には理解されえない。従ってここでは上の3点、あるいは4点を挙げるにとどめておこう。そのかぎりでいえることは、映画『稲妻』を通じての原作の解釈には「林芙美子伝説」とでもいうべきものがあちこちに見て取れるということだ。この映画の脚本を書いたのは田中澄江だが、成瀬巳喜男のアイデアも入っているであろうことはまず間違いない。なにしろ成瀬巳喜男という人は、林芙美子原作による映画を6本もつくった映画作家なのだ。

◇当方は林芙美子の伝記的事実に明るいわけではないのだが、原作の4人きょうだいの父親が3人から4人に変わったのは、母親のキクが父親の違う4人の子供を産んだということが踏まえられているように思われる。このことは映画では「お父っつぁんがみんな違うなんて、こんなきょうだいも珍しいわね」という次女光子(三浦光子)の台詞で語られるのだが、林芙美子自身は母親キクとテキ屋の沢井喜三郎を義父として育ったから、自分のほかに父親の違う3人のきょうだいがいることはほとんど意識しなかったように思われる。従って、この設定の変更には原作者を離れた「林芙美子伝説」が投影されていると考えられる。

◇三女清子の職業が電話交換手からはとバスのガイドに変わっていることは上に述べた通りだが、これはむしろ高峰秀子主演の成瀬映画『秀子の車掌さん』(昭和16年)が踏まえられているのだろう。あるいは昭和27年においては、自立志向の強い清子の職業として電話交換手というのはそれほど適切とは考えられなかったのかもしれない。電話交換手といえば、どん底時代からの林芙美子の友人であった平林たい子が故郷の諏訪から東京に出てきて就いた仕事である。平林たい子は勤務中に堺利彦に電話をかけたとしてその仕事をくびになるのだが、いずれにしても林芙美子にとっての清子というキャラクターには、当時の典型的なプロレタリア女であった平林たい子がモデルとして想定されていたことは大いに考えられる。

◇ちなみに関川夏央が書いた『女流・林芙美子と有吉佐和子』(集英社)という本によると、関東大震災前後の平林たい子は確信的な「女賊」であったようだ。電話交換手をくびになった彼女は、その後「「リャク」に精を出した。「リャク」は「財産は略奪なり」(プルードン)という言葉からきていた。銀行や一流の会社に押しかけて金にする「立派なゆすり商売」(平林たい子)であった。仲間に朴烈、金子文子がいた」(同上P.21)。彼女たちのグループの中心人物はアナーキストの大杉栄だったようだが、よく知られているように、彼は関東大震災直後の混乱のなかで憲兵大尉・甘粕正彦によって愛人の伊藤野枝とともに殺される。また川本三郎によると、大杉栄は駈け出しの女流詩人時代の林芙美子のアイドルでもあった。

◇このようにいうからといって、三女清子にアナーキストの面影が見られるということではない。しかし清子の自立志向が成瀬の映画においては下町からの脱出、即ち山の手への遁走として現われることに少なからぬ違和感を持っていた当方としては、そのモデルがルンペン・プロレタリアならぬプロレタリアの平林たい子であったとすれば納得がゆく。清子は貧しい行商人の母とテキ屋の義父のもとで育ったルンプロ・ガール林芙美子とは少し違うキャラクターなのだということが分かればそれでよい。では成瀬の映画『稲妻』においては原作者は消え去っているのかといえば、そうではない。原作者にいちばん近いキャラクターはやはり清子なのだが、虚構性の高い原作の『稲妻』は自伝的色彩の強い『放浪記』とは違うということだ。

◇恐らく小説『稲妻』においては、林芙美子の伝記的事実は彼女自身については記述の手前へ溶け込んでいると見るべきなのだ。しかし清子の人物設定に平林たい子が投影されていると考えられるように、清子の母おせいには林芙美子の母キクが重ねられていることは間違いない。とりわけ成瀬の映画においては父親の違う4人の子供をなしたという風に敢えて原作を改変していることからもそれは明らかだ。ただし映画のおせい(浦辺粂子)には行商人のようなところはない。映画において行商人的=テキ屋的性格を付与されているのは長女縫子(村田知英子)の夫・龍三(植村謙二郎)であろう。映画の龍三には、関川夏央が義父沢井喜三郎について「飽きっぽくて根気がない・・・失敗しては出直そうとする」と書いていることが(同上P.58)ほぼ当てはまる。しかも映画のおせいと龍三には、母親と娘婿の間柄を超えるものが示唆されている。

