管理人のつぶやき(3)


2003/04/13 (対話-17)

 早くもマスコミは「フセイン政権崩壊」なんてことを言い触らしているが、本当にフセイン政権は崩壊したんだろうか?
 そんなこと俺に分かるわけないじゃないか。俺に分かっているのは、そういうことを言っているのはマスコミだけであって、アメリカ政府もアメリカ中央軍司令部も言っていないということだ。現状を理解する上で重要なことは、まずこの点を押さえることだろう(但し、その後北部のイラク軍が師団単位で降伏したことを受けてホワイトハウスのフライシャー報道官が11日にフセイン政権は「終わった」と述べたそうだが)。
 それにしてもアメリカ陸軍の第3機械化歩兵師団の活躍ぶりは見物(みもの)だったね。海兵隊以外の正規の陸軍部隊の活躍が報じられたのは本当に久しぶりだったような気がしたよ。映像でもばっちり確認できたしね。
 そうだな。バグダッドの南東からは第1海兵遠征軍が進んで来ていたからな。海兵がやって来る前になんとしてもバグダッドを制圧するんだという「意気込み」が感じられたね。制圧した後の大統領宮殿にアメリカ国旗ではなく故郷のジョージア州の大学の旗を立てたというのが「傑作」だったな。これが戦(いくさ)というものさ。こういう切迫した状況の中で誤ってパレスチナ・ホテルに向かって発砲してしまったというのは分かる気がするな。進撃して来る海兵に向かって発砲したんだとしたら指揮官は「処分」されたろうが、まああれは仕方のないことだろうね。

 そういうことを君みたいに「気楽に」言える「空気」はいまの日本にはないけどね。
 そうだ。なにしろいまの日本には「言論の自由」はないに等しいからな。あるのはそうした発言をヒステリックに「不謹慎」と決めつける「言論統制」だからな。
 つまり、「かけがえのない命の尊さ」という「決断」や「行動」や「コミット」の前では「嘘」か「責任回避」にしかならない空虚な標語の前で、本当に考えなければならないことに対する思考の停止が要求されるわけだ。理解されなければならないことは、パレスチナ・ホテルが結果として戦闘の最前線に位置してしまったのは、少なくとも第3歩兵師団の責任ではないということだよ。むしろ目の前で猛烈な砲撃戦が展開しているんだから、誤射や流れ弾を本当に避けるつもりならホテルの地下にでも避難すべきなんだよ。もちろんジャーナリストとしてはそんなことは出来るはずもないわけなんだから(なにしろ彼らは戦争の取材に来ているわけだから)、それはそれで「名誉の殉職」だったんだと俺は思うよ。だから米中央軍のスポークスマンはそれなりに正当な対応をしたと言っていいわけだ。
 そういうことだ。いずれにせよ、第3歩兵師団という陸軍正規部隊の野戦(正規戦・正面戦)における活躍はアメリカによるイラク攻撃の「道義的・論理的正当性」以上の「正当性」を示したと言えるはずだ。もちろんこれは対日戦や対独戦におけるアメリカ軍の勇戦に見られたアメリカの「正当性」と同レベルの、そのかぎりでの相対的な「正当性」であるわけだが、第3歩兵師団のおかげでアメリカはベトナム戦争の失敗と不名誉からやっと立ち直ることができたと言えるのかもしれない。

 ところで君はサダム・フセインの所在情報に基づいて、バグダッド西部の住宅地の中のレストランを爆撃した8日のアメリカの作戦をどう思う? 新聞報道によればその作戦ではバンカーバスターが使われ、巻き添えでイラク国民14人が死亡したそうだが。
 問題はそれだよ。俺はその作戦は「正当な」作戦だったと思うが、しかしそれをいま論証することはできない(作戦とその結果が公開されたことは注目に値するが)。日本テレビである「軍事評論家」がその作戦について「間違っている」と語っていたが(アナウンサーがそう言うように仕向けていた)、言うまでもなくそれは前線から遠く離れた東京での「議論」だ。多分その「軍事評論家」はいまもその問いに答えを出すべく努力しているはずだが、彼は自分が「前線の論理」ではなく「後方の論理」で答えたことを自覚しているはずだ。
 そうだろうと思うよ。しかし彼はわれわれの政府がアメリカを「支持」していることも知っているはずで、従って「前線の論理」と「後方の論理」の使い分けが無効であることも知っているはずだ。
 それだよ。マスコミ報道が覆い隠そうとしているのはそのことさ。それからわれわれが戦争のたびに目を背けようとしているのもそれだ。言うまでもなくわれわれは暴力や人殺しと無縁に生きているわけではないんだし(われわれは「天使」じゃないんだから)、だいいち日本はいまからたった60年前には南方や中国大陸で戦争をしていたんだからな。その事実を「A級戦犯」と「軍部」に押し付けて、「私たちは被害者だったのです」と言い続けて来たのが戦後のマスコミの正体さ。それが「虚偽」以外のなにものでもない「歴史からの逃亡」であることは周知の通りだよ。
 だからわれわれは巻き添えで死んだ14人のイラク国民に対して責めを負う「資格」は充分にあるはずなんじゃないのか?
 その通りだ。いずれにせよわれわれはこれから「ポスト国連」という新しい世界秩序の時代を生きて行くわけだ。それも戦争に反対したフランスやドイツの側ではなく、対イラク戦を戦った「世界に対して責任を引き受ける(そして自国の権益を最大限に追求する)」米英の側で生きて行くしかないわけだ。だから14人のイラク国民に対して責めを負う「資格」を背負いながら、なおかつ自らを「肯定」して行くという以外の生き方があると考えるのは間違っていると思うよ。

