管理人のつぶやき(2)


2003/03/07 (対話-10)

 前回の最後のところで椎名林檎の新作についてちょこっとだけ話しをしたけど、アップはまだかな?
 まだだよ。しかし『加爾基 精液 栗ノ花』のあの導入部は凄いな。実に衝撃的だよ。俺はマーラーの6番(「悲劇的」と呼ばれる交響曲第6番)のフィナーレを思い出したよ。で調べてみたらマーラーがこの曲を書き始めたのがちょうど100年前の1903年のことでな。
 へえ。それはなんか意味があるのかな?
 ありそうだよ。だいたい俺には『加爾基 精液 栗ノ花』は11の楽章からなる声楽入りシンフォニーのように聴こえるよ。音楽だってなんだかベルリンのキャバレー音楽みたいで、しかも相当に「表現主義的」と来てるだろ。となると、どうしたってマーラーやシェーンベルクやワイルの音楽を思い出さないわけには行かないよ。
 ホントかよ。そうすると椎名林檎にはマーラーやシェーンベルクがちょうど100年前に見ていたのと同じようなものが見えているということなのかな?
 そういうこともありうるだろうな。しかしそれよりも、いまの椎名林檎の感性にマーラーやシェーンベルクの音楽がジャスト・フィットするということなんじゃないのかな。あるいは椎名林檎はブレヒトやアイスラーやクシェネックが好きなのかもしれないしな。
 俺は椎名林檎は昔のジャズ・ボーカルが好きなんだと思っていたよ。
 それはそうなんだろうが、それを少しさかのぼればアイスラーやワイルに行きつく可能性が高いし、そうするとシェーンベルクやマーラーの音楽も視野に入って来るだろうからな。しかし俺には椎名林檎はまだよく分からないよ。だから椎名林檎の話は今回はここまでだ。

 次は君の「PPM」のことだけど、前回話題にした「連帯」と「ポップ」のほかに君の言う「デモクラシー」と「革命」の間に混乱が見られるが、それを俺に分かるように説明してくれないか。
 たしかにあれはひどい混乱だな。ちょっと釈明させてもらうと、PPMとピート・シーガーとボブ・ディランの政治的立場と関係が以前はよく分からなかったんだ。
 ピート・シーガーは筋金入りの社会主義者だよね。
 そうだろうと思う。しかしボブ・ディランはそうじゃない(ディランは「筋金入りのエゴイスト」だ)。ではPPMはどうなのかと言うと、その「穏やか」に聴こえる音楽や見かけとはうらはらに、少なくともリーダーのピーター・ヤーローは確信をもった左翼と言って間違いないと思う。
 つまりピート・シーガーと同じということかな?
 そうだろうと思う。もちろん「考え方」と「音楽の志向」が一致しているとはかぎらないわけだが、俺はPPMの音楽の「微温的」に聴こえる部分にだまされていたところがあったと思う。つまりPPMの音楽が「革命的」と言うより「デモクラティック」な音楽に聴こえていたということだ。
 それで最初に「アメリカの草の根民主主義」ということが言われてるわけだね。
 そうだ。しかしだんだん分かって来たことは、PPMがその「音楽の志向」において目指していたものは「デモクラシー」などではなく、まぎれもない「革命」だったらしいということだ。
 それは分かるが、PPMの音楽は「穏やか」で「微温的」なのか?
 そう聴こえていた、ということだよ。「音楽の感触」のことだよ。それは「音楽の作用」とは別のことで、その「作用」においてPPMの音楽は「革命志向」だということだよ。
 なるほど。「優等生的なビートルズ」と「悪そうなローリング・ストーンズ」を比べたら、ストーンズの方が「過激」に聴こえたりするからね。PPMよりディランの方が「革命的」に聴こえるようにね。
 そうだ。しかしそのPPMにおける「ポップ」の意味や「革命志向」ということについては、追ってハンナ・アーレントの『革命について』に触れるところで改めて述べることにするよ。日本ではあまりなじみがないが、「デモクラシー」と「革命」のほかに(と言うか、その「間」に)「Republicanism(共和政・共和主義)」というものがあるだろ。左翼の共和主義はコンミューン主義やソヴィエト主義ととほとんど同じだからな。このことを「発見」したのはアーレントの画期的な功績だと思うが、俺の言う「60年代音楽空間」はこの「Republicanism」を媒介にすることで「見えて」来るはずだよ。
 分かった。楽しみにしているよ。しかしハイデガーの「愛人」のハンナ・アーレントがそこにからんで来ようとは思わなかったよ。


2003/03/03 (対話-9)