◇成瀬の映画『稲妻』に以上のような「林芙美子伝説」が認められるにしても、それは田中澄江や成瀬巳喜男が意図したことであったとは思えない。それを「伝説」と呼ぶのは、そこに制作者たちの意図を超える何かが認められるからだ。林芙美子については平林たい子の『林芙美子』(講談社文芸文庫)以下の優れた評伝が書かれているほかに、菊田一夫作・森光子主演の芸術座版『放浪記』や、井上ひさしの戯曲『太鼓たたいて笛ふいて』のような創作的伝記あるいは伝記的創作まで存在する。それこそ林芙美子が「大衆社会というものが登場して来た時の最初のスターだった」(川本三郎)ことの証しにほかならないのだが、書かれたものより存在そのものが注目されるという意味では恐ろしく特異な作家であったと考えられる。


2006/10/23 成瀬巳喜男『稲妻』(2)

◇前回は成瀬巳喜男の『稲妻』に見られる視点の複数性について述べたが、今回は『稲妻』の画面上に捉えられた風景について考えてみたい。昭和27年公開のこの映画に出てくる東京の風景を順に見て行くと、はとバス(バスガイド高峰秀子が乗っている)から見た昼間の銀座通り、下谷(台東区)あたりの横丁商店街(三浦光子の小さな洋品店兼住居がある)、矢の倉河岸、はとバスから見た両国橋、渋谷円山町(小沢栄太郎の経営する旅館がある)、都電から見た永代通り、新田橋(橋のたもとに中北千枝子が間借りする二階家がある)、深川不動、駒場東大前、世田谷の住宅地(下谷の家を出た高峰秀子が間借りする)、ニコライ堂が見える神田の商店街(三浦光子が出店する喫茶店がある)、などが挙げられる。

◇矢の倉河岸は、柳橋を舞台にした『流れる』(昭和31年)でも高峰秀子が仲谷昇と歩くところだから、成瀬巳喜男が好きな場所だったのだろう。柳橋は『稲妻』でも両国橋から見た大川の向うに見える(数秒だが)。また、駒場東大前は前年(昭和26年)に公開された原節子主演の『めし』の反復とも考えられる。しかし、『稲妻』に見られる風景の際立った美しさは、ひとびとの暮らしとともにある東京下町の風景に尽きると言っても過言ではない。『稲妻』が作られた昭和27年当時の世田谷は住宅地としての景観がようやくできつつあったところだろう。それゆえ、この映画に見られる世田谷にはひとびとの生活の歴史というものがあまり感じられない。バスガイド高峰秀子の言う「歌、物語、伝説や四季の眺めで知られる隅田川」とは違うのだ。

◇ついでに『稲妻』に使われている音に少し触れておこう。まず音楽から行くと、ずるずるべったりでだらしがない家族からの清子の脱出願望を表わすノクターン風の主題曲。それに、亡夫の保険金に群がるひとびとに対する光子の怯えを表わす不気味な音楽。登場人物の心理を表わす重要な説話的挿入曲はこの2つに尽きると言える。あとは、ラジオから聴こえる音楽とか、はとバス車内に流れる音楽と考えて構わないだろう。この映画ではむしろ、「鋏、包丁、剃刀研ぎ」、「こうもり傘の直し」などの掛け声、隅田川に浮かぶポンポン蒸気の音、豆腐売りの喇叭、スクーターのエンジン音、猫の泣き声、団扇の音、太鼓の音、といった物語の背景をなす生活音が効果的に使われていて、それがまた『稲妻』の風景を構成する。

◇ところで佐藤忠男はこの映画を次のように要約している。「子どもたちの愚行のすべてを抱擁するなつかしい母親のそばで、肉親相互がずるずるべったりにもたれかかりあいながら暮らしているこの一家の生活が、伝統的な庶民の家族主義の否定面を誇張するかたちで下町の裏通りに設定され、そこからの脱出の願望が、個人主義というもののよさが、理想的に実現しているユートピアのように描かれた世田谷の住宅街に託される」と(『映画の中の東京』平凡社ライブラリーP.67)。佐藤忠男によるこの要約はかなり正確と言える。高峰秀子が演ずる清子を主人公とする物語はその線に沿って進行する。しかし、『稲妻』の画面をみるかぎりでは世田谷ではなくむしろ下町の風景をユートピア的に描いているように見える。