 ブッシュにしても小泉にしてもそういうことまでは考えていなかったかもしれないね。
 小泉はともかくブッシュは知っていたろうと思うよ。コンドリーザ・ライスがアメリカとアメリカの行動を支持する国のことを「やる気がある者の連合」と言っていた意味はそういうことだ。分かりやすく言えば、「共犯者の連合」ということだ。いずれにしても依然としてわれわれは「ヒューマニズムとテロル」というメルロ=ポンティ的問題設定の中にいるということだ。
 「ヒューマニズムとテロル」とはまた古い話だけど、歴史の中で自分自身を実現して行くほかないわれわれとしては、いまもブハーリン的状況の中に置かれていることはたしかだろうね。
 その通りだ。そしてそれを「名誉」と考える以外にわれわれに「名誉」はないということだ。とりわけわれわれ日本人には「ポスト冷戦」の後に迎えることになる「ポスト国連」という未知の(恐らくはホッブス的でタフな)時代は、チャレンジしがいのある、再び「主役」たりうる、途方もなくエキサイティングな時代になるだろう。そこでは「主役じゃなくてもいいよ」というような「自国のことのみに専念」(日本国憲法・前文)する「わがまま」はもう許されないかもしれない。それはまた同時にわれわれが初めて経験する「革命」(ハンナ・アーレント)でもあるだろう。ひとつ付け加えておくと、今朝(04/13)の『朝日新聞』で田中康夫が「デフレ自体が解決すべき課題ではない・・・低成長でも高品質な社会を」という馬鹿丸出しの発言をしていたが、こうした一知半解の木を見て森を見ない「世間知」で経済を語る(見る)ことはやめなければならない。言うまでもなく、デフレを止めないでは「高品質な社会」はもとより「低成長」を実現することさえできない。マルクスにならって言えば「無知が幸いしたことは一度もなかった」ということだ。われわれが再び「主役」たりうるとすれば、まずはそうした有害無益な世間知やデマや俗説や上に言った「言論統制」等々から自由になることだ。とにかく、田中康夫に代表される無知蒙昧の輩が、スミスやマルクスやケインズが「見えるものと見えないもの」あるいは「仮象と実在」とが絡まり合った領域に「経済的現実」を探り出して行った努力を、どうして簡単に無視することができるのか、まったく信じられないよ。大衆人に特有の「傲慢さ」なんだろうけどな。


2003/04/03 (対話-16)

 その後ハンナ・アーレントの方は進んでるかい?
 進んではいるよ。しかし前から言っていた『人間の条件』の方は中断して、いま『全体主義の起源』(大久保和郎他訳/みすず書房)の方を読んでるよ。
 へえー、『全体主義の起源』をね。「公共性」ということを中心とした最近のアーレントへの関心からすると、どちらかと言うと『全体主義の起源』はあまり重視されていないような気がしていたけど、君としては面白いのかな?
 面白いなんてもんじゃないよ。これほどエキサイティングな本(読み物)をいままで読んでなかったことが悔やまれるほどで、この本を発表したことでアーレントが世界的な名声を博したというのはよく分かるよ。加藤典洋が『イェルサレムのアイヒマン』(1963)に即してアーレントの「フリッパントな語り口」について書いていたけど(『敗戦後論』)、フリッパントなアーレントの語り口は、既にこの『全体主義の起源』(1951)において全開状態だよ。
 そうなのか。俺はまたタイトルからしててっきりシリアスな本なのかと思っていたよ。
 アーレントの場合はテーマがシリアスになればなるほどフリッパントな語り口が全開になる「クセ」があるみたいだよ。例えばアーレントはこの本で「(ナチにとってはー引用者)ユダヤ人を南京虫のように、つまり有毒ガスで皆殺しにすることができるようになれば、ユダヤ人は南京虫であると宣伝する必要はもはやないのである。」(3「全体主義」P.182)ということを平然と書いているが、これは軽口をたたく風のフリッパントな文脈の中に置かれるのでなかったら、確実にユダヤ人を激怒させ、読む者を困惑させることになるだろうからね。
 いや、そこまで行くともうフリッパントな文脈云々を超えているような気がするよ。俺が思うにアーレントはとても誇り高い女で、「絶対的正義」という足場を確保してものを言うことを自分に許すことができないんだろう。だからわざわざ「南京虫」という言い方をしているんじゃないのか。
 そうなのかもしれない(しかし君の言うアーレントの「反絶対正義」への志向がフリッパントな語り口を採用させている主要な動機であることもたしかだろう)。いずれにしてもフリッパントなアーレント節全開の『全体主義の起源』が問題にされずに、『イェルサレムのアイヒマン』が問題にされたことに逆に「困惑」したのはアーレントの方だったのかもしれない。そう言えばアーレントの「先生」のカール・ヤスパースが書いたこの本の序文(推薦文)が『全体主義の起源・1「反ユダヤ主義」』に収録されているが、書き方がおずおずとしていて「これは困ったな」という「内心」が透けて見えるような感じがしたもんだけど、たしかにアーレントの文章を読めばヤスパースの気持ちも分かる気がするよ。

 なるほど。で君はどういう風に『全体主義の起源』を読んでいるんだ? そしてそもそもそれはどういう本なんだ?
 まずこの本の位置づけということから言うと、『革命について』が18世紀の「革命」(フランス革命とアメリカ革命)について書かれた本であるのに対して、『全体主義の起源』は19世紀から20世紀にかけての「反革命」について書かれた本であるということだ。だからアーレントの「意図」からすれば俺の読みの順序は「正しい」わけだ。ついでに言っておくと、『人間の条件』は前者と後者を人間の「活動」というあり方から原理的に見て行こうという意図で書かれた本であると言えるだろう。更に言えば、『全体主義の起源』で展開されている「反革命論」は、21世紀の現在における人間のあり方をも射程に入れているということだ。つまり「大衆社会」という名前の「反革命」と「野蛮」は、ますます深く、かつ全世界を覆い尽くすという仕方で進行中だということだ。
 要するにアーレントが『全体主義の起源』で書いているのは「大衆社会論」なのか?
 そうだ。「ブック・レビュー(4)」で触れた今村仁司の『群衆ーモンスターの誕生』(ちくま新書)ではアーレントについてはまったく触れられていないが、多分いま最もアクチュアルであるはずの群衆論・大衆論を書いていたのは実はアーレントなんじゃないかと俺は思うわけだ。なにしろ彼女はホッブスやカール・シュミットをしっかりと読み込んでいるナチス・ドイツ時代のユダヤ人だからな。だからアメリカ的な「大衆社会論」なんかよりも遥かに「深い」群衆論・大衆論が書けたんだろうと思う。

