管理人のつぶやき(4)


2003/06/14 (対話-24)

 前回の「対話」の続きになるけど、「構造改革主義」や「市場第一主義」と名づけられような新古典派経済学系のイデオロギーが日本の経済世論の「主流」なったのは、やっぱりソ連・東欧社会主義の崩壊という出来事が決定的だったんじゃないだろうか?
 それは言えるかもな。しかし、その前のイギリスのサッチャリズムやアメリカのレーガノミクスと並行して進められた中曽根内閣時代の国鉄・電電・専売公社の民営化に代表される新自由主義的政策をあと押ししたのも、同じ反ケインズ主義の新古典派経済学のイデオロギーだったよね。
 たしかにね。俺は当時そうしたことにほとんど関心がなかったからよく覚えていないんだが、あの時もマスコミは「国民にツケをまわすな」というような反財投機関キャンペーンを展開していたよね。他方ではまた、第二次臨調座長の土光敏光をヒーローみたいに持ち上げていた記憶もあるよ。
 そうだったな。ではそこに経済学的なバック・グラウンドがあったのかと言うと、それはかなり怪しいよね。それより、60年代から70年代にかけての経済成長がもたらした「一億総中流化」とその意識がそれを促進したという面の方がずっと強いんじゃないのかな。つまりその段階に至って、占領軍の「ニュー・ディーラー」たちが創った戦後日本経済の枠組みが多くの日本国民にとって「うっとうしいもの」と感じられるようになって来たという事情があるんじゃないのかな。そこに、70年代から80年代にかけての日本国民とマスコミによる「春闘叩き」、「労組叩き」の背景があったということでもあるわけだが。そうした国民意識の「個人化(個別化)」と「保守化」というミクロの事情が、戦後日本経済の成長を支えて来たマクロの枠組みと齟齬をきたすようになって来たということなんじゃないのかな。
 君が言っているのは、要するに戦後の経済成長がもたらした「一億総中流化」とその意識が「私」の領域から「公」を放逐してしまったということかな? つまり加藤典洋の言葉を使えば、「私利私欲」の意識が「公益」や「国益」の意識を押しのけて第一義的なものとなったということかな?
 まあ取り敢えずはそう言ってもいいのかもしれない。しかしそれを言えば、80年代の始め頃(だったかな?)に吉本隆明と埴谷雄高の「論争」があったじゃないか。そこで吉本隆明は、埴谷雄高的な自称左翼の革命派ではなく、『アンアン』や『ノンノ』の読者でもあるような日本の若い女性たちを断じて支持するというようなことを言っていたよね。つまり俺が言いたいのは、新古典派経済学とそのイデオロギーが日本の経済世論の「主流」になったのには、それなりの歴史的背景があったということだ。しかし、まさにそれこそが「経済決定論的」な現象にほかならなかったわけなんだけどね。

 なるほど。しかしいま君が言ったような議論のレベルでは君は加藤典洋や吉本隆明を支持するんだろ?
 それはなんとも言えないよ。と言うのは俺は埴谷雄高の「言い分」を読んでないからね。しかしまあそういうところで吉本隆明が「間違う」などということはありえないような気がするけどね。
 加藤典洋についてはどうなんだ?
 「立国は私なり、公に非ざるなり」という福沢諭吉の言葉を俺に教えてくれたのは加藤典洋だからな。だから文部省や新しい歴史教科書を作る会などの言う「公益」や「国益」に対して断じて「私利私欲」を擁護するという加藤典洋の「動機」についてはよく理解できるよ。
 なるほどね。「動機」についてはね。
 そうだ。「動機」についてはだ。言うまでもなく人間は「公的領域」へと関わって行くことなくしては「人間的」に生きることのできない生物だ。それがハンナ・アーレントの言う「人間の条件」というものだ。「類的存在」というマルクスによる人間規定も同じことを言っているはずだ。同時に、60年代以降の日本における「大衆(消費)社会」の成立(もちろんこれは人間及びその生活単位をアトム化して、その「個人化(個別化)」と「私化」を促進する)ということも、われわれにとっての歴史的所与であるということだよ。
 なるほど。その君の言う「大衆(消費)社会」の成立というわれわれにとっての与件は、ある意味で階級社会的条件を前提にしたようなケインズ主義的介入主義とは適合的ではないよね。
 まあそう見えるだろうね。つまり、歴史上の(オリジナルの)ケインズ主義は階級社会とともに国民経済(とその政府)というものを前提にしているように見えるということだよ。だからユーロ導入を先送りした先のイギリスの決定を「理論」面でサポートしたのは、明らかにケインズ主義的発想だろう。逆にユーロに見られる単一通貨圏などといった発想は反ケインズ主義の最たるものだ。それはクルーグマンなどのケインジアンが言うように、政府による金融政策の放棄とセットになっているわけだからね。つまりグローバリズムだのグローバル経済だのといったものとケインズ主義とは適合的ではないと言えるということだよ。
 要するに社会的・経済的強者にとってはケインズ主義的発想は「迷惑」以外のなにものでもないということだろう? 話を戻すと、加藤典洋のように「私利私欲」を擁護したり、吉本隆明のように『アンアン』や『ノンノ』の読者を擁護したりというのは、結局のところ「持てる者」が多数派となった日本の「大衆(消費)社会」の擁護ということになるんじゃないのか。
 その通りだよ。そもそもケインズ主義には、圧倒的多数派であり、なおかつ生産性そのものの基底であるところの労働者(「持たざる者」)、言い換えれば経済と社会の「主人公」である労働者階級というものを断じて擁護するという発想が根底にあるわけだよ。ひいてはそれが資本家階級と国民経済の利益にもかなうことになるわけだからね。つまり、その意味ではケインズ主義が前提にしている経済と社会は、日本みたいな先進国から見ると少し古いように見えるんだよ。

 なるほどね。そう言えば昔の経済学者というのは社会主義者が多かったもんな。アダム・スミスあたりは例外なのかもしれないけどね。
 そういうことだ(アダム・スミスのことはよく知らないが)。ケインズは保守党でも労働党でもなく自由党の支持者だったわけだから、社会主義者であったとはもちろん言えないが、なによりもまずは労働生産性、そして資本生産性の擁護者であったということだ。因みに言えばマルクスだって労働生産性と資本生産性の擁護者であったことは間違いない。レーニンやトロツキーでも同じだよ。マルクスの言う共産主義社会というのは「豊かな社会」を絶対的な前提にしているわけだからね。エンゲルスなどがマルクスと自分らの社会主義を「科学的社会主義」と言っているのは、貧者の社会主義などというものはありえない、という考えがあったからだよ。
 なるほどね。そこからケインズはマルクスの徒であったという君の考えが出て来るわけだ。
 ちょっと違うよ。俺が以前そう言ったのは、両者における「必然の王国から自由の王国へ」という発想の共有という文脈からだよ。つまり、いわゆる先進国においてどれほど「豊かな社会」が実現したように見えたとしても、それが「必然の王国」における出来事であるかぎり、いつなんどき恐慌やハイパー・インフレ、そして一部の社会的強者の収奪によって壊れてしまうか分からないということだよ。
 そこに「ケインズは死んでなどいない」という君の主張が出て来る根拠があるわけだ。
 そういうことだ。上にも言ったように、怖いのは恐慌やハイパー・インフレだけではないということだよ。一部の社会的強者の収奪だって猛烈な経済的・社会的破壊機能を持っているわけだよ。それによって「豊かな社会」が破壊された例を見たかったら、70年代以降のアメリカ合衆国を見ればいいわけだよ。そのあたりの事情についてはポール・クルーグマンの『経済政策を売り歩く人々』(日本経済新聞社)の第5章にしっかり書かれているから、これは日本国民必読の書であるとも言えるだろうね。
 つまり新古典派経済学というのは、一部の社会的強者によるその他の者に対する収奪を正当化する経済学だということかな?
 ミルトン・フリードマンやロバート・ルーカスたちの「意図」はともかくとして、「機能」としてそういう面を持っているといことは間違いないんじゃないのかな。
 なるほどね。つまり、「豊かな社会」と言おうと「大衆(消費)社会」と言おうと、そのままではそれはいつまた深刻な不平等をともなう「階級社会」に逆戻りするか分からないということかな?
 経済と社会(あるいは政府)がそのための防衛機能を持たないかぎり、そうした逆戻りはむしろ「必然」であると言うべきだろう。日本の「豊かさ」が不可逆のものだと思い込むのは勝手だが、それは一種の幻想でしかないということだよ。「良きアメリカ」と「豊かな社会」が壊れ去るのを目の当たりにしたポール・クルーグマンの「証言」と「警告」は、看過するにはあまりにも重大だということだよ。話が飛ぶかもしれないが、その意味で言うと加藤典洋も吉本隆明もかなり「軽率」であったとは言えるかもしれない。日本の「豊かな社会」や「大衆(消費)社会」も、いまや風前のともしびのように見えるからね。もちろんそう言うからといって、デフレの克服ということが当面する最優先課題であることに変わりはないけどね。