◇これはどういうことなのだろうか? あるいは、これは何を意味しているのだろうか? 上に引いた佐藤忠男の文章からも読み取れるように、この映画には「すべてを抱擁する懐かしい下町」対「個人主義的ユートピアに見立てられた山の手」という構図が見られる。高峰秀子の清子が移り住む世田谷の住宅地がユートピア的に見えるのは、清子が間借りする家の家主(寡婦と思われる)である滝花久子と、隣家に住む根上淳、香川京子の兄妹が上品で控えめで善良な人たちとして描かれていることによっている。また清子の部屋へやってきた姉の三浦光子には「緑の色が違うみたいね、町ん中と」「こういうところで一日でいいから暮らしてみたい」と言わせている。佐藤忠男の言い方を借りればこちらにも「誇張」があるのだ。

◇高見順は高峰秀子との対談で『稲妻』における山の手(世田谷)の描き方を「甘い」と言い、高峰も「同感です」と述べているが、それはこの映画の山の手の描写に厚みとリアリティーが欠けているからだ。言い換えれば、この映画では山の手を薄っぺらなユートピアとして描いているからだ。滝花久子が孤独な寡婦であり(そう思われる)、根上淳と香川京子の兄妹に両親がいないのは、そのことをいっそう強調しているように思える。山の手に住む彼らはそこそこの資産を持っているにせよ、基本的には孤独なひとびと、または根なし草なのだ。彼らの礼儀正しさはそうした彼らのあり方によっている。だからこの映画の山の手の描写が「甘い」のではない。ここでは山の手がそういう風に描かれているということなのだ。

◇つまり『稲妻』に見られる風景描写の濃淡は、物語が向いている方向とはちょうど逆向きになっている。山の手のユートピア性が強調されるほど、その空疎さが浮彫りにされる。逆に下町に住む家族とその関係者たちが演ずる「凄惨さ」(蓮實重彦)にもかかわらず、懐かしい下町の風景はそれをみるわれわれをもを包み込む。こう言うからといって成瀬巳喜男が下町中心主義者であるということが言いたいのではない。下町は空襲によって壊滅的なダメージを受けたし、そこに残っていたであろう共同社会としての町も、昭和27年頃においては消え去ろうとしていた可能性が高い。成瀬巳喜男はその後姿をこの映画に定着させたのだと思われる。この映画にはわれわれを魅了してやまない下町の輝きがたしかにある。

◇しかし『稲妻』に見られる下町風景とは何なのだろうか? それは下町を描いた小津安二郎の映画(『東京の宿』、『長屋紳士録』、『風の中の牝鶏』、『東京物語』など)に見られる風景とは違うのだろうか? 程度の問題かもしれないが、小津が捉えた下町風景は様式化された風景に見えるということがあると思う。小津の関心は風景(や場所や空間)よりも人物の方に置かれる。あるいは人物と風景(背景)とは別々に描かれる。ところが成瀬の場合は、風景と人物は地と図のような関係ではなく不即不離のものとして描かれる。つまり小津の風景より成瀬の風景の方が本来の風景に近い。言い換えれば、成瀬の風景はひとびとが創造する世界に近い。ここにわれわれを動かす成瀬映画の秘密のひとつがあるのだと思う。(続く)


2006/10/16 成瀬巳喜男『稲妻』(1)

◇成瀬巳喜男の映画は「女性映画」として語られることが多い。まとまった成瀬映画論を書いている阿部嘉昭にいたっては、成瀬映画の特質そのものを「女性性」と名付けている(『成瀬巳喜男 映画の女性性』河出書房新社)。しかし物語化を拒む映画の脱中心的なあり方を女性性と名付けることにどれほどの意味があるだろうか? 小津安二郎の映画だってひとつの物語へと要約してしまうことは容易ではない。しかしながら小津の映画を女性的な映画と呼ぶことはあまり適切とは思えない。