 しかし今村仁司はなんでアーレントに触れてないんだろう?
 どうしてなんだろうね。単に読んでいないのか、あるいはナチズム論・スターリニズム論としてのみ読んだのか、あるいはスターリニズムはナチズム的全体主義ではないというような「異論」があったのか、あるいはアーレントに「豚のような大衆」(エドムンド・バーク)というようなことを平然と言ってのけるような「反動的」な観念を感じ取ったのか、そのいずれかだろうな。
 アーレントには「反動的」なところがあるのかな?
 あるよ。あるけど、今村仁司は同じく「反動的」なニーチェやハイデガーについては大きく触れているわけだから、それが理由であるとは考えにくいな。そう言えば、アーレントは19世紀から20世紀にかけての根無し草的・モッブ的知識人の典型としてバクーニンやランボーとともにニーチェを挙げているが、これは凄いと思ったよ。まさに慧眼と言うべきだよ。ついでに言えばアーレントが自分自身をそうした系譜に位置づけていることは間違いないね。
 アーレント自身がモッブ的知識人だということかな?
 そうだと思うよ。もちろんアーレントは『全体主義の起源・3「全体主義」』で、階級社会からこぼれ落ちた「ならず者」存在としてモッブというあり方を「批判」しているわけだが、その「批判」は実は「共感」に満ちてさえいるよ。アーレントの言うモッブの典型はネチャーエフであり、エルンスト・ユンガーであり、SA長官レームであり、「香具師」ローゼンベルクであり、ほかならぬヒットラーその人であるわけだが、そうしたヒットラーたちへの「共感」がなければこの本は書かれえなかったはずだ。つまりアーレントの「フリッパントな語り口」というのは、本質的にはアーレント自身のモッブ的シニシズムに根を持っているんじゃないかと思うわけだ。

 要するに『全体主義の起源』はモッブ知識人による群衆論・大衆論ということになるのかな?
 そう言って構わないんじゃないのかな。なにしろアーレントは鈴木真砂女と同い年(1906年生れ)で、つまり19世紀的(明治的)階級社会が音をたてて崩れて行く時代に生まれたわけで、そこに彼女たちに特有の「モラル蔑視」や「ブルジョワ蔑視」や「大衆蔑視」の根があるような気がするね。しかしそういうことはアーレントの群衆論・大衆論・大衆社会論を学んで行くに当たってはさほど重要なことではない(但し、さっき君が言った「絶対的正義」云々の話はとても重要なんだが、それはまた別の話だ)。本当に大切なことは、ナチズムとスターリニズムが崩壊した後の、「大衆社会」という名前の「反革命」と「野蛮」の全面化を、アーレントを引き継いで批判して行くことだ。
 それと同時に、「反革命」と「野蛮」の進行を食い止める「革命」への「回路」を見い出して行くということだろう?
 そういうことだ。もちろん言うまでもないことだろうが、その場合の「革命」とはアメリカ帝国主義を打倒するというようなことではない。そうではなく、「孤独な群衆」と「マスコミ」と「世論」に制圧された「大衆社会」の中に「公的領域」のくさびを打ち込んで行くことだろう。具体的な方策はまだよく分からないが、取り敢えずは例えば米英の対イラク攻撃前後から日本社会を覆い尽くしつつあるヒステリックな「反米デマゴギー」(=「対米コンプレックス」)や小児病的でファッショ的な「絶対正義の平和主義」に風穴を開けるというようなことだ。そう言えば、昨日(4月2日)の『朝日』の夕刊「思潮21」に五百旗頭真(いおきべまこと)が「イラク戦争と日本」についてなかなか「いいこと」を書いていたが、しかしそういう類いの「正論」はちょっと「弱い」ね。それよりも前にこのコーナー(2003/01/09)で触れた加藤典洋の「換喩的世界」論の方がずっと面白いな。実はいまやっと分かったんだが、加藤典洋がそこで書いていたのは新種の大衆社会論だったんだな。

 なるほどね。話は飛ぶけど、ディキシー・チックスのナタリーがブッシュの「戦争政策」を批判したというのは本当なんだろうか?
 詳しい情報が手に入らないんで、分からないよ。しかしいずれにしても、ナタリーがチョムスキー的な立場からブッシュを批判したわけではないことはたしかだろう。むしろパット・ブキャナン流の反グローバリズム的な「アメリカ第一主義」の立場(アメリカ人はアメリカに帰ろうという立場)からの批判じゃないのか。アメリカの保守主義は複雑怪奇なまでに多様だからね。いずれにしても、少なくとも『Home』をしっかり聴いているアメリカ人がナタリーが「愛国の花」であることを疑うなんて信じ難いことだよ。だからアメリカ社会にディキシー・チックス排除の動きがあるとすれば、それはカントリー・ミュージックのフィールドからのものではないだろうし、要するにアメリカ大衆社会の「ヒステリー現象」(アーレント流に言えば、すべての「意見」の死としての「世論」の支配といった現象)なんだろう。ベクトルは逆でもいまの日本とまったく同じだよ。だからいまの日本の「反米・反戦ヒステリー」が満州事変以降の時代のそれに突然回帰したとしても驚くには当たらないし、結局のところすべてこれらは「大衆社会」という名の「反革命」と「野蛮」そのものだということだ。但し、現状について言えば「当事国」アメリカよりも日本のほうがいくらか「マシ」という違いはあるだろうが。「アメリカ精神」の神髄と言うべきディキシー・チックスを叩くようじゃアメリカの「世論」は末期的だよ。完全な錯乱状態だな。もっともアーレント的な意味での「世論の暴政」とはそもそもそういうものなんだろうけどな。「デフレ不況」の全面化が、逆にそれを加速せしめる「改革世論」の蔓延を生んだ日本の場合もそうだったし。つまり「錯乱」をともなうことで「世論の暴政」が完成するということだ。ケインズはだからそれを「罠」(例えば「流動性の罠」)と呼んでいるよ。


2003/03/27 (対話-15)