A 前回の対話で「次はPPMかな?」なんて言ったのは冗談だったんだけどね。分かるだろうと思って言ってみただけなんだが、まさか本当に「PPM論」をアップしようとはね。驚いたけどなかなか面白かったよ。しかし終りの方の君の記述の強引さには仰天したよ。
B 俺もあんな書き方をするつもりはなかったんだが、時間がなかったのと、あとは記述の勢いに押されたということかな。それでああいうことになってしまったわけだが、しかし強引ではあっても間違ったことはなにも言ってないはずだよ。
A それはそうかも知れないが、あの「連帯」というのはいったいどこから持って来たんだ?
B あれは橋爪大三郎だよ。『幸福のつくりかた』(ポット出版)という本で「連帯」という言葉を使っていてな。社会学ではよく使われるんだそうだ。「共同性」という言い方をすると一次的共同体のそれとの違いを言わなくちゃならないし、60年代音楽の中心は間違いなくアメリカにあったわけだから、歴史的にその形成過程を言う場合には「連帯」(ソリダリテ)の方がいいだろうと思ったんだよ。
A 俺は君の「ユートピア的共同性」という言い方にはちょっと危なっかしいものを感じてはいたんだよ。われわれが知るかぎり一次的共同体なんてものはもうどこにもないが、それにしても「共同性」というのはなんだかアナーキストかファシストが好みそうな言い方だからね。
B それはそれでもいいんだよ。俺が「共同性」という言葉を使う場合はいつだって「自立した個人の共同性」のことを言っているんだが、そこではそれが創り出されて行く動的な過程という側面から言っているわけだから「連帯」という言葉が適切だと考えたわけだよ。だから「ユートピア的共同性」という言葉はこれからも使って行くよ。
A なるほど。「連帯」についてはそれで分かったが、君の言う「60年代的な新しいポップの概念」というものを創り出した功労者がボブ・ディランじゃなくてPPMだというのは一体どういうことだ。
B それは音楽的な話だよ。ボブ・ディランというのは一種のエゴイストで、フォークをブルースを歌うように歌って登場して来たヤツだろ。あれはディラン特有の表現のスタイルで、言ってることだって「別に理解されなきゃされないで構わない」いうような行き方だろ。
A たしかにそうだが、しかしディランはアメリカのフォーク・ソング・ファンにはPPMなんかよりもずっと強く支持されていたんじゃないのか。
B フォーク・ソング・ファンなんかどうだっていいんだよ。だいたいビートルズがアメリカに登場する少し前にアメリカでいちばん売れていたアーチストを君は知ってるのか?
A 誰だろう? プレスリーかな?
B それは50年代の話で、62〜63年について言えばPPMなんだよ。君は嘘だと思うかもしれないが、これは事実だ。ビルボードの63年と64年の年間アルバム・チャートを見れば一発で分かるよ。63年について言えば2位("Peter, Paul And Mary")と3位("Moving")がPPMだ。因みに1位は『ウエスト・サイド・ストーリー』だ。
A 『ウエスト・サイド・ストーリー』か。あれは当時日本の大人たちも買ってたからね。
B だろ? だからPPMが実質1位と2位を独占していたと考えていいんだよ。シングルだって「パフ」(63)と「風に吹かれて」(63)がポップ・チャートの2位になってるんだから、もう断然PPMの天下だったと言って間違いないんだよ。
A へえ、そんなに売れていたのか。知らなかったよ。
B 要するに貧乏人と田舎者を除くアメリカの一般の音楽ファンはみんなPPMが大好きだったんだよ。これを「ポップ」と言わずになにを「ポップ」と言うんだと俺は言いたいよ。要するにニール・セダカやポール・アンカのアメリカン・ポップスよりもPPMの方がずっと広く聴かれていたんだよ。つまり「ポップ」だったんだよ。俺はラジオでかかる頻度の話をしているんじゃないよ。つまりフォーク・ソング・ブームを超えたところで全米の音楽ファンに聴かれていたのがPPMだったんだよ。参ったか。
A いやたしかに参ったよ。
B しかもPPMについて言えば、レコードを広く買ってもらうために音楽のレベルを落とすなんてことはこれっぽっちもしていないわけで(ブラザース・フォーならやりかねないが)、だからデイランよりPPMの方が好きだというフォーク・ソング・ファンだっていくらでもいたはずなんだよ。だいたいディランの1枚目から4枚目までのアルバムなんてまともに聴いちゃいられないよ。
A それがあの「現代のフォーク展」をやったヤツの言うことかね。
B そうだよ。歌詞がユニークで面白くなかったら誰があんなもの買うもんか。それはともかく、PPMの3枚目のアルバム"In The Wind"(63)収録のF"Stewball"、G"All My Trial"、H"Don't Think Twice, It's All Right"を続けて聴いてみればいいんだよ。これだけ「ポップ」で「革命的」な音楽をやっていたのはビートルズ登場以前ではPPMだけだよ。つまりこれは「音楽による連帯への呼びかけ」以外のなにものでもないんだよ。
A たしかに「世界を変えるために一緒に頑張ってみるか」って気になりそうだね。
B だろ? 要するに「ハーモニー・コーラスの威力と浸透力と説得力」というものをPPMぐらい熟知していたアーチストはいなかったんだよ。歌詞に応じたピアノとフォルテの使い分けと反応力だって天才集団にしか出来ないわざだよ。神わざだよ。ソロの力量もポール・マッカートニーやジョン・レノンに負けちゃいなからね。マリー・トラヴァースはポール・マッカートニーと並ぶ60年代を代表する最高の歌手だよ(ダイアナ・ロスもだけど)。
A ポール・ストゥーキーだってジョン・レノンに匹敵するんじゃないか?
B その通りだ。これだけのソロ歌手がいて(俺はピーターだって大好きだよ)しかもハーモニー・コーラスが極上と来てるんだからもう無敵だよ。その上歌ってる内容が「ポップ」で「革命的」と来てるだろ。
A いやよく分かったよ。しかし君としては"See What Tomorrow Brings"ではなく"In The Wind"を取り上げた方がよかったんじゃないか?
B かもな。まずかったかなと思ったのはその点だけだよ。
A まったく話は変わるけど、椎名林檎の新作はどうだった?
B まだちゃんと聴いてないよ。
A そうすると、次回の「J-POPレビュー」は椎名林檎かな?