2003/06/05 (対話-23)

 君が先週アップしたポール・クルーグマンの『経済政策を売り歩く人々』のレビューから始めようと思うんだけど、相変わらず君の文章の終り方は強引だね。
 俺は文章を書いてカネを取るプロじゃないんだからね。好きなように始めて好きなように切り上げているわけだよ。特にあの文章の場合はクルーグマンの本を肴にして言いたいことを言っているわけで、だから言いたいことがなくなったところで終っているわけさ。
 それは君の勝手だろうが、少なくとも「マクロからミクロへ」というアメリカの新古典派経済学のベクトルが何故「反革命」と言えるのか、ということぐらいは言っておく責任があるんじゃないのか。
 もちろんそれはそうなんだが、実はこのコーナーを作ったのもそういう補足的なことを言うためなんだ。だからそういうことはここで訊いてくれればいいんだよ。で、いまの君の質問に対してはいろいろな答え方がありうると思うんだが、まずは、経済の領域における「自由(放任)」というものが、時として恐慌やハイパー・インフレといった際限のない暴力や災厄をもたらす、ということを明らかにしたのがケインズであったことを認めるかぎり、必要に応じて政府がこの「自由(放任)」に制限を課したり、市場に介入して「自由(放任)」の状態が向かうのとは逆方向へのインセンティブを与えるといった意味でのマクロ政策や独占を排除するなどの制度そのものに反対するだけでなく、これを否定してしまうというのは明らかに「反革命」だということだよ。こんなことはいまさら言うまでもないことだと思うんだが、ここ20年ぐらいのあいだの新古典派経済学系のイデオロギーの浸透ということを考えると、そういった「常識」自体が日本の社会から消えかかっているような気もするね。
 そうだね。俺たちがガキの頃は君が書いていた「ニュー・ディーラー」的なものの考え方とそれを踏まえたオプチミズムが日本社会に溢れかえっていたからね。だから現代の医療が天然痘や結核を制圧したように、現代の社会はもう恐慌やハイパー・インフレを制圧したんだという「自信」のようなものさえ感じられたよね。
 そういうことさ。そしてその「自信」を与えたのがケインズ経済学だったわけだよ。

 しかも日本の場合、その「自信」は占領軍の「ニュー・ディーラー」たちが設計して創り上げた「戦後民主主義」及びそのイデオロギーと分かち難く結びついてさえいたから、とりわけ強力だったんじゃないのか?
 そういうことだ。俺たちがガキの頃に受けた教育には、経済の発展は世界平和を築くための最強の武器だというような(明らかにマルクス主義の影響を受けた)理念さえ含まれていたような気がするね。それを経済的啓蒙主義と名付けてもいいのかもしない。それから1960年代ぐらいまでは戦前の恐慌や終戦直後のインフレの記憶が国民的レベルでまだ鮮明に残っていたという事情もあったはずだ。要するに歴史の継続の感覚と、歴史とのダイナミックな関わりが生きていたということだよ。君が言った「戦後民主主義」とそのイデオロギーについて言えば、そこに含まれるケインズ主義(的介入主義)を含めてその歴史的役割を終えてなど「いない」と俺は考えているが、それをアメリカ占領軍に「押しつけ」られたものだとするような認識は極めて一面的だよ。この俺の認識は、大東亜戦争のすべてを歴史的所与として断じて「受け入れる」こととなんら矛盾しないよ。ここにはねじれなど何もないはずなんだ。
 へえ、そうなのか。君は政治的には「右翼」の天皇主義者のくせに、経済のことになるとどういうわけか「左翼」になるんだよな。そのねじれは一体どういうことなんだ?
 何度も言うように俺は「右翼」じゃないよ。天皇主義者ではあるのかもしれないが。だったら「右翼」じゃないか、と条件反射みたいに言うのはあまりにもナイーブというものだよ。まあそれはさておくとして、クルーグマンの本のレビューでも言ったことだが、ねじれているのは「左派」ジャーナリズムや田中康夫や村上龍の方だよ。しかしその前に「戦後民主主義」とそのイデオロギーについて言っておくと、それが多くの日本国民にとっては「戦争の継続」を生きるための条件であったことを忘れたら、その圧倒的に強力な(三国干渉の後の「臥薪嘗胆」の時期をも遥かに凌ぐ)エネルギーを理解することなどできないはずだよ。そこにリベンジとキャッチ・アップ(「追いつき追い越せ」)の意識(と無意識)が強く働いていたことはたしかだろうと思うが、そのエネルギーを国民的レベルで経済の発展に集中できたということ自体がほとんど奇跡みたいな出来事だったんじゃないのか。その基礎になったのが日本における技術革新と労働生産性の飛躍的な向上であったわけだが(これは「ニュー・ディーラー」たちが創り上げた「日本的雇用制度」なくしてはありえなかった)、この事実の凄さは、第二次大戦後の欧米の高度経済成長が1970頃に終っているのに対して(周知の通り欧米は70年代以降スタグフレーションに悩ませられた)、日本経済は更に20年も「高度成長」を続けることができた(60年代的な「超」高度成長ではもうなかったが)という事実からも理解できるはずだ。その意味では、日本における「ニュー・ディーラー」の「偉大さ」はどれほど強調しても強調しすぎるということにはならないはずなんだ。

 なるほどね。もちろんそういう「戦後民主主義」の理解も分かるが、やはりそれは経済から見た一面にすぎないのではないのか?
 そうなのかもしれない。しかし「戦後民主主義」がアメリカ占領軍の「ニュー・ディーラー」の置き土産であり、それを日本国民が「逆用」して史上空前の経済成長を実現した(つまりそういう仕方で敗戦のリベンジを果たした)という戦後日本の「実質内容」を忘れたら、少なくとも俺にとってはまったく意味がないね。つまり、重要なのは「戦後民主主義」とそのイデオロギーの「意識」の方よりも、むしろそこに体現された日本人の巨大な「無意識」の方だということだよ。そうであってこそ「戦後民主主義」は実質的なものたりうるということだよ。だからそうした「戦後民主主義」の理解を社共(社会党・共産党)のイデオロギー・レベルの「戦後民主主義」と並べてみればいいんだよ。言うまでもなく、60年代の後半によく言われた「戦後民主主義の終焉」というのは社共的イデオロギーやそのバリエーションでしかないものの終焉ということだよ。
 分かった。君の言うのはいわゆる「吉田茂の逆説」と言われるものを別の言い方で言っているようにも聞こえるけど、それだけではなく、もっと積極的に戦後の日本経済の枠組みを創ったのは実はケインズ主義だったんだと言っているようにも聞こえるね。
 そうだよ。「ニュー・ディーラー」たちの戦後改革というものは経済的な構造・制度改革の面からも捉え返されなければらないわけだが、それがきちんとなされれば俺が言っていることの「正当性」が裏付けられるはずだよ。しかもそれはロシア革命の「余波」としても捉え返されなければならないはずなんだ。つまり戦後改革では、いま「世間」で言われる「構造改革」とはちょうど逆向きの改革が行なわれたはずなんだ。だいたい戦前の日本経済はほとんど「自由(放任)経済」だったじゃないか。これに対して、財閥を解体したり独占を排除したり労働者の権利を確立・強化したりなどの「規制の強化」という方向の戦後改革が、逆に未曾有の経済成長をもたらしたということの意味を少し考えてみたらいいんだよ。「開発主義」や「産業政策」の面からも戦後の日本経済はもの凄い経験や知見を含んでいるはずだよ。この辺がまだきちんと整理・理論化できていないとしたら、それは日本の経済学者の怠慢というものだろうな。
 つまり、占領軍の「ニュー・ディーラー」たちは経済を理解していたが、カレル・ヴァン・ウォルフレンや野口悠紀雄は経済を理解していないということかな?
 それをいま論証することはできないが、結論から言えばそういうことだ。「ニュー・ディーラー」たちがケインズ経済学を深く理解していたとまでは思わないけどね。しかし彼らはシステムとしての「ビルト・イン・スタビライザー」というものについては一定の理解を持っていたらしい。