 米英による対イラク攻撃が始まってからほぼ1週間になるわけだけど、前回君と話したような議論は新聞などではまったく見かけないね。
 俺たちのあの議論はほとんど「推論」にもとづくものだからな。だいたいコンドリーザ・ライスの志向が「アメリカ第一主義」だというようなことは「証明」のしようがないわけだからな。パット・ブキャナンに見られるようなオーソドックスな「アメリカ第一主義」と、ライスのそれとの間に共通項はいまはあまりないようだし。とは言っても、前回君としゃべったことは、いま考えられる極めて適確な推論を踏まえた議論だと思うよ。それに新聞などに出て来る議論は当の新聞の「方針」や「世論」に配慮しなきゃならないからね。だから村上龍はそういう配慮が不要な自分のメール・マガジン("JMM")でトニー・ブレアの「選択」を高く評価していたよ。
 村上龍は人の神経を逆なでするようなことを言うのが好きだからね。それにしてもいまのアメリカの政治と外交がウォルフォウィッツに代表されるような「新保守主義」(ネオ・コン主義)の主導で動いていると考える日本の平均的な議論はちょっとお粗末なんじゃないか?
 それはそうだ(でなきゃわざわざああいう「推論」にもとづく話をしたりはしないよ)。少なくともこの前俺たちが話したような、@チェイニー=ラムズフェルドの「軍事優先主義(関東軍主義?)」、Aパウエルの「国際主義」、それにBライスの「アメリカ第一主義」、この三者の政治力学としてアメリカの動きを見て行くんでなきゃなにも見ていないのと同じだよ。つまり、最低限この三者の競合・角逐の動力学の「現われ」として今回のイラク攻撃を見るのでなれば、それに対する「対応」さえできないということだよ。しかもこの動力学は常に「動いて」いるわけだよ。明日になれば力関係がまた変わって来るということだよ。前回君としゃべった俺たちの認識では@とAの噛み合いの上にBが乗っかっているのが現状だということだ。FRBのグリーンスパンは共和党員らしいが、俺としては彼みたいにマクロ経済というものがよく分かった人物がアメリカの「戦時内閣」にいないらしいのが、いまのブッシュ政権に対する大きな不満だけどな。
 そこにクリントン政権との決定的な違いがあるよね。そもそも経済は政府のタッチすることではない、といったようないかにも共和党的な経済観がブッシュ政権にはあるみたいだね(ブッシュの親父はもっと経済に配慮していたと思うけどね)。しかしこうしたかなり徹底した経済自由主義(的発想)と政治的共和主義とは矛盾するんじゃないのか?
 いまの共和党は共和主義を看板にしているわけではないだろう? いずれにしてもブッシュ政権(の動力学)はいまの「テロとの戦い」を「10年戦争」と認識しているはずで、そこに主たる精力を投入して行くつもりのようだ。それにもしブッシュ政権が一期で終って、民主党政権があとを引き継ぐことになっても、最重要のオプションは「テロとの戦い」であり続けるんじゃないか。いまのアメリカの政治思考の根底に「9.11ショック」があることを忘れるわけには行かないからな。 そうであるかぎり(前回も言ったように)、アメリカの「同盟国」や「友好国」としてはトニー・ブレアの「選択」以上のオプションはないと考えるしかないだろう。
 そうなんだろうけど、いささか憂鬱な状況ではあるね。

 話は変わるけど、その後アーレントの『人間の条件』は進んでいるのかな?
 いや。半分ぐらい読んだところで「戦争」が始まったもんだから、ボブ・ウッドワードの『ブッシュの戦争』(日本経済新聞社)を読んでるよ。それから中山康樹の『これがビートルズだ』(講談社新書)という本が出たんで、いま『ブッシュの戦争』と並行してこれも読んでるところでね。3冊並行という状態だからアーレントに戻れるのはかなり先になりそうだよ。
 へえ、中山康樹がまたビートルズの本を出したのか。そうすると彼としては3冊目のビートルズものということになるのかな?
 そうだ。『ビートルズを笑え』(廣済堂出版)、『超ビートルズ入門』(音楽之友社)に続く3冊目で、前の2冊が序論だったとすると、これは本論ということになりそうだ。
 で相変わらず「お笑いモード」でやってるのかな?
 やってはいるが、基本的にはこれまでの内外のビートルズ研究の蓄積を踏まえた「真剣モード」の楽曲解説と言えそうだよ。だから構成はほとんど『ディランを聴け』(旬報社)と同じスタイルなんだが、データが豊富なのと、音楽それ自体の出来が違うのと、ビートルズへの「愛」の深さの3点において、『ディランを聴け』よりもずっとよく書けていると思う。
 君がそれだけほめるということはかなりの出来なんだな。
 いや立派なもんだよ。君に理解してもらうために、中山康樹が「抱きしめたい」について書いているところを引用してみようか。「・・・並のポップスやロックではない。ジャンルとしてはそうだが、なにか“突き抜けた”感じが濃厚だ。この曲以前の傑作である《シー・ラブズ・ユー》の延長線上にあるようなタイプの曲だが、レヴェルが確実にちがう。《シー・ラブズ・ユー》はどこまでいっても“曲”だが、《抱きしめたい》は“曲”というよりも世界観のようなものを提示しているように思える。要はスケール感がちがう。」(P.261)
 へえ、「世界観のようなものを提示している」とはよく言ったもんだね。たしかに言われてみれば、ベートーヴェンのシンフォニーで言うと、「シー・ラブズ・ユー」が3番(「エロイカ」)に当たるとすると、「抱きしめたい」は5番(「運命」)に当たると言えるよね。
 そうだ。しかし中山康樹でもこれだけのことが書けている箇所は他にはほとんどない。多分中山康樹は学年で言うと俺より2つ下だと思うが、これだけのことがひとつでも書けたということは、ほとんどリアルタイムでビートルズを聴いたということなんだろう。
 そうなのかもしれないけど、ビートルズの音楽の偉大さは、基本的にはリアルタイムで聴いたかどうかには係わらないレベルに達しているところにあるんじゃないのか?
 そういう面はたしかにあるよ。しかしそこには、ベートーヴェンの「運命」を19世紀始めに聴くのと、20世紀後半に聴くのとの違いと同じぐらいの違いがあるわけだよ。つまり俺たちは1964年(頃)に「抱きしめたい」を聴いて、いわばそこに極めてリアルな「運命が扉をたたく音」を聴いたわけだよ。つまりそれは、俺たちには(「ブック・レビュー(5)」でも述べたように)「人間はひとぼっちじゃない」という「天啓」のようなものとして届けられたわけだが、それはまた63〜64年という時点に潜在的に秘められていた「時代の声」でもあったわけだ。
 なるほど。たしかにその違いは決定的かもしれないね。
 俺が中山康樹のこの本に不満があるのは、さっき君が言ったことに関連することで、ほとんどすべてのビートルズの曲が(「抱きしめたい」だけは例外のようだが)ひとつの大きな「ビートルズの音楽」の「部分」として聴かれていることだよ。言いかえれば個々のビートルズの歌が持つ「メッセージ」が聴かれていないということだよ。だから中山康樹がこの本で「これからビートルズを聴こうという人は、まずはこのアルバム(『パスト・マスターズVol.2』)から聴くべきだ」(P.277)と書いているのは断じて間違ってるわけだよ。言うまでもなくビートルズは、『プリーズ・プリーズ・ミー』(1963)や初期シングルをまとめた『パスト・マスターズVol.1』(1988)から聴かれなければならない、ということだよ。ビートルズの真の偉大さや「肝」といったものは、そこに聴かれる「天啓」や「時代の声」に尽きると言っても過言ではない、と俺は思うわけだよ。
 それを聴かないとビートルズを聴いたことにはならないのかな?
 いや、そうでもないよ。しかしそうでないとバッハやモーツァルトやベートーヴェンといった古典音楽を聴くのと同じ聴き方にしかならないということだよ。「それでいい」と言うのならそれでいいさ。しかし俺がいつも「60年代音楽空間」という言い方で言っているのは、ビートルズが俺たちに届けてくれた「希望」を改めてまるごと聴き取ることにこそ決定的な「意味」があるはずだ、ということだよ。つまり「60年代音楽空間」とは文字通りひとつの「空間」なのであって、それは「抱きしめたい」や「シー・ラブズ・ユー」が創り出した「世界観」に向かって全世界が一斉に「イェーイ」と叫ぶ「空間」なんだよ。それは歌による問いかけと応答の双方があって初めて成立する「空間」であるわけだ。俺はスタンダールのモーツァルト論というものを読んだか読んでないか忘れたが、少なくともそれは小林秀雄の『モオツァルト』よりも遥かにリアルで切実なものだったはずだよ。つまり、俺たちにとってビートルズの音楽は依然としてそれぐらいリアルで切実であるはずだということだよ。だから更に言えば、いまビートルズの音楽を聴く「究極の意味」は、そのリアルで切実であるものの内実をその「空間」ともども理解することに尽きるということだよ。
 なるほどね。それなら是非「君のビートルズ」をきかせて欲しいもんだね。
 まあ、ずっと先のことになるだろうけどな。