2003/02/27 (対話-8)

 きのうの『日経』(2/26朝刊)見たかよ。同紙が実施した「社長百人アンケート」によると、インフレ・タ−ゲットについては「三分の二が否定的な意見を持っている」んだそうだ。
 その場合の「社長」というのは、要するにこの前言った「金持ちの年寄り」のことだろ。だったら当然の反応と言うべきなんじゃないのか。金を持ってるやつらにとってはこのデフレは天国だろうからな。ただ持ってるだけでデフレ分の実質利息が付くわけだからな。
 しかし昔の「財界人」というのはもっと「大所高所」から経済というもの(政治や社会についても同じだが)を見ていたんじゃないのか。
 そうかも知れないが、まあ似たり寄ったりだろうよ。ただ昔の「財界人」というのは要するに創業者だからな。悪党もたくさんいたろうし、その分いまの大企業のサラリーマン経営者とは違う「内部指向型人間」(リースマン)だったということは言えるだろうな。
 だから自分たちの「階級利害」というものにずっと敏感で忠実だったと思うんだよ。彼らは確信をもって政治にもコミットしていただろうし、それも長期的なビジョンをもってそうしていたと思うんだよ。いまよりずっと汚いやり方もしていたろうしね。
 それは言えるな。いまの大企業の社長なんて人種は要するに「他人指向型人間」(リースマン)の典型だろうしな。社長や会長をつとめて会社を辞めたらそれで終りだろうからな。だから長期的なビジョンなんか持ちようがないわけで、『日経』や『朝日』に代表されるマスコミの論調に簡単に洗脳されてしまうってことなんだろうな。やつらはもはや「階級」とは言えないからな。
 あと同じ『日経』の三面に「地政学リスク市場揺さぶる」なんて記事が出てるぜ。なんだか国や世界の安全保障より市場の方が大事だと言わんばかりじゃないか。
 要するに大企業のサラリーマン社長と同じで確信というものがなんにもないんだよ。「無」なんだよ。だからとりあえず「市場第一主義」というようなポーズをとってるだけなんだよ。それで自分たちの責任を回避できるとでも思ってるんだろうよ。「失われた10年」が「市場の失敗」と自分たちの責任回避と無作為の結果であることからまだ目をそむけているんだよ。だから「次期日銀総裁に中原伸之を」というような「正論」は絶対に書かないんだよ。最低だよ。今度の対イラク戦をめぐるフランスやドイツの対応にも似たようなものが感じられるぜ。
 ドイツはともかくシラクのフランスは要するにフセイン政権を倒したあとのイラクの石油利権が欲しいだけなんじゃないのか。あるいはアメリカが対イラク戦でエグゾセ・ミサイルでも使ってやったらフランスは一発で豹変するんじゃないのか。
 まあ「世論」があるから簡単じゃないだろうけどな。国際的包囲網と圧倒的な軍事力による威嚇で(つまり戦争抜きで)フセイン政権を倒そうとしているパウエルには度し難い馬鹿に見えるだろうけどな。いずれにせよ今日のテーマについて言えばリースマンの『孤独な群衆』でだいたい説明がつくよ。なかなかいい本だったよ。アメリカの加藤典洋という感じもあったしな(意識的に「他人指向型」にコミットして行こうという姿勢が)。サリンジャーも含めてこの時代(1950年頃)のアメリカは面白いよ。次はフロムを読もうかと思ってるぐらいだよ。
 じゃあ俺も読んでみるかな。言い忘れていたが君の「シュープリームス第2弾」は面白かったよ。しかしホランド=ドジャー=ホランドとシュープリームスは60年代音楽のメインストリームとは言えないからな(生き方の美しさということでは最も60年代的なんだろうが)。だからあれ以上のシュープリームス論の展開は望めないみたいだな。ということは次はPPMかな?