 いずれにせよ、ウォルフレンや野口悠紀雄が理解している経済学は新古典派経済学だということだね?
 そうだろうと思うよ。彼らの自己理解では彼らは政治的には「左派」になるはずなんだが、この日本における政治的立場と経済認識レベルのねじれはひどいもんだな。
 君の場合は彼らとはちょうど逆だね。マルクス風に言うと上部構造(政治)のレベルでは「右翼」のくせに、下部構造(経済)の理解になると断然「左翼」だからね(ケインズ的介入主義を「左翼」と言うのは日本的感覚からするとちょっとおかしいけどな)。それはなんか意味があるのかな?
 知らないよ。言えることがあるとすれば、俺は一種の啓蒙主義者ではあるだろうということだ。それから考え方について言えば、思考の結果にすぎないイデオロギーみたいなものはまず信用しないということだ。俺が信用するのは基本的に俺自身が理解した諸「事実」、そしてそれらに基づく推論、及びその結果だけだということだよ。だからいまの「左翼」や「右翼」を含めた「世論」とねじれの方向が逆向きになっているという事実を、俺としては満足すべきものだとは思っているよ。
 それにしても、ここまで「世間」から啓蒙主義的志向が希薄になったことはなかったんじゃないか?
 そうでもないだろう。遅まきながらいま日本のケインジアンたちは正論を吐いてるし。それも「失われた10年」の「効用」のひとつだろうと思うよ。いずれにしても、「マネタリズム」や「合理的期待形成理論」が日本の経済思想(思潮)に与えた影響というのは強力なものがあったらしいな。
 日本の場合は官僚批判や公共事業批判や放漫財政批判といった文脈から来るムード的な(その意味でまったく見当はずれの)反ケインズ主義じゃないのか?
 どうなのかな。もちろんバカのひとつおぼえのように「構造改革」(「特殊法人改革」、「規制改革」等々)こそが日本経済再生のカギであると主張する連中(野口旭の言う「構造改革バカ」)の場合はそうなんだろうけどね。しかしそれを首尾一貫した理論にまとめ上げることができるのは「市場の効率性」というものを出発点にすることができる新古典派経済学だけだよね。
 そこまで理論を突き詰めることができるのはプロの経済学者だけだよ。そうでない場合は「時事・言論レビュー(1)」で君が批判していた吉本隆明がいい例じゃないか。それにしても、吉本隆明といい、柄谷行人といい、日本の「左派」の連中の経済認識は壊滅的だね。一体マルクスから何を学んだんだろうな、彼らは。
 たしかにひどい話だな。いずれにせよ、「反革命」と「動物化」(東浩紀)の経済学にほかならない新古典派経済学に対して最大・最終の「鉄槌を下す」ことが俺たちのこれからのテーマになるわけだ。


2003/05/23 (対話-22)

 前回の対話で、君は「マルクスが経済現象を理解することを主戦場にしたこと」云々ということを言っていたが、『資本論』に集約されるマルクスの経済学というのは、本当は「経済学批判」だろう?
 多分そうなんだろうね。「多分」と言うのは、実はよく知らないんだ。前回も言ったように『資本論』について言えば、俺は読み始めてすぐに放り出しているわけで、それが商品や貨幣の分析から資本主義の経済と社会の全体的な理解が目指されているらしいことが分かっただけで、それ以上のことはなにも知らないんだ。
 それにしては確信を持ってしゃべっていたじゃないか。
 俺が確信を持って言えるのは、『資本論』の前の『経済学批判序説』でマルクスが確かに「土台」とか「下部構造」という言い方をしているということだよ。それから、そういう言い方が『ドイツ・イデオロギー』(マルクスが自身の思想のエッセンスを略述した著作)の延長上に出て来るのもよく理解できるということだ。マルクスのいわゆる唯物論というのは、人間の社会的存在様式(これが即ち「土台」であり「下部構造」であるわけだが)が言語や意識のあり方を規定しているのであって、その逆ではないというものだ。そうであれば、そこから現実の資本制社会のあり方の理解に進むというのはよく分かるということだよ。
 なるほど。君にとってのマルクスというのは、要するに『ドイツ・イデオロギー』のマルクスのことなんだね。そういうことなら、ケインズがマルクスの徒だというのも分からないではないな。
 だろ? もちろんマルクスとケインズでは経済現象の理解に向かう動機はまったく違う。言うまでもなくマルクスの場合は資本制経済の問題というもの(とりわけそこにおける「賃金奴隷制」)を根底的に批判するのみならず、これを現実において乗り越えて行こうというところにある。それに対して、ケインズの場合はいわば経済の病気を診察し予防し治療するという動機から経済現象の理解に向かっているわけだ。この動機の違いが経済現象の理解に当たっての視角の違いをもたらしてもいる。つまり、マルクスにとって恐慌が歓迎すべきものである(それが大衆蜂起⇒プロレタリア革命を招き寄せる故)のに対して、ケインズにとってそれはマクロ経済政策によって治癒すべきものとなる。
 つまりその動機の違いによって、資本制の経済・社会を「救う」ことを目的としたマクロ経済政策などというものはマルクスからは出て来ようもないということになるね。
 そういうことだ。しかし、@いわゆる「賃金奴隷制」が資本制経済・社会の根底的問題であり、A「賃金奴隷」たちがそれの現実的廃棄を主導して(いわゆるプロレタリア世界革命)、B万人が経済と社会の主人になるということ(共産主義社会の実現)、これがマルクス主義の「内容」なのだとしたら、それを支持することはできるにしても、いまだったらプロレタリア世界革命という道は取れないだろうな。だいたいリスクが大き過ぎるよ。というのは、それはスターリニズムのような怪物を生み出す可能性が極めて高いということだ。

 それよりもケインズがやったような経済現象の理解から、経済現象が生み出す様々な錯視・錯覚・錯綜・錯乱等々を解明して行くことの方が現在においてはより「マルクス主義的」と言うべきなのではないか、ということだろう、君が言いたいのは?
 つまりはそういうことなんだが、あんまり先廻りするなよ。君も知る通り、俺が前回引用した「必然の王国から自由の王国へ」というのはマルクスの言葉ではなくエンゲルスの言葉(『空想から科学へ』)なんだが、俺にとしてはこれほどマルクス主義のエッセンスを捉えた言葉はほかにはないと言いたいよ。これをマルクス主義の基準とすることができるとすれば、俺はマルキストであると自称してもいいよ。
 君としてはもちろんそうなんだろうけど、それだけじゃ誰も君がマルキストであると認めるわけがないよ(ケインズ主義者であるには充分なのかもしれないが)。だいたい君は4月17日の対話で「断固たる革命のテロルなしに勝てると思うのか」というレーニンの言葉をマルクス主義の「神髄」だと言っていたじゃないか。その言葉はプロレタリア世界革命の遂行に向けられた言葉じゃないか。
 確かにそうだよ。だから俺はそのレーニンの言葉を、マクロ経済政策の責任者・実務者向けに「断固たる政策の発動なしにデフレに勝てると思うのか」と言い換えたわけだよ。つまり俺としてはそのレーニンの言葉の「精神」を救い出したいわけだよ。上にも言ったように、マルクス主義に積極的な意味を認めることができるとすれば、それが「必然の王国から自由の王国へ」という人間にとっての究極のテーマを体現しているかぎりにおいてであるということだ。もしそうでないのなら、マルクス主義なんか投げ捨ててしまえばいいわけだよ。言い換えれば、1970年代以降いろんな人がマルクス主義をその究極の可能性において救い出そうとしているわけだが、もしそれらがそういうものでないとすれば、俺としてはそれらをまったく認めることができないということだ。
 なんだか党派闘争めいた話だね。
 だいたい「マルクス主義の再建」というオプションもありかな、ということを言い出したのは君の方だよな。だから俺も君の期待に答えてみようか、と思ったわけさ。もちろんそれだけではないわけで、『ドイツ・イデオロギー』のマルクスほど広大で深い思考の可能性を提示しえた思想家は二人といないだろう、というのが俺の昔からの予断でもあったわけだが、それを思い出させてくれたのが君の上の言葉であったわけだ。
 そうであれば、『ドイデ』についての君の解釈を聞かせてくれなきゃ話が始まらないじゃないか。
 もちろんそうなんだが、いまさら『ドイデ』でもないだろ? 20世紀においてマルクス主義が「全世界を獲得」してしまったのは、『ドイデ』の持つ射程の大きさに依っていたとも言えるわけだが、『ドイデ』においてマルクスが述べていることはいわば現代の「常識」に類することじゃないか。そうであるかぎり、むしろケインズ派の経済学やハンナ・アーレントに即して考えて行ったほうがずっと面白いと思うんだよ。
 なんだかそれは君の逃げのような感じがするけど、それならそれでもいいよ。それより次回からはもう少し実のある議論を展開してもらいたいよ。