2003/03/21 (対話-14)

 いよいよアメリカによるイラク攻撃が始まったわけだけど、マハティールが言っているようになんだか情勢は満州事変(1931)の頃にすごく似てきたね。当時の帝国日本の位置を今回はアメリカが占めているわけだけど。
 その通りだよ。満州事変当時は日独伊三国同盟もなかったから、完全な日本の単独行動だったのに対して、今回はイギリスや日本がアメリカについているという違いはあるけどな。それから当時の日本(正確に言うと関東軍だが)の目的が満州の支配であったのに対し、今回のアメリカの目的は関東軍ほど露骨ではないという違いはあるよ。
 それはそうさ。チェイニーやラムズフェルドが関東軍ほど明確な野心を持っているとは俺も思わないよ。それより伝統ある「アメリカ第一主義」が、コンドリーザ・ライスたちによって21世紀的な形で現実化されつつあることの現われが今回のイラク攻撃だろう、ということだよ。つまり、はっきり言えばいまのアメリカはイギリスや日本の支持もあてにしていないんじゃないのか?
 多分そうなんだろうな。そうしたアメリカの「変貌」にはっきりと「危機意識」を持っているのはイギリスだけだろう。イギリス以外の国は歴史意識というものが無いに等しいから、なんにも分かっちゃいないよ。だからイギリスはなにがなんでもアメリカの行動にコミットして行く「義務」を感じたんだよ。コミットしなきゃアメリカに対してなんらの「権利」も持ちえないわけだからな。
 そうだよね。チャーチルが「いやがるアメリカ」を対枢軸戦に無理矢理ひきずり込んで行ったのと、方向は逆だけどとてもよく似ているよ。とにかく、第二次大戦でナチス・ドイツと帝国日本を打倒したアメリカが、20世紀後半の冷戦を通じて遂には最大のライバルだったソ連をも倒したわけだ。そのことの「歴史的意味」にようやくアメリカは気づき始めたんじゃないのかな。とりわけあの9.11の衝撃によってそれに目覚めてしまったんじゃないのか。
 そうなんだろうな。それにしてもコンドリーザ・ライスというのは凄い女だよ。俺は知らないが、彼女は独身なんだろう?
 多分ね。彼女は頭脳明晰・容姿端麗な黒人女で、しかも多分独身だよ。この際だってマージナルで孤独なあり方が、ライスのアイデンティティーを「偉大なアメリカ」に向けさせたのかもしれない。あるいは逆に、彼女は彼女の考える「偉大なアメリカ」と既に「結婚」していたのかもしれない。その結果としての「独身」なのかもしれない。
 彼女は少女の頃はコンサート・ピアニストになることを目指していたらしいが、とにかく大した女だよ。パウエル=アーミテージ同盟とチェイニー=ラムズフェルド=ウォルフォウィッツ連合を噛み合わせて行く中で、彼女(たち)の「アメリカ第一主義」がホワイトハウスとアメリカの中心に居坐ってしまったんだとしたら、これは凄いことだな。
 それが分かってるのは君の言う通り多分イギリスだけだろうね。だいたいチェイニーやラムズフェルドは言ってみれば「関東軍」みたいなもので、極めて理解しやすい存在だからね(イギリスも「本性」はほとんど「関東軍」なんだろうし^-^)。しかし、アメリカが(自分の作った)国際連盟に加盟することを許さず、第二次大戦への参戦に対しても最後まで抵抗した伝統ある「アメリカ第一主義」というのは、理解しくいだけでなく、いまやアメリカは誰もが知る唯一の「世界帝国」であるだけに極めてやっかいなことになるわけだからね。
 ともかく、どうやらコンドリーザ・ライスたちがアメリカと政治と外交のキーを握ったらしいということだな。ここが押さえられないといまのアメリカの行動は理解できないんじゃないか。しかし「コンドリーザ・ライスのアメリカ」というのは、要するに「カントリー・レビュー(3)」等で述べた「ディキシー・チックスのアメリカ」のことなんだけどな。
 あとアメリカ国務省のバウチャー報道官が、日本の「支持」の意味を「戦後の平和維持と復興のみ参加すると表明」とわざわざ断わっているのは一体なんなんだ?
 そう言ってくれるように外務省が必死で頼み込んだんだろうよ。しかし俺としてはそれについてはあまり考えたくないよ。コンドリーザ・ライスの話のあとでは特にな。