2003/02/24 (対話-7)

 おい、次期日銀総裁はどうやら福井俊彦(元日銀副総裁)に内定したみたいだよ。
 えっ、中原伸之(前日銀審議委員、元東燃社長)じゃないのか。塩川財務大臣がスノー米財務長官に向かって「政府・日銀が一体となってデフレ克服に取り組む」と言ったというのは嘘だったのか。小泉だってこのかんそういう意味のことを言い続けて来たじゃないか。
 やっぱり金持ちと年寄りにはインフレ・ターゲットというのは刺激が強すぎるんじゃないのか。
 しかしこのデフレを放置していたら、いずれ財政危機が(国債暴落⇒通貨下落という経路で)ハイパー・インフレを引き起こすんじゃないのか。そっちの方がずっと怖いはずだろ。
 もちろんさ。しかしやつら(金持ちと年寄り)はケインズ経済学はもちろんいまのマクロ経済学さえまるっきり理解しちゃいねえだろうからな。
 しかしその金持ちと年寄りども(とりわけ経済界の)の存在が政府への圧力になって、結局福井俊彦に内定したということなんだろ? やつらの目先の利益のために日本経済をつぶしてもいいというのか。そんな無責任なことがまかり通っていいのか。
 無責任かどうかはまだ分からないよ。そりゃ俺だって中原伸之に日銀総裁になって欲しいとは思うよ。しかし中原伸之ひとりじゃ決定力を持ちえないわけだろ。
 なるほど。塩爺はともかく少なくとも小泉は馬鹿じゃないだろうからな。中原伸之が日銀総裁になっても他の審議委員にそっぽを向かれちゃ何も出来ないわけだからな。
 ま、そういうことだ。ここはお手並み拝見だよ。それにまだ「内定」だからな。政治家たちに踏ん張ってもらって大逆転してくれること(つまり中原伸之を日銀総裁にすること)を祈るか。


2003/02/21 (対話-6)

 君はデビッド・リースマンというアメリカの社会学者が書いた『孤独な群衆』という本を知っているか。邦訳はみすず書房から出ているが。
 知ってるよ。かなり昔からある本だよね。しかし俺は参考文献として『孤独な群衆』を挙げているような本を読んだ記憶がないな。だから本屋で手にとって見たこともないな。いまではもう誰も読まないんじゃないか。
 俺もそう思っていたんだが、「孤独な群衆」で"YAHOO"の検索エンジンにかけてみたら397件もあったぜ。つまりこの本は「現代思想」だの「ポスト・モダニズム」といった方面の本のようにファッション的に読まれるような本ではないが、地味ながらいまも広く読まれている本だということだ。
 確かにそういう本はあるな。でその『孤独な群衆』がどうかしたのか。
 君も知る通り俺は最近「群衆論」や「大衆論」といったものに関心があってね。そのからみでタイトルにひかれて読み始めたわけだよ。で意外にこれが面白くてね。内容を簡単に言うとリースマンは社会の経済的発展段階を三段階に区分して、それぞれの段階に属する人間の「社会的性格」というものを、「伝統指向型」、「内部指向型」、「他人指向型」の三つに類型化していてね。
 なるほど。「シャカイガク」という感じがするな。
 その通りだ。基本的な道具立てはウェーバーかデュルケームか知らないがそれらの影響下にあるらしい社会学にフロム風の精神分析学を接ぎ木したようなものと言えるかもしれない。でいま言った社会的性格の類型をいま風の言い方につなげると、「内部指向型」は「モダン」の時代に対応する社会的性格、「他人指向型」は「ポスト・モダン」の時代に対応する社会的性格と言えそうだ。
 しかし『孤独な群衆』が書かれたのはかなり昔だろう?
 そうだ。初版は1950年だ(俺が生まれる前だ)。しかし当然のことながらいわゆる「ポスト・モダン」なる時代は例えば1970年頃に始まったというようなことではないわけだよ。そういう明確な区切りがあるわけではなく、そうした(「ポスト・モダン」的)傾向は19世紀にも見られるわけだよ。リースマンによれば古代ギリシアや古代ローマにも見られるんだそうだ(「ポスト・モダン」という言い方がうさん臭く感じられるのはそういうところにも理由がありそうだな)。
 日本で言えば江戸時代にも「ポスト・モダン」が見られるとか?
 そういうことだ。しかし俺がここで言いたいのはそういう一般的な話ではなくて、演歌やカントリーが「内部指向型」の音楽であるとすると、「60年代音楽」は「他人指向型」の音楽と言えるんじゃないか、ということなんだよ。
 つまり演歌やカントリーが「モダン」の音楽であるとすると、ビートルズやビーチ・ボーイズの「60年代音楽」は「ポストモダン」の音楽だということかな?
 その通りだ。演歌やカントリーと言ったがこれにジャズを加えてもいいわけでね。要するに演歌に代表される個人主義的音楽を「内部指向型」とすると、共同性指向の強い「60年代音楽」を「他人指向型」という風に捉え返してもいいんじゃないか、ということだ。
 なるほどね。そうするとなにか見えて来るものがあるのかな?
 ありそうだよ。だいたい俺は「60年代音楽」をこよなく愛するくせに、演歌やカントリーやジャズも同じように大好きときてるだろ。この一見分裂しているように見える嗜好がどういうことなのかが実はよく分からなかったんだよ。それが『孤独な群衆』を読み始めたところで「そうか」と思ったわけだよ。つまりこれは分裂というものではなくて、俺自身の「モダン」的「内部指向型」と、それから「ポスト・モダン」的「他人指向型」に対応しているんじゃないか、という風に考えたわけだよ。
 なんだ、そんなことか。
 「なんだ」じゃないよ。俺としては音楽というものを「群衆論」や「大衆論」という方向から考えることでいまのアクチュアルな主題につながるはずだと考えていてな。つまり「60年代音楽」や70年以降の「音楽的反動」の意味を捉え返すに当たっていろんな材料や枠組みが欲しいんだよ。
 そうすると君の言う「70年以降の音楽的反動」というものは「60年代音楽」の「他人指向型」から「内部指向型」への回帰ということになるのかな?
 そんな単純な話じゃないよ。70年以降の音楽が「内部指向型」の音楽に見えるにしても、本質的にはそれは後退した「他人指向型」音楽というものだ。あるいは「他人指向型」音楽のいわば「頽落形態」といったものだ。つまり「他人指向型」音楽としての「60年代音楽」というものはいわば奇跡的に出現した「ユートピア的共同性」を指向する音楽だったんだよ。「奇跡的」とは言っても、もちろんそういうものが登場した「必然性」はあったはずなんだけどな。
 なるほどね。しかし「他人指向型」という言い方はなんとかならないのかね。「自律」に対する「依存」といったニュアンスが強すぎるよ。
 そういうところにリースマンの『孤独な群衆』が一般にあまり言及されない原因がありそうだな。しかしそれは「読み方」の問題さ。
 君がそう言うのなら、君の「読み」に期待してみようじゃないか。