2003/05/16 (対話-21)

 前回の君との日本経済についての対話では、ちょっと話が噛み合っていないところがあったような気がするよ。そこのところを少し整理しておきたいんだが、君の言う「「構造改革」だの「不良債権処理」だのといった没経済学的な無駄話」というのはそもそもどういう意味なんだ。
 なんだ、そんなことも分からないで話をしてたのか。君は知っているはずだが、いわゆる「構造改革」というのは中味が定義されていないんだよ。ためしに10人のエコノミストに「構造改革」とは何か、という質問をしてみたらいい。10人が10人とも違う回答をするだろうから。その中でいちばん多いのは「公共投資の無駄を見直す」とか「特殊法人改革」とか「規制改革」といったような意味の回答だろうが、本当の意味は誰にも分かっていないはずだ。と言うのも、それらはすべていま必要なマクロ経済政策とはなんの関係もないからだよ。
 本当になんの関係もないのかな。
 本当だ。ネバーだ。例えば「構造改革」の意味が「公共投資の無駄を見直す」ということなら、それはむしろ政府部門を含む個々の(ミクロの)経済主体のテーマになるわけだよ。それに如何なる「無駄」にせよ、失業者を生み出す以上の「無駄」はありえないからね(この点については「時事言論レビュー(2)」を是非参照して欲しい。但しそこでは金融政策への言及がない。いまではマクロ経済政策が財政政策と金融政策の二本の柱からなることは俺もよく理解しているが)。「特殊法人改革」についてもまったく同様だ。だいたいそれらはマクロ経済政策としては、景気の加熱を抑える方の政策なわけだよ。つまりそれは景気の底が見えなくなっているいま、マクロのレベルではまったく意味のない政策であるということだ。更にそれが「規制改革」という意味だとしても、それはいまの日本のマクロの経済政策とはほとんど関係がない。むしろ「規制改革」はデフレを促進する側面の方が強いだろう。だからそれは、70年代から80年代にかけてスタグフレーション(不況下のインフレ)が進行していた時期のアメリカやイギリスにおいて有効な政策だったわけだよ。いずれにしても、デフレからの脱却が最優先課題であるいまの日本のマクロ経済政策とは関係がない(だから小泉内閣だって「改革なくして景気回復なし」というスローガンを、「改革なくして成長なし」に変えたじゃないか。せこい話だが)。「不良債権処理」については、それもまた個々の経済主体(銀行)の問題であるとともに、むしろそれはデフレを促進する政策だから、いま採用すべきマクロ経済政策ではないということだ(但し、もしそれが「時事言論レビュー(3)」で触れたような、斉藤誠の言う「国民負担による最大・最終の損切りによって失意の時代に終止符を」といった内容のものであるならば、言うまでもなく大歓迎なわけだが・・・)。いずれにせよ、これらすべてが「没経済学的な無駄話」だということだよ。ここに見られる混乱は、マクロの経済政策をミクロ政策の類推から考えて行くという、マクロ政策の担当者が犯してはならない誤りから来ているんだろうけどね。と言うか、マクロ経済政策というものについての理解や認識がそもそも社会的に欠如しているというところから来ているのかもしれないが。

 なるほど。たしかにいま君が言ったようなことは、ポール・クルーグマン(スタンフォード大教授)や小野善康(阪大教授)といったケインズ派の経済学者があちこちで言って(書いて)いることだよね。それは俺も分かってるよ。しかしどうして小泉内閣は「改革なくして成長なし」というマクロ経済政策とは関係のないスローガンを撤回しようとしないんだろう?
 それは総裁選の時の「公約」にもかかわることだから撤回することができないんだろう。だいたい小泉はそれがマクロ経済政策であるという認識はまったく持っていなかったはずだ。それを小泉内閣のマクロ経済政策であるかのように勝手に解釈してしまったのは「経済学を知らないエコノミスト」や「マスコミ世論」の方だよ。そのことに逆にびっくりしたのは小泉の方だったのかもしれないね。なにしろ「郵政三事業の民営化」というのは小泉の以前からの(恐らくは経済政策とはなんの関係もない)持論だったんだからね。つまりそれは「経済の問題」というよりも、はじめから「政治の問題」だったということだろう。小泉がマクロ経済政策についての正確な認識を持ったのは比較的最近のことだと思うよ。
 そうなんだろうね。君は小泉には甘過ぎるような気がするが(小渕恵三にはもっと甘かったかな。小沢一郎に至っては「氏」を付けるからな、君は)。しかしその「政治の問題」に、どうしてマクロ経済政策の責任者だった速水優がコミットしたんだ? 「構造改革」を遅らせるとかなんとか言って、いっそうの金融緩和を主張する審議委員の中原伸之に一貫して反対していたんだろう?
 速水の時代の日銀の政策決定は俺には全然分からないよ。多分デフレという事態が理解できなかったんだろう(「良いデフレ」などというリチャード・クーみたいなことも言ってたしな)。
 理解できなかったで済ませられるのかね。
 済ませられないだろう。だから山崎拓の推薦を受けて、小泉は新しい日銀総裁に中原伸之を据えることを真剣に検討したことは間違いないと思うよ。その詳しい経緯は知らないが、結局日銀新総裁は中原伸之ではなく福井俊彦に落ち着いたわけだ(多分2月24日の「対話-7」で俺が言った事情で)。そして前回も言ったように、いままでのところ福井俊彦はよくやっていると思うよ。

 なるほどね。前回の君との話が噛み合わなかったのは、君が「経済の問題」と「政治の問題」とを分けて考えているということがよく分からなかったせいかもしれない。更に頭が混乱して来るのは、竹中平蔵は経済学者のくせに、「経済の問題」を語っているふりをしながら、閣僚(政治家)として「政治の話」をすることだよ。この前のテレビ朝日の「サンデープロジェクト」では、カルロス・ゴーンにエールを送られてニコニコしてたからな。
 ミクロ経済主体のトップであるカルロス・ゴーンと、マクロ経済政策の責任者である竹中大臣を一緒に呼ぶというのはいかにもマス・メデイアらしいとは思うが、しかしそれはほとんど「犯罪」だよ。というのは、ケインズのいわゆる「合成の誤謬」を持ち出すまでもなく、ミクロの経済主体が取り組むべき方向とマクロ経済政策の方向とは不況下においてはだいたい「逆向き」になるからだよ。つまり俺が言いたいのは、君がいま言った混乱や錯綜が、経済をめぐるいまの日本のイデオロギー状況そのものだということだ。しかし「経済の問題」と「政治の問題」の混乱や錯綜を腑分けすることはそれほど難しいことではないんじゃないのかな。
 そうかもしれないね。
 ややこしいのは、いわゆる「合成の誤謬」の問題、そして竹中大臣に代表されるようなシカゴ学派の流れをくむ新古典派経済学(この学派はマクロ経済政策というものを「有害無益」と考えているふしがある)が日本の「経済世論」の前面に出て来ていることだ。もっと言えば、シカゴ学派のマネタリストや合理的期待形成学派によってケインズが一度「殺された」ということがあるよね。たしかにケインズ理論を「不況の経済学」とか「公共事業の経済学」としてのみ捉えれば、当たっている面もあるかもしれないが、もちろんそれはケインズ理論の一面、つまりマクロ経済政策面での応用編でしかないだろう。しかしいまの日本においては、4月17日の対話で引用したメルロ=ポンティのマルクス主義についての言葉をもじって言えば、「ケインズ派の経済学の外には、経済現象の圧倒的暴力と、それに対する人々の絶望しかない」という言葉がぴったり当てはまるはずだ。