◇しかしそうは言っても、女性を描いていることを成瀬映画の特長として挙げることに異論があるわけではない。ここで取り上げる『稲妻』(1952)にしても、主人公を演ずる高峰秀子(三女小森清子)以下、三浦光子(次女光子)、村田知英子(長女縫子)、浦辺粂子(母)、中北千枝子(次女の夫の妾)、杉丘毬子(下宿人・桂)、滝花久子(世田谷の下宿のおばさん)、香川京子(国宗つぼみ)のそれぞれに重要な役が与えられる。前回『娘・妻・母』について述べた時にも触れたように、とりわけ三浦光子が演ずるキャラクターは決定的と言わなければならない。彼女が「対決」する亡夫の妾・中北千枝子についても同じことが言える。

◇更に言っておくと、高峰秀子によって「お母ちゃんがずるずるべったりだから」と批判される浦辺粂子にしても、日本の母親のひとつの典型を見事に演じている。佐藤忠男は『稲妻』における浦辺粂子の演技を「畢生の名演」と評しているが、そうまで言われると、ひとつの典型と言うより日本の母親の理想像をつくり上げているとさえ言いたくなる。高峰秀子が「お縫姉ちゃんみたいなのもきょうだいかと思うと、いやんなっちゃう」と言う長女縫子を演ずる村田知英子の演技も「畢生の名演」と言えるかもしれない。村田知英子のいやな欲惚け女ぶりを前にすると、下卑た中年男を演ずる小沢栄太郎でさえ可愛らしく見えるほどだ。

◇しかし筆者の見るところ、『稲妻』が成瀬巳喜男の代表作たりえている所以は、女たちに劣らず男たちの人物造型が優れている点にある。この映画における男の主要登場人物は、植村謙二郎(縫子の夫・龍三)、丸山修(清子の兄・嘉助)、小沢栄太郎(両国のパン屋・後藤綱吉)、根上淳(国宗つぼみの兄)の4人であって、たしかに頭数は少ないのだが、それぞれがこの映画をみる者に強烈な印象を与える。とりわけ高峰秀子の義兄を演ずる植村謙二郎が素晴らしい。高峰秀子に向かって言う「清ちゃん、すまないけどお酒があったらコップに一杯」とか、亡夫の保険金を受け取る三浦光子に向かって言う「親類は相身互いだからね」などはこの映画のキーをなしており、それらの台詞を発する時の植村謙二郎の表情と佇まいは絶品と言える。

◇たしかにこの映画に中心的な視点を提供しているのは主人公の小森清子を演ずる高峰秀子であって、酒飲みで「言うことばかり大きい」植村謙二郎に対して彼女は批判的なのだが、それは商才だけは長けている下卑た中年男・小沢栄太郎に対するどうしようもない嫌悪感とは違う。南方ボケと称して(「おれの体んなかには鉄砲弾が42も入ってるんだぜ」と称している)仕事にも就かずにぶらぶらしている兄・丸山修に向けられる視線とも違う。この丸山修に向けられる視線との微妙な差異、及び姉の夫即ち「他人」であるという距離感がこの映画における植村謙二郎のユニークな位置を構成しているとも言える。

◇もちろん成瀬巳喜男は植村謙二郎が演ずる人物像を主人公清子の視点からのみ構成しているわけではない。もしそうなら植村謙二郎も丸山修も、無能でぐうたらでずるずるべったりということで終わってしまう。成瀬はこの映画のはじめの方で三浦光子に「(清ちゃんは)男嫌いって方よ、むしろ」と言わせている。この映画に出てくるもうひとりの男の登場人物は、清子がバスガイドを務めるはとバスの運転手役の高品格であるが、彼が笑いながら清子に向かって言う「なんだい、恋人もないくせに」という台詞は、三浦光子の清子評を裏付けている。兄・丸山修との冗談めいたきょうだい喧嘩のやりとりも同様だ。

◇筆者の見るところでは、こうした視点の複数性ということが『稲妻』を比類のない傑作たらしめているのだが、それは清子の「男嫌い」の主要な要因と思われる酒飲みということで、植村謙二郎の存在を際立たせる点にも現われている。『稲妻』のなかで植村謙二郎が酒を飲む場面は3回出てくる。しかしこの映画をみる者に植村謙二郎が決定的な印象を与えるのは、ぐでんぐでんに酔っ払って渋谷円山町に現われる場面だろう。酔っ払った植村謙二郎は円山町の温泉旅館で妻の村田知英子と派手な喧嘩をやるのだが、それは必ずしも無残な印象を残さない。むしろ、小津安二郎の『東京物語』や『秋刀魚の味』における東野英治郎の酔っ払いぶりに通ずる悲哀感ただよう苦笑を残す、と言った方が当たっているだろう。