2003/02/17 (対話-5)

 前回君と話したことに関連してひとつ気になってることがあるんだけど、いいかな?
 いいよ。実は俺も気になってることがあってな。
 アメリカが今度こそイラクのサダム・フセイン体制を倒そうとしているらしいということは分かるんだけど、そのために本当にイラクに戦争を仕掛けるつもりがあるんだろうか?
 それだよ。俺が気になってたのもそれなんだよ。というのも対イラク戦がらみのスポークスマンがいつの間にかラムズフェルドからパウエルに代わったじゃないか。ラムズフェルドが文官の戦争派であるのに対してパウエルは軍人あがりの外交派だからな。
 そうなんだよ。一体アメリカになにがあったんだろうということなんだよ。
 対タリバン戦の時はパウエルは完全にラインから外されていたからな。そのパウエルが今回アメリカの外交・戦争政策の中心にいるということは、アメリカが外交重視で行こうとしていることがひとつあるな。もうひとつはパウエルが優秀な軍人で湾岸戦争の英雄だったってことだな。パウエルは湾岸戦争当時統合参謀本部議長だった人物だからな。つまり対イラク戦は対タリバン戦のような簡単な戦争じゃないってことだろうな(パウエルには満州事変と日華事変ぐらいの違いがあるという認識があるのかもしれないよ)。
 つまりパウエルなら和戦両様の構えで行けるということなのかな? つまりパウエルなら武力行使をちらつかせながら戦争抜きでフセインを倒すことが出来るかもしれないと? また戦争になった場合でもパウエルの方が「プロフェッショナル」だからうまくやれるだろうと?
 そういうことだろうな。ここ当分はパウエルから目が離せないということだな。それにしてもパウエルが前面に出て来た途端にドイツが公然と反旗をひるがえしたり、世界の反戦運動が盛り上がったりとかいささか皮肉な成り行きではあるな。
 チェイニーとラムズフェルドが後ろで糸を引いてるとか?
 それはないだろう。いまはそういう見方にはあんまり意味がないと思うよ。話は変わるが「シュープリームス第2弾」やっと出来たよ。見ておいてくれよな。
 それはご苦労さん。早速読ませてもらおう。


2003/02/13 (対話-4)