 話を戻すけど、ケインズ派(に限らないのかもしれないが)のマクロ経済学のテクストが数式だらけで門外漢には難しくてとても読み通せない、従ってまるで理解できないという事情もあるよね。
 そうだ。俺だってマクロ経済学の教科書はいろいろ買っているが、通読できた本はいまだに一冊もないからな。自慢じゃないが、マルクスの『資本論』だって若い頃に読み始めてすぐに放り出したくらいだから、俺が経済学にはまったく向いていないということはよく分かっているさ。しかしそれでも、例えば『日経新聞』の「経済教室」などに時々掲載される伊藤元重や斉藤誠や竹森俊平や岩田規久男といった信頼に値する経済学者たち(まったく信頼に値しない経済学者やエコノミストから、彼らをはっきりと区別することが極めて重要だ)の書いたものをしっかりフォローしていれば、「日本経済のなにが問題なのか」は理解できるはずだよ。
 なるほど。君が経済学の門外漢だということは、そういう周辺的な説明でもよく分かるよ。
 もちろんそうなんだが、いまの日本経済の問題のキー・ポイントが分からないというのはやはり怠慢だと思うよ。それは歴史に対するセンスの問題なのかもしれないけどね。例えば村上龍は経済学については俺以上に分かっていないが、それでも「自殺よりはSEX」というような言い方で、いまの「経済決定論的」な錯視・錯覚・錯綜・錯乱等から日々生み出される日本人の絶望というものについてはよく理解しているよね。
 しかし村上龍の場合はどうも歴史に対するセンスに欠けているみたいだから、ミクロ的な「対症療法」以上のことは書けていないんじゃないか?
 村上龍は作家だからそれでもいいんだよ。だいたい村上龍が本格的な経済エッセイみたいなものを書いたってサマにならないだろ? だいたい「マクロ文学」などというものは存在しえないんじゃないか? プロレタリア文学じゃあるまいし。それよりは「動物化する世界」(東浩紀)の真っ只中から現在の恋愛や風俗を書いてくれた方が読む方としてはずっと面白いわけだよ。
 たしかにそうだよね。
 しかし、言うまでもなくそこは現在の「主戦場」ではない。現在の「主戦場」は、むしろ村上龍が書いているような様々な現在の現象を生み出している「土台」や「下部構造」を理解するというところにあるわけだ。俺はいまマルクス的な言い方をしたが、マルクスが最終的に経済現象を理解することを「主戦場」にしたということ自体が、改めて見直されなければならなくなって来るはずだ。経済現象というのは結局人間的欲望の戦場だからな。「土台」や「下部構造」というマルクスの言い方にしても、われわれが普通に理解して来たような仕方とは別の仕方で理解することが必要になって来るだろう。俺はそういうことをマルクスからではなく、ケインズ派の経済学から学んだわけなんだが・・・。結局、「必然の王国から自由の王国へ」というのが人間の究極の(不可能な?)テーマであるはずなんだが、その意味ではケインズもマルクスの徒であったと言えるだろうと俺は思うわけさ。前から話題になっている「マルクス主義の再建」というのは結局そういうことだろうということさ。
 今回もそこへ行き着くわけだね。


2003/05/09 (対話-20)

 個人的な話だが、5月3日に引っ越しをしたよ。前の住居のすぐ近くなんだけど、この年で引っ越しはキツイね。まだ体は痛いし、力は入らないし、頭もボーっとしてるよ。
 君から声がかからないから、どうしたんだろうと思ってたら、引っ越しをしてたのか。君はレコードやCDや本が多いだろうから、大変だったろうね。しかしまあ自業自得かな。
 この機会に本を三分の一くらい処分したんだけどね・・・。それじゃ本題に入ろうか。まず最近のドル・円レートだが、ひどいもんだな。一気に116円台まで円高になったからな。せっかく福井日銀が追加金融緩和を進めても、これで効果が全部吹っ飛んでしまった感じだよ。いまやアメリカとの金融緩和競争に入ったわけだから、声の大きい方が自国通貨を下げることが出来るわけで、そろそろ本腰を入れてインフレ目標(=通貨下落目標)をしっかりアナウンスして行かないと、今度こそ最悪の形で(つまりデフレの加速度的な進行という仕方で)円高が進行してしまうかもしれないぞ。
 マスコミは株安には「株価対策はどうした」と大騒ぎするくせに、円高にはまるで無反応だからね。ここまで経済政策に対する日本サイドのセンスが欠落していると、グリーンスパンはやり易いだろうね。こうなったら自国通貨を下げた方が勝ちだからね。
 そういうことだ。マスコミの馬鹿たちは円安になるとまた「日本売り」などと言って(非経済学的に)騒ぐだろうが、デフレからの脱却には円安が不可欠なんだってことをまだ理解していないらしいからな。依然として「日本問題」だの「構造問題」だのと言って騒いでいるわけだが、言うまでもなく本当に「問題」なのは、いまの「日本の問題」なるものは実は純然たる経済問題なんだという単純明快な事実から目をそむけていることだよ。

 前回君が言っていた外務省のボケぶりと同じかな。
 まあな。しかし日銀新総裁の福井俊彦は危機意識を持っていると思うよ。今回はアメリカは円売りの協調介入には応じないだろうから、選択肢はインフレ目標政策の推進しかなくなって来るわけで、逆にこれはいいことなのかもしれないが。
 しかし円売りの協調介入が出来ないということは、具対策においてひとつ手を縛られてしまったということになるわけだろ?
 もちろんだ。こういうことは相手があって出来ることだから、FRBがデフレ・リスクを意識し始める前にやらなければならなかったわけだが、しかし「ヘリコプター・マネー」みたいな過激な方策もまだいろいろ残っているわけだからな。もちろん福井俊彦はタイミングをひとつ逸したということを理解しているだろうと思うよ。だからさっき君が「外務省のボケぶりと同じだね」と言ったのは、マスコミ世論や財務省や金融庁については言えても、いまの日銀には言えないような気がするよ。
 「中原伸之を日銀新総裁に」と言っていた君が意外なことを言うじゃないか。
 福井俊彦はよくやっていると思うよ。速水優とは違って「構造改革」だの「不良債権処理」などという没経済学的な無駄話はしないからな。ついでに言えば、純然たる経済問題に過ぎないものを(あるいはマクロ経済政策の無策や失敗に過ぎないものを)、「漂流」だの「衰退」だの「没落」だのとおおげさに騒ぎたてるマスコミや「経済学を知らないエコノミスト」や評論家どもの頭の構造は一体どうなってんだろうね。
 そもそもは江藤淳あたりが「第二の敗戦」というようなことを言い始めた頃からかな。その頃から「時代閉塞」だの「日本売り」だの「失われた10年」だのといった没経済学的なもの言いがメディアを全面的に覆い尽くしてしまったわけだが、このほぼ正確に「経済決定論的」と言っていい日本のイデオロギーの状況は、君としては最高に面白いテーマなんじゃないのか?

 そうだな。「日本のイデオロギー」というテーマがあるとすれば、確かに1993年頃に始まったいまの日本のイデオロギー(錯視・錯乱・虚偽の意識)のあり方以上に格好の素材はちょっと考えられないからな。マルクスやウェーバーだったら嬉々として分析にはげんだと思うが、いまの日本でかろうじて事態が見えているのはケインズ派の経済学者だけだからな。いまの日本の社会学の連中はまるで経済学を理解していないから、「閉塞」や「漂流」や「衰退」といった意識・認識が生れる機制がぜんぜん分かっていない。つまり「問題の所在」が分かっていない。従って、彼らの現状認識自体が錯視と虚偽の意識という意味でのイデオロギーそのものと化しているわけだ。
 そうだよね。普通ならとっくに恐慌になってはずの状況がもう10年近くも引き伸ばされて来たわけだからね、日本は。たしかにこれでは「問題の所在」が分からなくもなるよね。「いつまでも景気が回復しないのは経済以外の社会構造的なところに原因があるからではないか」という風に考えたくもなるわけさ(もちろん、それこそがさっきから言ってる錯視・錯覚に他ならない日本のイデオロギー状況そのものなんだが)。韓国なんか98年にIMFの管理下に入ったというのに、もうかなり前に回復しているようだから。恐るべきは、デフレがむしろ「心地よい」と感じられるいまの日本の状態だよ。これだけの「経済的底力」があるというのが「日本の悲劇」なんだろうが、グリーンスパンは先日の議会証言で日本経済について「極めて困難な状態にある・・・かなりの長期間そういった困難さを抱え込んでいる」と言っているそうだけど(『日経』5/1夕刊)、なんだか信じられないものを見続けて来たという感慨がにじみ出てさえいるよね。
 そう、ポール・クルーグマンも98年頃には日本経済についてかなり適切な診断を下しているわけだが、日本は「構造改革」だの「不良債権」だのといった没経済学的な無駄話に明け暮れる速水優の首も切らずに5年もやって来たわけだからな。要するに日本経済はほとんど「化け物」なわけだよ。むしろマスコミ世論が本筋からずれたところで騒いでくれた「おかげ」で、パニックひとつ起こさず、質が落ちたとはいえ依然として勤勉であり続けているからね、日本国民は。
 つまり、ある意味で日本固有のイデオロギーのあり方の「おかげ」で日本経済はもって来たとも言えるわけだよね。これだけ「下部構造」と「上部構造」が複雑かつ緊密に絡み合って来ると、グリーンスパンも呆れるしかないわけだよ。しかしもしグリーンスパンが民主党員だったら、とっくに日本政府と日銀に圧力をかけてインフレ・ターゲット政策を採らせていたんじゃないかな。