◇円山町の旅館における夫婦喧嘩に続くのが、下町の浦辺粂子の家における植村謙二郎と小沢栄太郎の乱闘なのだが、これはスチール写真などでも知られる有名な場面だからここでは触れない。とにかく、淡々と展開しているかに見える『稲妻』は、実は終始アレグロで進行しているのだ。だからこの映画が87分で、『流れる』(1956)より30分も短いことが信じ難く思われる。弛みのないテンポと圧倒的な情報量のせいだ。その決定的な要因が視点の複数性(plurality)にあることは既に述べた通りだ。成瀬映画の高峰秀子に代表されるハイスピードの表情変化や目線の芸については、上に挙げた阿部嘉昭『成瀬巳喜男 映画の女性性』や平能哲也編・著『成瀬巳喜男を観る』(ワイズ出版)などを参照されたい。高峰秀子の演技について言っても、『稲妻』は彼女のベスト(「畢生の名演」?)と言えるだろう。若くて美しいし。

◇『稲妻』に見られる視点の複数性は、成瀬好みの下町庶民群像を見事に映画に定着させる結果をもたらした。もちろんそれは植村謙二郎や丸山修、更には高品格たちの視点を繰り入れることによってもたらされたわけだが。では村田知英子と小沢栄太郎は「敵役」として「排除」されているのかと言えば、そうではないだろう。たしかに彼らに感情移入することは難しいが、この映画の開かれたエンディングは、ふつうのひとびとたるわれわれに向かって世界を形成するのはあなたたちであると語りかけているようだ。映画も開かれていれば世界も開かれている。成瀬映画の神髄はそういうところにあると思われる。

◇ついでに簡単に触れておくと、『稲妻』には昭和27年当時の東京の風景が実に美しく捉えられている。上に挙げた渋谷円山町もそうだろうし、高峰秀子と三浦光子が都電に乗って行く永代通り、中北千枝子が間借りしている家の脇にある人がすれ違える程度の狭いアーチ状の新田橋、背後に高架橋のない深川不動など、なんとも懐かしい。実際に知っているわけではないのだが、やっぱり懐かしい。更に言うと、そうした東京の風景にぴったりはまっているのは高峰秀子よりはむしろ三浦光子の方だ。(続く)


2006/09/08 名台詞映画『娘・妻・母』

◇成瀬巳喜男の映画『娘・妻・母』について、『映画読本・成瀬巳喜男』(フィルムアート社)は次のように書いている。「東宝の第一線の女優たちを一同に集めた女性映画豪華版の狙い(大物では司葉子を欠くが)。・・・・主題は"家"の解体で(事実この家は人手に渡る)、その象徴として母の老後の処遇に集約される。しかし、その主題の明晰は成瀬世界の陰翳と必ずしも共鳴せず、いささか底が浅いものとなり、一方で挿話の総花的逸脱の過剰が、豊饒より散漫に流れる結果をもたらしている。とはいえ、人気女優の顔見せ映画として(原と高峰の共演は18年ぶり)興行的には大成功だった」、と(P.148)。

◇このような評価が『娘・妻・母』についての一般的な評価なのかどうかは知らない。そこで「成瀬世界の陰翳」と言われているものが、どういうものなのかもよくは分からない。しかし、「成瀬世界の陰翳」はこの映画にも刻まれているのではないか。成瀬巳喜男という人は生涯に89本もの映画をつくった作家でもある。それゆえ、そのひとつひとつに固有の「成瀬世界」を見ることもできるのではないか。

◇『映画読本・成瀬巳喜男』の解説筆者(田中眞澄と思われる)によれば、『娘・妻・母』の主題は「"家"の解体」ということだそうだが、それは小津安二郎の中心的な主題でもあった。であれば成瀬がそのことを意識していなかったはずがない。それはこの映画の主演者として原節子を起用したことにもはっきり見てとることができるのではないか。この映画では原節子に早苗という役名が与えられているが、役名には大した意味はないと思われる。しかし、成瀬が小津安二郎の紀子3部作(『晩春』、『麦秋』、『東京物語』)を意識していたに違いないことは、『娘・妻・母』のなかのいくつかのエピソードに見ることができる。