 おい、対イラク戦をめぐる最近のドイツの動きはおかしいと思わないか。
 おかしいなんてもんじゃないだろう。ドイツは日本と並んで戦後世界の最優等生(もちろんアメリカにとってだよ)であり続けて来たはずなんだ。そうした経歴をなげうってアメリカに反旗をひるがえすなんてとても正気の沙汰とは思えないよ。
 これはソ連の脅威がなくなったことと関係があるんだろうね。
 もちろんさ。いくらアメリカが気に食わないからといったって、ソ連の脅威が存在していたかぎりでは自国の安全保障を賭してまでアメリカに逆らうなんてことは考えられなかったことだ。
 そうするとドイツの最近の対応はそれなりに理に適っているとも言えるんじゃないのか。
 一見そう見えはするさ。しかしアメリカは今回のドイツのやり方を決して許さないだろう。しかしドイツにそこまでの覚悟が感じられないというのが正気の沙汰とは思えないと言った所以さ。今回のドイツの対応は国内の反米世論を反映しているんだろうが、いずれにしても醜悪だね。
 醜悪とはどういうことだ?
 まずはドイツに覚悟が感じられないこと。それから世論などに従って国策を策定したりなどしたら必ず国を誤ること(世論などほとんどの場合悪しき群衆現象そのものだからな)。更にフランスに「弾よけ」として利用されているように見えること(つまりナイーヴなんだよ)。それから何と言っても相変わらずドイツがイラクなどとは比べものにならない超無法者国家最有力候補であることを世界に示したこと。にも拘らずドイツはそのことを自覚していないらしいこと、等々だ。
 なるほど。しかし君の言う無法者国家という意味がいまひとつよく分からないな。
 要するに悪しき群衆国家ということだよ。典型的なのがナチス・ドイツであり、レーニン死後のソ連であり、満州事変後の帝国日本さ。
 その中にアメリカは入らないのか?
 アメリカは入らないよ。アメリカが置かれている世界で唯一の超大国という位置にわが帝国日本やナチス・ドイツやスターリンのソ連を置いてみたらいいんだよ。そんな世界に住みたいはと思わないだろう? それにアメリカが悪しき群衆国家に変質する徴候はいまのところ見られない。アメリカが今後国内世論に従って孤立主義的な国策を採用することがあったにしても、それだけでは無法者国家にはならないよ。アメリカが中南米諸国にとってかなり「迷惑」な存在だってことは確かだろうけど仕方のない面が強いね。チョムスキーは間違ってるよ。
 そういうところが君は右派というかリアリストというか、俺にはよく分からないところだよ。
 俺もいまそれについて説明する気はないよ。アメリカがイラクの現体制を倒そうとしていることが間違っているとは俺にはどうしても思えないんだよ。パウエルがそれを言うんだから「正しい」と考えていいんだよ(ブッシュが言うんだったら多少は眉に唾した方がいいかもしれないけどね。まあ「ライス先生」がついてるから俺はブッシュに関してもあまり心配はしていないんだけどね)。イラクが大量破壊兵器を開発して(所持して)いる「決定的証拠」なんか不要さ。そんなもの出したらイラク内外のアメリカのスパイ網がつぶれるだけさ。要するにドイツは馬鹿なんだよ。
 ドイツにかぎった話ではないが、アメリカとイギリス以外はどうも冷戦後の世界にうまく適応出来ていない感じが強いね。冷戦のあいだは自己主張をすることのなかった各国の反米世論が最近になって暴走を始めたようにも見えるしね。
 そういうことだ。俺は韓国の今後にも不安を感じるよ。小泉が頑張っているかぎり日本は大丈夫だろうとは思うけどな。

 ところでサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は読んだか?
 ああ、読んだ。なかなか面白かったよ。退学になった主人公のホールデンが「ガッポリ眠れ、くそったれども」と叫んで夜中にハイスクールの寮を飛び出すシーンがあるんだけど、まさにこれは戦場の兵士の作法じゃないかと思ったよ。後で加藤典洋の『敗戦後論』でこの小説に触れてるところを読み返していたら、これは一種の戦争小説だと書かれていてね。なるほどと思ったよ。『ライ麦』以外にも短編もいくつか読んで、サリンジャーはたしかに「戦争作家」に違いないという確信を深めたよ。
 それで「60年代音楽空間の成立」につながる部分はつかめた?
 いや、サリンジャーの世界は読み手の都合でどうにでも読めるような代物じゃあないってことがよく分かったよ。「理解することへの抵抗」という加藤典洋の読み方は分かるけど、サリンジャーはもっと「深い」ということも分かったよ。つまり俺としては「60年代音楽空間」とのからみでサリンジャーを読むつもりはいまはない、ということだ。
 牽強付会を得意とする君にしては殊勝な心がけじゃないか。例の「シュープリームス第2弾」の方は進んでるのかな?
 それがどうもね。この前肝心なポイントを君にしゃべっちゃったじゃないか。あれであのポイントに向かって書き進める気力が失せたような感じでな。まあ頑張ってみるつもりだがね。
 そうか。この対話も良し悪しだな。あとなんかあるかな?
 今朝(13日)の『朝日新聞』の社説は「汚い」と思ったよ。イラクの問題をアメリカの石油利権問題にすりかえようとしているんだ。自らの利益と目的のためには手段を選ばないからな、マスコミのやつらは。最低だよ。


2003/02/06 (対話-3)