 同じ話をしていてもしょうがないから(次回以降もう少し緻密に議論することにして)、話題を変えよう。君は小嵐九八郎(こあらしくはちろう)という小説家を知っているか。
 いや、知らない。
 本名は工藤なんとかと言うんだそうだが、1944年生れの社青同解放派(=革労協、いわゆるアオカイ)の元活動家で、40過ぎまで「現役」でやっていたんだそうだ。その小嵐九八郎という人物が最近『蜂起には至らずー新左翼死人列伝』(講談社)という本を出しているのを、偶然本屋で見つけたんで早速買って読んでみたわけだよ。
 へえー、解放派の元活動家がね。それでどうだった。
 前回東浩紀と笠井潔の『動物化する世界の中で』に触れていなかったら、多分この本を買うこともなかったと思うんだが、いやなかなか面白かったよ。どこが面白かったかというと、筆者の小嵐九八郎という人物がかなりのゲバルト(暴力・乱闘行為)好きらしくて、25章にわたって全27名の新左翼の死者を扱っているんだが、いわゆる「内ゲバ」(党派あるいは分派間の暴力闘争=戦争)の死者が5名含まれていてね(連合赤軍の「総括」と「粛清」による死者も4名が扱われているが、これはいわゆる「内ゲバ」とは違うから別だよ)。しかもそのうち3名が中核派(シンパを含め)というのが、「よく分からない」ながらも面白かったよ(因みに解放派は中原一の一名のみ)。
 へえー、元解放派のくせに一体なんなんだろうね。
 更に自殺した奥浩平と、機動隊に殺された(と考えられる)山崎博明を含めると、27名の死者のうち中核派(系)の死者が5名というバランスが「傑作」だよ。中核派トップ(革共同書記長)の本多延嘉について書かれた部分を読むと、小嵐九八郎は本多延嘉から2度にわたって酒と飯をごちそうになっているらしい。要するにオルグをされていたわけだが、そのことの「恩」と自分の「不義理」を忘れなかったことがひとつ、もうひとつは60年代後半の「解放区とバリケード」に象徴される「革命的高揚局面」を切り拓いたのは中核派の突撃(ゲバルト)力であった、という風に小嵐九八郎が考えているらしいことだ。

 なるほどね。しかし中原中也を読んだり、わけのわからない隠語を使うのが好きなあのサンディカリスト的で党派的なアオカイにそういう人物がいたとはね。それになんだか知らないけど、解放派というのは反レーニン主義の党派だったよね。それで新左翼の理論と運動の総括はしっかりと出来ているのかな?
 その点はよく分からない(まだ全部読んでいないし)。ただひとつはっきり言えるのは笠井潔の『テロルの現象学』などよりもずっと「面白い」ということだ。書いてる本人も総括をするという意識はあまりないみたいで、要するに鎮魂の調べをかなでるというような意識で書いているのが、読む方としては気持がいいよ。首を傾げたくなるのは、組織や運動から離れるのにマルクス主義を捨て去ることが不可欠と考えているらしくて、それはそれで「律儀」なことだとは思うが、しかし結局それは「間違っている」と俺は思うわけだよ。死にたくないから、片輪になりたくないから、痛い思いをしたくないからやめる、ということでいいじゃないかと思うわけだよ。
 そうだよね。世の中には君みたいに右翼のリアリストのくせに、いまになって改めてマルクス主義を再建して行こうというという変わり者もいるわけだからね。
 そういうことだ(俺は右翼じゃないが、まあいいか)。マルクスは怒るかもしれないが、マルクスの思想を歴史哲学として「価値中立的」に再建して行くことだって出来るはずだからな。レーニンも同様で、アーレントの『全体主義の起源』の第二部は「帝国主義論」だからね。もういまではマルクス主義もレーニン主義もトロツキズムも「人類の遺産」と考えていいわけだよ。小嵐九八郎に戻ると新左翼の心情だけはしっかり残っているらしくて、イラク戦争について「アメリカへの抗いのうねりと、決定的な一擲を」(P.353)なんてことを書いてね。このあたりが小嵐九八郎の『蜂起には至らず』について「間違っている」と言わざるをえないところだが、しかしマルクスやレーニンやロシア革命同様、日本の新左翼運動もいよいよ「歴史」の範疇に入ったということだよ。その点を死者たちへのレクイエムを書くことで(意識的にではなくだが)はっきりと言い切った、というのがこの本の「功績」と言っていいんじゃないのかな。ここがきちんと出来ないと、マルクス主義の再建という新しいテーマが「誤り」をひきずった中途半端なものになってしまいかねないからな。なにしろ「マルクス葬送」という壊滅的に「間違った」ことをやっていたのも新左翼だからな。


2003/04/25 (対話-19)

 その後の情勢の推移を見ると、「イラク戦争」について前回君が言っていたことは、だいたい当たっていたようだね。どうやらアメリカはこれから「何のためにフセイン政権を倒したのか」という問いに直面することになりそうだよ。俺が言っているのは、第一にサダム・フセインが「消えた」あとイラクのシーア派が俄然勢いづいたこと、第二にそれによってアメリカの「ネオ・コン派」(そういうものがあるとして)の戦後構想が根底から覆される可能性が出て来たこと、第三はそれにともなってアメリカとその政権中枢の「動力学」が大きく転換して行くように見えること、以上三点に集約されるようなその後の「イラク問題」の推移ことだが。
 言うまでもないことだが、別に俺は「予言」をしたわけではない。事態の推移をよく見ていれば誰の目にもそう見えたに違いないことを語ったに過ぎない。もちろんイラクのシーア派がここまで勢いづくとは思っていなかったが、こうなるとイランに対して最も太いパイプを持っているはずの日本の「出番」だな。こんなことは予想もしなかった事態だろうとは思うが、ここは総力を挙げて「権益拡大」に努める絶好のチャンスだよ。これは同時にアメリカに対して「目に見える貢献」ができる最大のチャンスでもあるわけだ。もっと言えば、昭和16年の対米開戦時における「最後通告」の手交の遅れ以来の「国賊の汚名」(外務官僚たちのおかげで真珠湾攻撃は「だましうち」にされてしまった)を晴らす絶好のチャンスが外務省にめぐって来たということでもあるわけだ。しかしそうした「緊張感」がいまの外務省にあるかといえば、なんだか怪しいような気がするけどね。ひょっとすると、いまのこの事態が見えていないということも考えられるしな(それに下手に「見えて」いるより、結果的には「外交資源」として「温存」した方がいということもありうるしな)。
 幣原喜重郎や吉田茂の後の外務官僚たちの一般的なイメージからするとそうなるよね。顔つきも加藤紘一風という印象が強いからね(^-^)。
 あまり考えたくないよ、彼らのことは。では首相官邸が外務省にしっかりニラミをきかせているかと言えば、それもかなり怪しいよ。いずれにせよ、「イラク戦争」についてはいまは以上を押さえておけば充分だろう。ひとつつけ加えておくと、外務省こそアメリカ風に国務省と改称した方がいいのかもしれない。外交というのは実は最も重要な国務だからね。

 それより今回は最近出た本で、東浩紀と笠井潔の往復書簡で構成された『動物化する世界の中で』(集英社新書)について話してみないか。
 そうだね。全共闘世代の笠井潔(1948年生まれ)と、ほとんど団塊ジュニアと言っていい東浩紀(1971年生まれ)の「対話」というのは、それ自体で興味をそそられるからね。しかし「結果」から言うと、笠井潔のあまりのオソマツさがはっきりと露呈しただけで、ここで話すに値するようなことがあるとは思えなかったけどね。
 たしかに君の言う通りだよ。しかし俺としては「笠井潔のオソマツさ」というものは、それ自体で考えておく必要があると思うんだ。だいたい笠井潔は第一信からして「俺は60年代ラディカリズムの最も尖鋭な体験者なのだぞ」というようなニュアンスで東浩紀に向かって自慢しているみたいじゃないか。しかしこの男は、要するにベ平連に他ならないプロ学同(プロレタリア学生同盟)の委員長だった人物だろう?
 そうだ。ベ平連であるとともに、当時「構改三派」と言われた日本共産党ソ連派系から出て来たトリアッチ主義(構造改革路線)のグループのひとつである共労党(共産主義労働者党)の学生組織のトップだよ。つまり出自や系譜から言えば、新左翼の中ではいちばん右派に位置する市民主義的構改派に属していたわけだ。
 そういう人物が70年代の終わり頃(80年代始め?)に連合赤軍批判⇒スターリニズム批判⇒マルクス主義批判の書である『テロルの現象学』という本を発表したわけだ。俺としては一読してひどく「いかがわしい」感じがしたもんだが、君はどうだった?
 君と同じだよ。赤軍関係者が書いたんだとしたらこういう書き方はしないだろう、とまず思ったよ。つまり「外部」の人間が連赤問題を何とかして「自分の問題」に引き寄せようとしているという感じがして、あまりいい気持ちがしなかったよ。「連赤ショック」というのはもちろん俺にもあったが、しかしそこからマルクス主義批判に進むというのは理解しがたいものがあったよ。つまりトロツキー以下の「左翼反対派」系のスターリニズム批判というのがいちおう「前提」としてあったからね。それに連赤の「総括」というものがそれ自体でそれほどひどいものだとも思わなかったからな(たしかに人はたくさん死んでいるが)。しかしそれがスターリニズムであるとか(都合が悪いことには「スターリニズム」というレッテルを貼って済ませてしまうというご都合主義がかなり一般的だったが)、いわんやそこからマルクス主義批判に進むなどという展開はまったく理解できなかったよ。つまりそれは過剰反応であり牽強付会であり、要するに笠井潔の推論は「誤り」だという印象が強かったよ。それが「誤り」であるというのは、トロツキーやルカーチならそう言ったに違いないという意味だけどね。
 俺たちの場合、そこは「微妙な」言い方になるよな(^-^)。