2003/03/19 (対話-13)

 おい、君は今日(3/19)の『日経』の「経済教室」を読んだか。
 読んだよ。経済財政諮問会議のメンバーになってからの吉川洋の言ってることはよく分からなかったが、今回の提言(「経済再生 非伝統的手段も」)はいいと思ったよ。特に「インフレ目標政策」の採用が第一に挙げられている点がとてもいいよ。
 具体的には、「二年程度(二〇〇五年三月まで)の期間における「物価水準」上昇の程度(例えば三%)と、その後のインフレ目標(例えば二%プラスマイナス一%)をただちに設定すべきである」と明確に言われ、その方法として「マネタリーベースの適切な形での供給増加・・・(それ)は日本銀行が「資産」を購入する対価として行われる・・・(こうした)「非伝統的手段」を積極的に活用すべきである」と言われているよね。
 日銀審議委員の植田和男が3/17の『日経』の「経済教室」で、「資産デフレが問題の本質」と題された要するに相変わらず「何もしないこと」を正当化するような、とんでもない文章を書いていたからな。それに対する実に正当な反論という意味でも、また対イラク戦開始を目前にした実にタイミングのいい「緊急提言」として俺は高く評価したいよ。アーレントが言う意味での「公共精神」がここに生きていると思ったよ。
 いくら危機意識がまったくないように見える政府・日銀でも、これを無視するというようなことはないだろうね?
 それは分からないぞ。この前の「対話」(03/10)で俺は宮沢のことに触れたが、「平成の高橋是清」と言われた宮沢が経済の基本を知らないのには本当に仰天したからな(あるいは政府債務がらみの別の思惑があるのかもしれないが)。まあ「平成の高橋是清」なんていうのはマスコミの捏造だとしても(しかし高橋是清に対して失礼極まりない)、政調会長の麻生というのは日銀新総裁に行天豊雄を推薦していたそうだからな(麻生はもっとまともなやつかと思ってたよ)。俺が新聞で見た範囲で(正当にも)中原伸之を推薦していたのは幹事長の山崎拓だけだぜ。
 だいたい自民党の実力者と言われる連中が竹中を攻撃したりする時の、「学者は経済の実体を知らない」という言い方にはビックリすることがあるからね。俺たちもよく竹中を「攻撃」するけど、それは竹中の経済学の「誤り」のことを言っているわけだからね。しかしこの連中の言う「経済の実体」というのは完全にミクロ・レベルの話だからね。
 そうだ。もうミクロ・レベルの「経済の実体」なんてものは二の次の問題なんだってことが、政府・自民党の連中はまだ分かってないんじゃないかと俺は思うんだよ。この危機意識の欠如には本当に驚くよ。しかし今回の「緊急提言」のメンバーには伊藤元重も入ってるわけだからな。
 そうだよ。もっと「過激な」岩田規久男や野口旭が言っているんじゃないんだからね。これが採用されないようだったら俺は「キレる」よ。
 君の気持ちは分かるが、政府・日銀が動き出すには「もう一段の危機」が必要なのかもしれないよ。多くの国民にとってもいまのところこのデフレは「居心地がいい」わけだからな。
 しかしそれじゃもう日銀を含めた「政府部門」が存在する意味がないよ。吉川洋たちがそこではっきり警告しているように、このデフレが続いていったら(名目税収減の進行から)間違いなく財政破綻が待っているわけで、そうしたらあとはもう(国債暴落⇒通貨下落という経路で)ハイパー・インフレによる「解決」しかなくなるだろうからね。だから吉川洋たちの「緊急提言」を政府・日銀に採用させるようにつとめるのがわれわれの目下の「責務」なんであって、米英の対イラク戦に「反対の声を上げる」なんて完全にずれてるよ。足下の崩壊に茫然自失の状態で一体なに寝言を言ってやがる、ということだよ。こういう「一身の独立」(福沢諭吉)の根幹そのものが問われるところでも「外圧」がないと駄目なんだろうか?
 アーレントにならって「革命」でもやるか、おい。


2003/03/17 (対話-12)