 君との対話もこれで3回目だし、たまには君の方から話題を出してくれないか。出来ればあんまり重くない話題がいいんだけどね。
 そうだな。この前俺はシュープリームスをまとめて聴いたじゃないか。それからというものシュープリームスびたりの毎日が続いていてね。この調子だともう一回彼女たちについて文章をまとめないことには収まりがつかないような気分なんだよ。
 そりゃ楽しみだね。君とは長い付き合いだが、君からシュープリームスについて何かを聞いたということはなかったもんな。よっぽどたまっていたものがあったみたいだね。
 と言うより、ガキの頃はソング・ライター兼プロダクション・チームのホランド=ドジャー=ホランドのことを意識しないで聴いてただろう? その点を意識しないで聴くのと、そうでないのとでは聴き方が全然違って来るわけでね。だからシュープリームスについてもなんだか初めて出会ったような気分なんだよ。そうしていま改めて聴くと実に新鮮で猛烈に感動的なんだよ。
 なるほどね。そういうことなら君のシュープリームス第2弾がますます楽しみだよ。

 次は1960年代の話だけどさ。相変わらず日本では72年の連合赤軍事件が60年代終焉のメルクマールみたいに語られているだろう? 例えば大澤真幸とか宮台真司なんかがそうなんだけどさ。これどうにかならんのかね。だいたい話が「国内的」で「倫理的」に過ぎるんだよ。
 そうだよね。そもそも連合赤軍事件は69年4月28日(沖縄デー)の敗北を起点にしているわけだからね。だから「解放区とバリケードの60年代」の終りを画したのは69年の4.28だよ。これは当事者だったらみんな知ってることだよ。つまり連赤は「終りの終わり」なんだよ。
 当時を知らない若い世代の大澤や宮台がそれを言うのは仕方がないにしても、「全共闘世代」であることを公言する加藤典洋たちまでがそこで連赤事件を持ち出すというのは困ったもんだよ。連赤については当時上野勝輝か誰かが書いていた「よくぞやった森たちよ」ということで充分なはずなんだよ。だいたい連赤のあの「結末」は69年の時点で予想されていたことだろう?
 その通りだ。だからここではっきりさせとこう。「解放区とバリケードの60年代」が終ったのは69年4.28である、と。以後全共闘運動は雪崩れをうって総退却に入り、69年10月頃までには全国の学園(高校等も含め)のバリケードはひとつも残ってなかったんじゃないか?
 そうでないとしても、少なくとも意味のあるバリケードは完全に消滅したわけだ。その後に党派部隊中心の11月佐藤訪米阻止闘争(決戦)があったにしてもだ。
 4.28だけではよく分からないというのなら、4.28とそれに先立つ東大安田講堂が落城した69年1.19をセットにしてもいいかもしれない。つまり1月19日の安田砦陥落によって、バリケードを構築することの「意味」と「動機」が大衆的反乱空間から消えたということだよ。
 そういうことだ。それに比べたら連赤なんて屁だ。いや、君の言う「終りの終わり」だ。