◇まずは、再婚に消極的だった長女役の原節子が、彼女との再婚を希望している初老のやもめ男(上原謙)が「よかったらお母さんも一緒に」と言っているということを、母の三益愛子に告げる物語後半のエピソードだ。それに対して三益愛子がどういう返事をするかは映画でははっきりとは分からないのだが、原節子は「一緒に行く」という意思表明をしたと受け取る。しかしあとになって三益愛子は「私やっぱり一緒に行くのやめるよ」と言う。これに対して原節子は「ひどいわお母さん、私をだましたりして」と言うのだが、これは娘を結婚に踏み切らせるせるために父親も再婚すると思わせて娘を嫁がせる『晩春』(1949)の変奏と言える。

◇『映画読本・成瀬巳喜男』にも書かれているように、『娘・妻・母』には家庭の「経済的な問題」が中心に据えられている。1951年公開の小津の『麦秋』では、専務秘書の原節子は嫂の三宅邦子に900円のケーキを買って帰るが、1960年公開のこの映画では、出戻りの原節子は1個80円のショートケーキを6個買って帰る。お金と物の値段の話はこの映画のいたるところに出てくるが、このケーキのエピソードは、明らかに『麦秋』の「安い安い」(三宅邦子)900円のケーキが踏まえられている。

◇また『麦秋』の後半、原節子の結婚をめぐって気まずい家族会議が行なわれるが、この映画でも家族会議が開かれる。『麦秋』の家族会議では、専務秘書兼タイピストとして高収入を得ていた原節子が、嫁入りによって家を去るという「経済的な問題」は隠されている。しかしこのこの映画では「経済的な問題」があからさまに語られる。と同時に「母の老後の処遇」がより深刻なテーマとなる。これは上京してきた老父母の「処遇」をひとつの物語に仕立てた『東京物語』(1953)と直接には重ならないにしても、主題そのものは引き継がれている。

◇以上に述べたことは、『娘・妻・母』を小津安二郎の紀子3部作「余話」としても見ることができるという話なのだが、原節子のキャラクター設定について見れば、『東京物語』の紀子をほぼ継承していると言える。もちろん『娘・妻・母』の早苗は出戻りであって、嫁ぎ先の嫁ではない。『東京物語』の紀子のように東京の安アパートにひとりで暮らす戦争未亡人でもない。早苗は紀子ほど古風な後家ではない。弟(宝田明)の友人の若い男(仲代達矢)とデートを重ねるような、生活を楽しむことのできる「現代娘」でもある(それは紀子の夫が戦地で死んだのに対して、早苗の夫はバスの事故で死んだという以前の家のあり方の違いからきている。それが家族そのものの変容からきているのか、家風の違いにすぎないのかはここでは問わない)。

◇早苗が紀子の継承者と言えるのは、むしろそのディグニティーの質においてなのだ。以前このページで『麦秋』の紀子は「雨降りお月」であると述べたことがある。また、『麦秋』の紀子のアイドルがキャサリン・ヘプバーンだったことにも触れたことがあるが、成瀬巳喜男はこの映画において、原節子が持つキャサリン・ヘプバーン的ディグニティーを引き出そうとしているように見える。これは小津安二郎が踏み込めなかった次元への挑戦でもあるのだが、それをこの映画における原節子の台詞に即して見ておこう。

◇「私もよく知らないのよ」。これは原節子の早苗が仲代達矢とのデートのあと、仲代に家まで送ってもらっているとき、家の近くで出くわした妹の草笛光子から、「どういう人?」と聞かれたことへの原節子の返答である。もちろん原節子はいい加減な出まかせを言っている。「知らない」どころか、原節子は仲代達矢と一緒に立ち寄った弟夫婦(宝田明、淡路恵子)のアパートで、仲代にキスを許してさえいるのだ。しかし草笛光子は原節子を問いつめたりはしない。何故か? それは原節子の返答が人を食っているからだ。あるいは不自然に滑らかだからだ。ふたりの関係について利害関係のない第三者であるかぎり、そういう嘘に対しては普通「嘘でしょ」とは言わない(そのうえ草笛光子はこれから原節子に借金を申し込まなければならない)。