 いずれにしても、笠井潔の「ラディカリズム」なるものは、新左翼サロンにおける大風呂敷の雑談か彼自身の頭の中の妄想のたぐいで、とうてい「普遍性」を持ちうるものとはなりえていないということだ。彼が書いたミステリーやSFもそれに対応して、極めて浅薄なものと言って構わないだろう。エンターテインメントとしてそれなりのものであることまでは否定しないが。笠井潔は『動物化する世界の中で』において村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』に言及しているが、いちおうそれが笠井潔の「良心」と言えるんじゃないのか。つまり、「60年代ラディカリズム」を本当に体現しているのは笠井潔が書いたものではなく、村上龍の小説の方だということだ。
 同じ全共闘世代として情けないと思うのは、いま君が言ったようなことを若い東浩紀に見破られているらしいことだ。「全共闘時代の思い出やポストモダニズム批判の言説も、笠井さんにとっては、現在の状況分析に通じるものというより、ご自身の実存的軌跡を語るための背景でしかなくなっている」(P.148)とまで言われているからね。
 そうだ。俺は前に東浩紀の書いた『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)に批判的に言及したことがあるが(「つぶやき2003/01/09」)、この若い理論家はかなり力があるね。いま君が引用した部分や『動物化する世界の中で』とほぼ同時に出た大澤真幸との対談本『自由を考える』(NHKブックス)を読むとそのことがよく分かるよ。しかし、それでは笠井潔は昔はもっと「まとも」だったのかと言うと、上に述べたようになんにも変わっていないということなんだな。
 そう。笠井潔の場合すべての語りが一種の「逆アリバイ証明」みたいになっているんだよね。しかしこれは笠井潔に特有の構えなのかと言うと、概して全共闘世代一般に言えるんだよね(情けないことに)。60年安保世代も似たようなものなのかもしれないが、要するに酒を飲みながら大言壮語して自己満足に浸るというような意味で、はじめから「オヤジ化」しているんだよ。
 東浩紀にはそれが見えていたんだと思うよ。だから狙い撃ちにされたのかもしれない。「全共闘世代の馬鹿オヤジどもをつぶすには、まずは笠井潔が格好の標的だ」というわけさ。
 オヤジ狩りに遭ったということかな、笠井潔は?
 結果としてはそうなるだろうね。しかし東浩紀には「感謝」しなくてはならないだろう。笠井潔はポスト・モダニストではないだろうが、前回君が言っていたように、もしわれわれに「マルクス主義の再建」というオプションがあるのだとしたら、ネックになりそうな部分をひとつつぶしてくれたわけだからな。ただし東浩紀の思考について言えば、前に言及したところで言った通り、本質的に「決定論的」であるという俺の認識は変わらないよ。言い換えれば、東浩紀は「動物化する世界」に「巻き込まれ」過ぎているということだ。「動物化する世界」が「必然的」な運命のようなものに見えてしまうのは、ある意味でやむをえないことだし「必要」なことでもあるわけだが、思考をそこに定位させてしまったらそれを「克服」する道筋は見えて来ない、ということだ。しかも東浩紀の考える「動物化する世界」には、日本に固有の「平成大不況=大停滞」に由来する特殊な事情・局面が絡んでいるんじゃないのかな。その辺りをうまく解きほぐすことができれば、更に思考を前進させることができるはずだ。これは『自由を考える』に即しての評価だが。
 君にしては随分好意的な言い方だね。
 東浩紀自身は自覚しているはずだが、要するに彼がやっているのは最新の大衆論・群衆論(=大衆社会論)だからな。あの「反動的」なエドムンド・バークを思わせる「動物」という言い方も嬉しいよ、俺としては。(追加つぶやき:もし東浩紀が、「動物化する世界」に「内在」・「定位」することによってはじめてそれを突破する経路や機制が生まれて=見えて来るはずだ、という風に考えているんだとしたら、それはそれで見上げた見識と言うべきかもしれない。03/04/29)


2003/04/17 (対話-18)

 ここのところ『朝日新聞』の夕刊が「イラク戦争を考える」という企画をやってるね。1回目(4/14)が加藤典洋(「「日本型」の民主化は繰り返すべきでない」)で、2回目(4/15)が福田和也(「啓蒙的近代が終わり私たちは立ちすくむ」)で、3回目(4/16)が本間長世(「ブッシュの外交姿勢は米国の伝統を壊した」)だ。共通しているのは、いずれも「ネオ・コン」批判がテーマになっているということだが、君はこれを読んでどう思った?
 「ネオ・コン」批判というテーマを与えたのは『朝日』だろう。だからその分を差し引いて読まなくっちゃならないとは思うが、それにしても福田和也は駄目だな。「知的センス」というものがまったく感じられないよ(どうして「知的センス」などというどうでもいいことを言うかというと、最近この男は自分が「知的」であるということをさかんに自慢しているからだ。そういうことは自慢するもんじゃないんだけどね。とんだお笑いぐさだよ)。福田和也はそこで「新保守主義を代表するイデオローグ、R.ケーガン」という人物の「強さと弱さ」なる論文をアメリカの意思表明と見なして、「アメリカはカント的な永久平和の理念の無効を宣言し、自ら怪物(レヴァイアサン)として、絶大の恐怖と強大な暴力によって、自らがよしとする世界秩序を作りあげようとし、実際にフセイン政権を粉砕してみせた」と述べている。俺はこれを読んでいて「マルクス主義の外には、ある者の権力と他の者たちの諦念しかない」というメルロ=ポンティの言葉(『ヒューマニズムとテロル』みすず書房P.211)を思い出したよ。つまり、福田和也がここで述べていることは「敗北主義」であり「物神崇拝」であり、要するに典型的な悪しき「決定論」の産物だということだ。
 前回君が『ヒューマニズムとテロル』のことを言っていたから、おかしいなとは思っていたんだが、最近こっそりと読んでいたんだな?
 そうなんだ。ハンナ・アーレントの絡みでね。俺が言いたいのは、武装解除した人間、つまりそれは福田和也のことなんだが、そういう人間は受動的な考え方しかできなくなるということだ。武装解除という意味は、「歴史」に対するダイナミックな位置取りからの脱落という意味だ。そうなるともう「運命論」しか残らない。つまり福田和也のもの言いは、ヒトラーの勝利を信じて疑わない「降伏主義」のヴィシー政府のそれと同じだということだ(俺は別にヴィシー政府を「非難」しているわけではないよ。なにしろ彼らは難攻不落を誇ったマジノ戦がドイツの機甲師団によってあっさり突破されるのを「見た」わけだからな。ブリテン島陥落も「時間の問題」と見えたろうし)。しかし「現実」は福田和也の考えに反して極めて「ダイナミックに」進行しているわけで、イラクのアメリカ占領軍はイランとの何らかの「協定」なしでは、イラクのシーア派を取り込むことさえできない状況に追い込まれているじゃないか。