 しかし君の人使いの荒さと身勝手さにはおどろいたよ。「ブック・レビュー(5)」のことだけどさ。俺を引っぱり出しておきながら、「君と話してるとしまりがなくなる」と来るからね。
 いや悪かった。このコーナー以外のところで君を引っぱり出すことは当分はしないつもりだ。いいアイデアだと思ったんだが、良くない面があることも分かったよ。まあしかし君は俺の分身みたいなもんだから、俺に文句を言ってもはじまらないんだけどな。
 まったく勝手な野郎だよ。でどうなんだ、その後ハンナ・アーレントの『人間の条件(The Human Condition)』の方は進んでるのか。
 少しな。それより「ブック・レビュー(5)」で言い足りなったことをここで言っておこうと思ってるんだが、君の方からなにかあるかな。
 いろいろあるけど、まずアーレントは「大衆(Mass)」と「人民(People)」をはっきりと別のものとしてとらえているよね。これはどういうことなんだ。
 それなんだよ。『革命について(On Revolution)』ではっきりと述べられているわけではないが、アーレントが「大衆」を「私的⇒社会的存在」としてとらえ、「人民」を「公的存在」としてとらえていることは間違いない。しかもアーレントにおける「大衆」が、ハイデガーにおける「世人(das Man)」の政治理論の水準におけるとらえ返しであることも間違いないと思う。
 それはアーレントの前提にハイデガーの『存在と時間』があるということかな?
 多分な。しかしここでアーレントの政治理論に一種の「組織論・運動論」の「影」が見られるのは面白いと思わないか? つまりアーレントは『革命について』ではっきりと述べているわけではないが、「大衆は人民にならなければならない」といった「要請」が「裏側」にあるということだよ。
 それじゃまるでマルクスかレーニンじゃないか。あるいは『歴史と階級意識』のルカーチかな。もちろんアーレントに「プロレタリアートの階級意識」といった考えがあるわけではないだろうが、少なくとも「大衆⇒人民」、あるいは「私⇒公」という「要請」が「裏側」にあるらしいということだね。
 そうだ。そしておそらくアーレントのこうした考えの根拠になっているのはローザ・ルクセンブルクと、それからやっぱりハイデガーだろうな。
 そうだよね。昔から「ルカーチとハイデガー」というような問題設定もあったしね。廣松渉あたりにもそういう発想が見られたよね。それにしてもルカーチの「自己批判」じゃないが、なんだかアーレントの革命論が「極左主観主義」に見えて来たね。
 そうだな。アーレントの母親のマルタはローザたちのスパルタクス団が蜂起した時(1919)、12才のアーレントを連れてスパルタクス支持のデモに参加しているそうだからな。それから「政治的立場」は別にしても、「先生」で「恋人」のハイデガーだってある意味では猛烈な「過激派」だったからな。しかし俺たちにとってより重要なことは、ここの文脈において《「共同性」から「公共性」へ》という転換(転回)が要請されているのかもしれないということだ。
 それはいいね。前にも言ったように(「つぶやき」2003/03/03)、俺は君の「ユートピア的共同性」という言い方に見られる考え方はおかしいんじゃないかと思っていたんだよ。アーレント的な言い方をすれば、「共同性」というのはあくまでも「私的」で「社会的」な領域におけるあり方なんであって、決して「公共的」なものではないだろうということだよ。
 そうかな? しかしアーレントは「人工的なものであり人間の努力の産物である」ところのギリシアの都市国家の公的領域の集合体のことを「共同体」と言っているんじゃないのかな。 
 調べてみた方がいいだろうね。日本語の訳語がそうであったとしても、きっとアーレントが使っているオリジナルの言葉は違うと思うよ。多分アーレントはヤスパースあたりを通じてマックス・ウェーバーのその辺の社会論をきっちり押さえているんじゃないのか。
 分かった。それはそれで調べてみるが、しかし更に重要なことは、このアーレントの考え方を踏まえると、俺が考えていた「群衆論」や「大衆論」も再検討を余儀なくされるだろうということだ。というのは、俺はPPMやビートルズが創り出した「60年代音楽空間」というのは、それはそれでひとつのMass現象だろうと考えていたんだが、どうもそうではなくてこれは人間のPeople存在によって創設・構成された空間・領域であるらしいということになるわけだ。
 ビートルズが捲き起こした現象はたしかにひとつのMass現象だと思うよ。俺が言っているのは、ビートルズが公演のために訪れた世界中の空港やホテルや演奏会場、それから『ヤァ! ヤァ! ヤァ!』や『ヘルプ』が上映された映画館で起きた「騒ぎ」のことだよ。しかしそうした「ビートルズ騒動」と、ビートルズが創り出した君の言う「60年代音楽空間」とは基本的には別の次元の出来事だということなんじゃないのか。
 俺が言っているのはそれとは違うことだよ。それを言えば(アーレントも書いているが)ハイデガーだって1919年にフライブルクの教壇にフッサールの助手として立ってすぐに「ハイデガー騒動」を捲き起こしているよ。つまりドイツ中の哲学の学生がハイデガーの講義を聴くためにフライブルクに押しかけているわけだ(多分アーレントもそのひとりだろう)。それは真に偉大なものの「宿命」みたいなもんだよ。俺が言っているのはそのことではなくて、「60年代音楽空間」それ自体もMass現象ではないかと思っていたんだが、どうもそうではないらしいということだ。
 なるほど。多分君はCrowd/Mob(群衆)とMass(大衆)の水準と次元の違いを日本語の語感にひっぱられていっしょくたにしていたんだろうね。しかも「群衆心理」になるとまた次元も領域も全然違って来るわけだからね。
 簡単に言ってしまえばそういうことだ。しかし「60年代音楽の空間」はどうもそれとは違うものらしいということだ。そこが押さえられれば今回は充分だろう。
 そこのところの「私(Private)⇒公(Public)」あるいは「大衆(Mass)⇒人民(People)」という「転回」と「変容」の「回路」と「機制」が分かると、君は少なくともルカーチを超えられるぞ。
 それが分かれば誰も苦労しないよ。


2003/03/10 (対話-11)