 しかしもっと本質的で重要なことは、例の「光るもの」に満ちた60年代の「音楽空間」がどこで終ったかということじゃないか。前にも言ったように「解放区とバリケードの60年代」はむしろ前者の模倣であり、その下手くそなバリエーションであると考えるべきなんじゃないのか。
 そう考えるのが正しいかどうかについては疑問もあるけどね。まあそれはさておいて、60年代音楽の終りのことを言えば、俺の印象ではジュディ・コリンズの「青春の光と影」を聴いた時に俺の黄金時代は終わったと思ったよ。
 あれは68年の12月頃だったよな。しかし「青春の光と影」という邦題を考えたヤツも大したもんだな。そいつもそれを聴いてこれで俺の青春は終ったと思ったんだろうな。
 そう、みんなおんなじだったんだろうね。この「みんなおんなじだった」ということが重要な意味を持っているのかもしれないね。
 その通りだ。それはそうとして、「青春の光と影」の2ヶ月位前にメアリー・ホプキンの「悲しき天使」が大ヒットしただろ? 原題がズバリ"Those Were The Days"でな。要するに「キラキラ輝いていた青春の日々」に別れを告げる歌だからな、あれは。俺にとっては「悲しき天使」の印象の方が強かったよ。当時これは全世界で500万枚売れたって言われてるしな。
 そう言えば「悲しき天使」の次のメアリー・ホプキンのヒット曲は「グッドバイ」(69)だったよね。ポール・マッカートニーが書いた曲だよ。それにしてもポールは律儀な男だね。あそこまで律儀に60年代音楽に別れを告げたり、その終りを宣言したりすることもないだろうと思うけどね。しかしそれも、あれが誰もが認めるひとつの「公共的な空間」だったからなんだろうね。
 そういうことだ。しかしそれでもまだみんな未練タラタラだったみたいで、69年12月にPPMの「悲しみのジェット・プレーン」が全米ナンバー・ワンになったじゃないか。あれが60年代の最後の最後を飾る葬送曲になったな。しかしよくもまあナンバー・ワンにしたものだな。
 そうやってみんなしてみずからの青春でもあった60年代に別れを告げたってことなんだね。あんな時代はもう二度とはないだろうな。いささか「持続」が過ぎた感はあるけどね。
 そこに参加したメンバー全員(「悲しき天使」を買った500万人が終焉期にその中核をなしたわけだが)の青春だったんだからな。しかし69年までみんなでいちおう「持続」させはしたものの、ホランド=ドジャー=ホランドとシュープリームスは67年で終ってるよ。68年にヒットした「ラブ・チャイルド」(これはもうH=D=Hの曲ではないが)はもう全然イノセントな曲じゃあないからな。
 ビートルズもね。彼らはもう65年末の『ラバー・ソウル』でひとつの区切りを付けてるからね。
 たしかにな。しかし66年に日本でメチャクチャに流行った『ラバー・ソウル』収録の「ガール」と「ミッシェル」は、より洗練された青春というものを感じさせたぜ。
 そうだったね。それまでは中学〜高校低学年の青春だったものが、一気に高校高学年の青春にレベル・アップしたようなインパクトがあったね。
 だからビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』(66)にしても、バーズのサイケデリック&ラーガ・ロック(66)にしても、「一段とソフィスティケートされた60年代音楽空間」に属するものではあっても、本質的にはその「終焉」に属するものではないということだ。
 そうすると、その「終り」のメルクマールは一体何なんだ?
 それを言うのはまだ早いよ。だいたいその「始まり」、それどころか「それ」そのもの、が何であるかがまだ何も語られていないじゃないか。
 そうだね。そう言えば、いま考えるとボブ・ディランは「終り」については随分脳天気だったような気がするね。あのバイク事故がなかったら、67年いっぱいぐらい「アイ・ウォント・ユー」や「女の如く」の路線(つまり「ライク・ア・ローリング・ストーン」の路線)でやっていたかもしれないね。
 かもな。俺が思うに「終りの意識」をいちばん早く持ったのはホランド=ドジャー=ホランドだったような気がするよ。「ユー・キープ・ミー・ハンギン・オン」(66/11)は、要するにブランショの言う「何であれ持続に加担してはならない」という意味の歌だからな。
 本当かよ、おい。
 本当だ。それが「リフレクションズ」(67/9)になると、もうこれは60年代の「残響」を歌った歌だからな。シュープリームスをまとめて聴くまでは、ビートルズ(ポール・マッカートニー)の「ハロー・グッドバイ」(67/12)あたりが「終りの始まり」かと思っていたが、H=D=Hとシュープリームスの方が更に1年以上も早く「終りの始まり」を歌っていたんだよ。だからはじめに言った「もう一回シュープリームス」ということになるわけさ。
 なるほどね。ますます期待大だね、それは。

 ここで少し話題を変えるぞ。最近これまで読めていなかった加藤典洋が書いたり語ったりしたものをまとめて読んでいて思ったんだが、加藤がよく引き合いに出すサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951)はなんだか「60年代音楽空間」の先駆のような気がして来たよ。
 えっ、どういうことだ?
 つまり、世界的に売れまくったこの小説の主人公の思考と行動に見られる加藤典洋言うところの「理解することへの抵抗」というものこそが、例えばビートルズの音楽の気分的な核をなしているような気がするんだ。この小説を読んでないでこんなことを言うのはどうかと思うけどな。
 言われてみれば分かる気がするよ。君の場合は読んでいようと読んでいまいとお構いなしだろうけど、加藤典洋の言う「理解することへの抵抗」というものは、「60年代音楽空間の成立」を理解するひとつの重要なポイントになりそうだね。
 それから、もうひとつより「深い」ポイントを挙げるとすると(こういうものはサリンジャーにはないのかもしれないが)「無垢な正義感」といったものだな。ケネディの登場に象徴されるようなもの。キューバ危機の回避に象徴されるようなもの。あるいはゲバラの行動に象徴されるようなものだ。
 分かる気はするけど「理解することへの抵抗」のような「ふくらみ」がないとね。
 それはまあ次回以降のテーマかな。あとこれも加藤典洋がよく触れていることで、村上春樹の『風の歌を聴け』(1979)からの引用で「気分が良くて何が悪い?」というのがあるだろう?
 あるね。
 俺はあれをずっと「気分が悪くて何が悪い?」と理解していたんだよ。だいたい「気分が良くて何が悪い?」じゃああまりにも月並みじゃないか。
 君らしくて面白いとは思うが、要するに眼が悪いのさ。じゃあ今回はここまでかな。
 そうだな。ついでに言っておくと、4日の『朝日』の夕刊「思潮21」に岩井克人が書いていた「デフレはなぜ悪いのか」は必読だ。彼は柄谷行人の「仲間」かと思っていたが違うのかな・・・。

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