 福田和也と同じことが加藤典洋の「イラクで日本型の民主化を繰り返してはならない」という発言についても言えるんじゃないか?
 その通りだ。加藤典洋は『敗戦後論』ではなく『アメリカの影』(1985)を思い出すべきだったんだよ。(加藤典洋の『アメリカの影』の主要テーマは「無条件降伏」であったわけだが)そうすればいまのアメリカには無条件降伏というような超強硬政策を追及できるはずがないということが理解されたはずだ。フセイン政権は帝国日本と違ってそういうことを受け入れることができるような一枚岩の体制ではないわけだしね。だからフセイン政権は単に「いなくなった」だけじゃないか(ブッシュが「もうじきいなくなる」と言っていた通りに。この言い方ひとつをとっても、ブッシュがリアルな考え方ができる人物であることを理解しなくちゃいけない)。
 つまり対日占領とはまったく条件が違うということだよね? だいたいイラクで「一億総懺悔」なんてことがなされる気づかいはまったくないもんね。
 その通り。新保守主義なるものがなんであるのか、俺は知らないが(それにそういうものが「実体」として存在するのかどうか、ということも)、加藤典洋や福田和也の言っているのがそれだとしたら、それはもう破産しているよ。対日占領政策と同じやり方が行われるためには占領される側が帝国日本のような一枚岩の体制であるということと同時に(本当は帝国日本は「多頭の怪物」だったんだが、敗戦によって一枚岩になった)、占領する側にもアメリカが計画していた日本本土上陸作戦と同規模の戦闘を行ないうる体制が不可欠なわけだが、いまのアメリカで10万人単位の戦死者が出たら(あるいは、そうした犠牲をともなう作戦の立案が発覚したら)、アメリカの政権自体がもたないよ。いまフランクリン・ルーズベルトと同じような不抜の決意で戦争に臨めるかどうか、ということをよく考えてみればいいんだよ。新保守主義なるものには、そんなものはかけらもないはずだよ。というか「客観的条件」が不在なんだよ。どれほど「類比」的に語られようと、9.11はパール・ハーバーではないということだ。多くのアメリカ人は、世界貿易センタービルが貧しい「第三世界」の人々の憎しみの的になっていたことに思い当たったはずだ。また、あの恐ろしいビンラディン一派といえども、かわいそうな中国人たちを殺しまくり、アメリカの艦船(パネー号)を平然と「誤爆」するような兇悪無類のジャップとは根本的に違うということにも。
 新保守主義と言われるものは、なんだかクリントン時代にさかんに言われた「ニュー・エコノミー」と同じ空想の産物に見えて来たね。
 そういうことだ。言ってる方もその場の思いつきみたいのりで言っているわけだし、受けとる方も始めから「敗北主義」に冒されているから、文字通りに受けとってしまう。しかし少なくともチェイニーやラムズフェルドはそんなもので世界が動かせるとは思っちゃいないよ。なにしろ彼らはニクソン時代からの歴戦のつわものだからな。彼らに訊いたら「笑わせるな」で終りだよ。ライスからは逆に「ネオ・コンって何なの?」って訊き返されるだろう。彼女にいたっては、本職がロシア(ソ連)政治の専門家だからな(スタンフォード大学終身教授)。パウエルは「悪評をものともしない馬鹿ネオ・コンのおかげで次期大統領は俺に決まりかな」とほくそ笑んでいるかもしれない(「ネオ・コン情報」を全世界に撒き散らしているのはパウエルかも)。軍の将官たちのトップに立っているのは依然としてパウエルだろうし(そのくせ田中真紀子の「保護者」みたいな振るまいもできる)。ライスは今後軸足をパウエルの方に移して行くんじゃないか。こういう本物の猛者たちにかかったらネオ・コンなんて屁みたいなもんだよ。

 つまりこの前(03/03/27)君が言っていたように、アメリカにおけるいろいろな立場や考え方の競合と角逐の動力学の「場」としてアメリカの政治と外交を見て行くんでなければ何も見ていないに等しいということだね?
 そういうことだ。なにしろ日本では「不況との戦い」ひとつ満足にできない状態だからな。ヴィシー政府的「敗北主義」や「降伏主義」に捕えられてしまうのもやむをえないとは思うが、しかしこれは日本からマルクス主義及びそうした発想が「消えた」こととも関連していると思うよ。根本的にはそれは戦後のわれわれの「歴史からの逃亡」に由来しているわけだが、「歴史」が見えなくなると「全体」が見えなくなるからな。だから国民経済への位置取りもできなくなるわけだ。戦後の日本が「奇跡の経済成長」を達成できた根拠は、国民的レベルで戦前・戦中・戦後を貫く持続の感覚が残っていたことと、マルクス主義的歴史哲学がそれをサポートしたことにあるはずだ。池田内閣時代の高度経済成長政策を支えたのが社会主義的経済計画に似た発想であったことは間違いないはずだ。日本国民は戦争に続く「事業」として一丸となってこれに取り組んだわけだ。
 つまり最近の小泉内閣から田中康夫までを覆う新自由主義的発想は駄目だと?
 もちろんだ。いま歴史への感覚を保ちえているのはケインズ派の経済学者ぐらいのものだろう。彼らは経済政策において「テロルを揮う」ことをも辞さないんじゃないか。つまり「テロルを揮う」ことができるためには確固としたヴィジョンと責任の感覚がなくてはならないわけだが、たしかに彼らにはまだそういうものが残っているよ。そもそもマクロの経済政策というものは社会主義的性格を持たざるをえないからね。何故ならば、つまるところそれは富の再分配に他ならないからだ。つまり、「収奪」というテロルの発動をともなわざるをえないからだ。しかし経済の世界で絶対非暴力(=非介入)を主張することが、逆に恐慌やハイパー・インフレのような際限のない自然的テロルを解き放つ結果になることを知らなければならない。世の中には新自由主義的市場原理主義がもたらすものを「市場の独裁」とか「金融テロリズム」と言う人もいるけど、それはまた別の話か。残念なのはマル経学者がなにも発言していないことだ(もうそういうのは「存在しない」のかな?)。
 金子勝あたりはそれに近いんじゃないのか?
 違うだろう。もしそうだとしたらそれは歴史なきマルクス経済学というものだろう。金子勝はインフレ目標政策を「異常な政策」と言っているじゃないか。しかし、言うまでもなく「異常」なのは最近の国民的レベルでの無為無策の根源にある「敗北主義」や「降伏主義」の風潮の方だ。これに比べたら関東軍の「冒険主義」の方が100倍も「まし」だよ。言いかえれば、そっちの方が断然「マルクス主義的」でもあるということだ。少なくともそこには「歴史」との関わりが生きているということだ。
 そういうことを左翼の連中がきいたらびっくりするだろうね。
 びっくりする方がおかしいんだよ。そういう連中はマルクス主義の「神髄」がなんにも分かっちゃいないんだよ。「断固たる革命のテロルなしに勝てると思うのか」というレーニンの言葉をやつらにきかせてやりたいよ(ただし、革命的テロルを断固として肯定するマルクス主義のこうした超主体主義的人間主義が、ポスト・モダニズム的=観照主義的反動を生んだことは押さえておく必要があるかもしれない。だがポスト・モダニズムというものは、結局のところ「敗北主義」や「降伏主義」に帰結する大衆社会のイデオロギーそのものだろう。それがいまの日本の「風潮」にどれほど適合的であるかをよくよく考えてみる必要がある。世界のプロレタリアートを武装解除させ、われわれを「歴史」との関わりから離脱せしめたのはフーコーたちだったのかもしれない。直接的にはそれは冷戦の終焉がもたらしたF.フクヤマ流の「歴史の終わり」という観念によっているのかもしれないが、それは新保守主義の非歴史的思考をも規定しているよ)。マルクスやレーニンにとってのプロレタリアートとは、実は敵の血にまみれたプロレタリアートなんだってことをね。トロツキーの言う通り、レーニンはロシア・プロレタリアートの化身だよ。われわれが「歴史」を取り戻すということは、血にまみれた帝国日本の歴史をわがものとすることでもあるわけだ。人間にとっての最終の問題は常に「歴史」だよ。ハンナ・アーレントやメルロ・ポンティが言っていることも、つまるところはそういうことだ。「俺は右翼じゃない」といつも言っているのはこの文脈からだ(文脈を無視すれば右翼と言えるかも)。
 なるほどね。これからは「マルクス主義の再建」というオプションもありかもね。「ポスト・モダニズムの解体」ということがその前提になるのかもしれないけど。しかし日本のポスト・モダニストたちほど胸の悪くなるやつらはいなかったね。政治的には「左派市民主義」みたいな「ふり」をしやがってな。それも身過ぎ世過ぎのための「ふり」でね。最低のコウモリ野郎どもだったよ。それというのも日本のマルクス主義がだらしなさ過ぎたせいでもあるんだけどね。
 その通りだ。石原慎太郎じゃないが、これからは「過激に」行かなきゃ。ついでながら、レーニンの言葉をもじって「断固たる政策の発動なしにデフレに勝てると思うのか」という言葉を閣僚、政治家、そして日銀の審議委員たちに贈りたいよ。

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