◇「怒った? わたくしお礼を言ってるのよ」。これは原節子が京都のお茶の宗家である上原謙との再婚を決意したあと、仲代達矢との最後のデートのときに、仲代に向かって言う台詞である。若い仲代は友人の姉である美しい原節子に恋しており、彼女との結婚を夢見てさえいたのだから、「これでお別れだから」と言われて言葉を発することもできないでいる。しかし原節子は交通事故で夫に死なれたあと、実家に帰された出戻りである自分に「元気」を与えてくれた仲代に「お礼」を言わずにはいられない。原節子を失った仲代にとっては、それがなんの慰めにもならないことが分かっていても。ついでだが、この仲代との最後のデートのあと、母親の三益愛子の問いに対して原節子は草笛光子に言ったのと同じ種類の出まかせ(「東京タワー登ってきたわ。・・・・きれいね、夜の東京って、赤だの青だのネオンサインがいっぱい」)を繰り返す。

◇原節子が演ずる早苗のディグニティーに関わる台詞は、ほかにも挙げられる。しかしここでは、原節子が嫁ぎ先から帰されたときに受け取った亡夫の生命保険金100万円のうち、50万円を貸して(融資して)くれと頼まれて兄の森雅之に向かって言う「ええ」を挙げておこう。妹の草笛光子から20万円を貸して欲しいと頼まれたときにも、同じ「ええ」を言う。実はこれは1952年の成瀬の映画『稲妻』において三浦光子が置かれていた状況の反復なのだ。『稲妻』の三浦光子は、夫が死んだあと夫の子供を産んで育てている愛人(中北千枝子)の無心を断わることができない。中北も三浦光子が受け取った保険金をあてにしていたのだ。

◇しかし、人から無心されて、あるいは借金を申し込まれて、断わることができない三浦光子や原節子のキャラクター設定がディグニティーと関係があるのか? 多分あるのだ。ディグニティーと無縁な人間には他人のディグニティーも分からない。恐らく人に金を無心する人間にはディグニティーなどないのだが、人格の核心にディグニティーを持っている人間にはそのことが分からない。そこに高貴な人間の高貴さがある。そういう高貴さは生きることへの軽視、あるいは蔑視にも通じている。『稲妻』の三浦光子は生活力のない、頼りない女として描かれているが、受け身ではあっても彼女は姉(村田知英子)の愛人を奪っているのだ。

◇『稲妻』の主演者は高峰秀子なのだが、三浦光子の特異な存在感は高峰秀子を食ってさえいる。成瀬の映画に即して言えば、三浦光子が演じたキャラクターの延長上に位置づけられるのが『娘・妻・母』の原節子なのだ。つまり『娘・妻・母』にも「成瀬世界の陰翳」はたしかにあるのだ。それがいくぶん見えにくくなっているのは、この映画に弁証法のようなものが導入されているせいだろう。母親の三益愛子に向かって「私うまくしゃべれないでしょう」と語る原節子は、『稲妻』の頼りない三浦光子の直系の後継者なのだが、そう語るのが紀子3部作を演じた"女神"の原節子であることで、事態が分かりにくくなっているということかもしれない。

◇しかしそうではないのだ。それではこの映画のエッセンスが見えなくなる。仲代達矢に向かって「怒った? わたくしお礼を言ってるのよ」と語る原節子は、相手の人格の核心にあるであろうディグニティーに向かって語っていると思われる。だがディグニティーなどというものは、人間の社会生活とはあまり関わりがない。キャサリン・ヘプバーンが嫌味をたっぷり持った女のように見えるのはそのためだろう。キャサリン・ヘプバーンの嫌味なディグニティーが、ブルジョワたちに向ける貴族のそれに近いとすれば、成瀬が造型した『娘・妻・母』の原節子のディグニティーはわれわれから見てそれほど遠いものではない。つまり、成瀬はわれわれが持っているはずの"尊厳"に向かってこの映画を差し出してみせたのかもしれないということだ。

◇とにかく『娘・妻・母』には原節子の素晴らしい台詞が随所に見られる。それは『東京物語』の原節子と笠智衆の対話にも匹敵する。しかし『娘・妻・母』にはメロドラマ的なものはほとんど見られない。この映画の基調にある晴朗さは山中貞雄の『丹下左膳餘話・百萬両の壺』(1935)を思わせる。恐らく成瀬は小津と並んで山中貞雄からも多くを学んでいるように思われるが(とりわけ台詞、場面転換の手法、テンポ、映画を貫くトーンの性格など)、それについてはまた改めて考えてみたい。

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