 前回君が言っていたハンナ・アーレントの『革命について』は進んでるかい?
 いま読んでるところだよ。あと残り2章だ。全6章からなる本だからあと3分の1といったところだ。しかし、もしタイトルにひかれて若い時にこの本を読もうとしていたら、すぐに放り出していただろうな。まずアーレントの関心の所在がほとんど理解できなかったんじゃないかな。
 そもそもアーレントは左翼じゃないんだろ?
 左翼じゃない。そして右翼でもない。これまでアーレントの本で俺が読んだことがあるのは『イェルサレムのアイヒマン』(みすず書房)ぐらいだが、彼女の反シオニスト的姿勢(つまりユダヤ人としての反右翼的姿勢)にはびっくりしたからな。
 アーレント自身はユダヤ人だよね?
 そうだ。しかしアーレントが『イェルサレムのアイヒマン』で批判しているのは、アイヒマンやナチスというよりも、むしろヨーロッパのユダヤ人社会の指導部だからな。これは多くのユダヤ人にとっては許し難い裏切りに見えただろうな。それだけではなく、東欧の人々などはナチスの「指導」などがなくても「自主的に」ユダヤ人を大量殺戮していた(それも数十万人という規模で)ということまでしっかり書いてるからな。
 それでアーレントは猛烈に叩かれたんだよね。
 そうなんだけど、俺はよく殺されなかったと思うよ。俺がもしユダヤ人でユダヤ人社会の指導部がどれほどひどいやつらだったとしても、ああいうことは書かないだろうな。いや恐ろしくて書けないよ。あと彼女の「アドルノ一派」に対する嫌悪も分からないな。だいたいアドルノはベンヤミンが信頼する友人(同志?)でもあったんだろ? アーレントのベンヤミンに対する「友情」とアドルノたち(?)への「嫌悪」は全然分からないよ。
 アーレントにはアドルノの『本来性という隠語』に集約されるようなハイデガー批判がお気に召さなかったんじゃないのか。アーレントは死ぬまでハイデガーを「愛して」いたみたいだからね。あの二人は17才も年が違うくせに(そもそもが教師ハイデガーと女子学生アーレントの関係だから)死んだのはほぼ同時期と来てるだろ。若いアーレントの方が半年早いのかな(アーレントが75/12/04でハイデガーが76/05/28)。
 まあそれもあるのかもしれないが、それだけじゃないよ。しかしアドルノが死んだ後にフランクフルト学派を率いる形になったユルゲン・ハバーマスになると、今度はアーレントの公共性という考え方を積極的に取り入れて行くようになるだろ。いったいあれはなんなんだよ。
 俺にも分からないよ。しかしフロムやマルクーゼといったアメリカに亡命した精神分析学派のからみかなにかでアーレントもフランクフルト学派に近いところにいたのかもしれないね。あるいはベンヤミンの関係なのかもしれないけど。
 それかもな。そこで「踏み絵」として持ち出されたのがハイデガーだったのかもな。だとしたらアーレントは怒るよな(怒って当然だよ)。しかしアーレントは「賢明」だったと思うよ。もし彼女がアドルノやホルクハイマーに「オルグ」されて、ハイデガーの影響下にあるようなものを捨て去っていたらどうなっただろうか?
 20世紀後半のロ−ザ・ルクセンブルクになっていたかもしれないよ。アーレントは左翼じゃないくせに相当に「革命的」な女みたいだからね。それがマルクス主義を受け入れたらもうローザの線しかないんじゃないのか(ローザもユダヤ人だし)。それはそれで「面白い」と俺は思うけどね。
 そうかもな。しかしアーレントについての「革命的」という意味は、ハイデガーの場合にも言えそうだよ。だいたいハイデガーのナチスへのコミットというのは実際はレーム的なもの、突撃隊的なものへのコミットだろ。レームと突撃隊(SA)がヒットラーに粛清された段階(1934)でハイデガーのナチスへのコミットは終ってるんじゃないのか。
 そうなんだろうね。あの悪名高い「ドイツ大学の自己主張」(1933)はほとんど「革命」のアジテーションだからね。もちろん偉大なるものへ向かってのドイツ民族の革命的決起への呼びかけなんだろうけどさ。要するに「ドイツ革命」の中核部隊としての突撃隊(SA)への結集の呼びかけだよね。あのハイデガーの「ケーレ(転回)」というのもそれと関係がありそうだね。
 多分な。それからアーレントは60年代後半の世界的な革命的激動には批判的だったらしいが、ハイデガーは68年パリの「5月革命」を熱烈歓迎したと見られるふしがあるからな。
 ホントかよ。たしかにブランショやデリダやフーコーといったハイデガーの「フランスの弟子たち」はそれに積極的にコミットしたんだろうけど、ハイデガー自身はどうかな。
 俺はパリ・コンミューン(1871)を熱烈歓迎したマルクスと同じだと思ってるよ。もちろん意味合いはかなり違うだろうけどな。つまりマルクスが熱烈歓迎したのは「革命そのもの」だが、ハイデガーが熱烈歓迎したのは「革命精神」の方だというような違いだけどな。
 それはもう決定的な違いだよ。当時日本の保守的な大人たちだって新左翼の学生に向かって「君たちの気持ちはよく分かる」なんて言っていたじゃないか。
 そんなレベルの話じゃないよ。いまそんな話をしてもあまり意味がないが、少なくともアドルノや丸山真男が60年代後半の「学生反乱」を典型的な「群衆現象」と見なしてこれを「抑え込もう」としたのと、それとは違うスタンスで熱烈歓迎しつつそれに対していたらしいハイデガーとの違いというところから考えていかなきゃ話にならないよ(丸山真男と同様、アドルノも警察に「介入」を要請しているんだろうか? しているんだろうな、きっと)。
 なるほど。しかし君は「右翼」だというのになんだってそんなに「革命」が「好き」なんだ?
 何度も言うように俺は「右翼」じゃないよ。しかしそれにしても「政治的立場」の違いというのは一体なんなんだと思わざるをえないよ。君の言う通りたしかに俺は「革命」が「好き」だが、「世論が間違うこともある」という素晴らしい言葉(アーレントならもっとあけすけに「世論とはすべての<意見>の死であり、世論の支配とはすべての<自由>と<公共精神>の死である」と言っただろうが)を吐いてくれた小泉も「好き」と来てるからな(先の日銀新総裁人事はいただけないが)。
 一種の精神分裂なんじゃないのか。
 違うと思うよ。百歩譲ってもしそうだとしたら俺は「精神分裂万歳!」と叫ぶよ。
 叫んだらいいんだよ。そう言えば昨日(03/09)の『朝日新聞』に日銀新総裁人事の「裏話」が出ていたね。
 ああ。もしあそこに書いてあることが本当だとしたら、宮沢は万死に値するよ(伊藤元重が3月3日の『日経』の「経済教室」で宮沢のあの言動を痛烈に批判してたけどな)。しかし『朝日』なんかいまやらなくてはならない「インフレ・ターゲット政策」と、いずれ財務省主導で政府債務圧縮のために採用するであろう(つまりいまやってはならない)「調整インフレ」の違いも分からないような馬鹿新聞だからな。書いてることが支離滅裂だからな。
 しかし反ケインズ派の(つまり新古典派経済学の)竹中がインフレ・ターゲット政策を主張しているというのは笑えるな(もうやぶれかぶれなのかな)。
 あまりにも馬鹿馬鹿しくて笑う気にもなれねえよ。ともかく、君の言う「精神分裂」についてはいずれ「説明」する必要があるんだろうが、いまはその用意がないよ。ハンナ・アーレントの『革命について』に触れるところで少しは語れることがあるかもしれないが。
 とにかく楽しみにしているよ。

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