管理人のつぶやき(9)


2004/08/25(対話-60) 高橋尚子の影に打ち勝った?

 8月24日の『朝日新聞』朝刊に沢木耕太郎の「「見えない敵」高橋の影に3人は打ち勝った」という文章が載っていたが、君は読んだかい?
 もちろん読んだよ。しかし俺は日本時間の夜中に行なわれたレースを実況でも再放送でも見ていないから、なんとも言いようがないんだが、沢木が「名古屋で走らなかった高橋がアテネの代表に選ばれなかったことに問題はない」と書いているのはやっぱり間違っていると思うよ。
 沢木は「選考の公正さ」という言い方もしているが、それが勝てるランナーを選ぶという意味での公正さだったのなら、陸連の委員たちは説明責任を果たしたはずだよね。それをしなかったのは、彼らも野口みずき・坂本直子・土佐礼子の3人が高橋尚子を凌ぐランナーだとは考えなかったということだよ。
 本当は二重基準だったのが、土佐礼子の頑張りにみんなが沈黙させられたということなんだろう。ところがアテネのレースが始まってみると、高橋尚子の影(不在)というのは想像を絶するほどのもので、ポーラ・ラドクリフが敗れたのはそのためだろう。アテネの暑さとコースの高低差はランナーたち自身がよく知っていたことだからね。問題はシドニーの優勝者であり世界女子マラソン界最大のスターである高橋尚子がそこにいなかったことだよ。ラドクリフは東京まで高橋尚子の走りを見に来たほどだから。

 キャサリン・ヌデレバが野口みずきをほとんど捕えながら結局抜き切れなかったのも、前を走るのが高橋ではなく野口だったからなんじゃないのか。
 そうかもね。ラドクリフもヌデレバも高橋が出場しないことは知っていたわけだが、マラソン・ランナーは走ってる時が勝負だからね。彼女たちは高橋とタイムを競うプロのランナーだからこそ、高橋尚子の不在によってモチベーションをキープできなかったということなんだろう。
 しかし野口みずきはそれに「打ち勝った」わけだ。ラドクリフとヌデレバは高橋尚子と同じ土俵で戦って来たランナーだが、野口のモチベーションは日本代表としてのそれだからね。
 野口は俗に言う「女の戦い」に勝ったということなんじゃないのか? 野口みずきのレース後のコメントも感動的だったし、実際よくやったと思う。そういう意味では沢木耕太郎が書いていることも分からないではないが、しかし俺の心を占めているのは依然としてシドニーにおける高橋尚子のあの走りでね。まあ、野口が高橋を直接に破るまではあれが消えることはないだろうね。

 俺だってそうだよ。もう野口と高橋の直接対決しかないよ。シドニーとアテネの金メダル対決だよ。きっとオリンピックを凌ぐすごいレースになるだろう。ところで村上龍が8月24日発行の「JMM No.285」で沢木耕太郎のその文章を批判しているじゃないか。それについて君はどう思った?
 俺は沢木耕太郎の書いた文章をほとんど読んだことがないから、分からない部分が多いんだが、村上龍が沢木の物語の「強い定型」を批判しているのは分かるような気がするよ。
 しかし君は物語が好きだよね。シドニーの時は陸上のキャシー・フリーマンのパフォーマンスに込められた彼女(たち)の物語に感銘を受けていたよね。
 好きもなにも人間は物語的な動物だからね。それはアリストテレスの言う政治的動物という人間の規定とほぼ同じレベルで言えることだよ。だから問題になるのは物語の性質と志向と意味であるわけだが、ラドクリフとヌデレバについては上に言った物語に収まるんじゃないか? 高橋・ラドクリフ・ヌデレバの3人は敵である以上に同志でもあったということだよ。野口みずきについては村上龍が言うように別の文脈で見たいね。しかしそれが完成されるには野口が高橋を直接破るしかないよ。

 ところで村上龍は沢木耕太郎が書いていたという2002サッカー・ワールド・カップ準々決勝のブラジル・イングランド戦におけるブラジルのタックルをかわしたベッカムのジャンプを「覚えていない」そうだが、そのジャンプからボールがロナウジーニョに通ってあの見たこともない超ロング・ドリブルが生まれたわけでね。そしてそれがそのままリバウドの左足ゴールにつながったんだよね。
 あれを忘れたというのは信じ難いよ。テレビではロナウジーニョのドリブルとリバウドのゴールを見たベッカムの表情をちゃんと映していたからね。「俺はジャンプでタックルをかわしたが、それをああやってゴールされたんじゃもうお手上げだ」という顔をちゃんとしていたよ。村上龍は眠ってたんじゃないのか?
 村上龍はまた「アスリートたちの過酷な訓練と見事なパフォーマンスは負の物語を無化する力を持つ」とも述べているが、その点についてはどうだ?
 村上龍の言う通りだよ。スポーツから離れても、ハンナ・アーレントの言う「偉大で光り輝くもの」をもたらす人間たちの新しい始まりはいつも予期に反して生起するわけで、その意味ではそれはいつも非(反)物語的な出来事だからね。このサイトでAKが書いている「山ノ内のマリア(Anti-Killer Novel)」だってひとつの物語でありながら、それを超える世界が目指されているじゃないか。難しいことだと思うけどね。


2004/08/08(対話-59) 祝 サッカー・アジアカップ優勝

 このかんいろいろあってこのページの更新ができていなかったんだが、言い訳を言ってもしょうがないから早速始めようか。君の方からテーマを出してくれると助かるんだが。
 なんだ、ぜんぜん用意してないのか。じゃあ今回は再開第1弾ということで、ジーコ・ジャパンのサッカー・アジアカップ優勝で行こうか。
 今回はそれだよね。俺は久保竜彦が怪我でアジアカップに出られないと聞いて、優勝なんかとても無理だろうと思っていたんだが、最後の最後になって玉田圭司があんなに決めまくるとはね。バーレーン戦のあの迷わず前へ走った決勝ゴールは3人抜きだったんだろう?
 俺には4人抜きに見えたけどね。まあどっちにしても、玉田がボールを持ったらもう誰にも止められないという雰囲気がたしかにあったよ。
 ホントだよな。中国戦の3点目なんか中村俊輔のパスが玉田に通ったところでゴールを確信できたからね。玉田がドリブルを磨いて行ったらロナウド級のストライカーになる可能性だってあるよ。
 中国のGKにはじかれたけど、後半20分のヘディング・シュートだってドンピシャリだったからね。バーレーン戦の2点目のシュートもすごい角度だったじゃないか。左サイドからGKの頭の上、ゴールの天井直撃だぜ。GKは凍りついただろう。普通あの角度からはダイレクトに打たないんじゃないか?

 凍りついたのは俺の方だよ。最初なにが起きたのかぜんぜん分からなかったからね。リプレイを見て震えたよ。あの角度からだとGKの頭の上、縦にピン・ポイントだよ。まったく恐ろしいヤツが出て来たもんだよ。俺は無口なところや独特のパフォーマンスを含めて久保が大好きなんだが、玉田の場合はなんと言うか、俺たちを幸福にしてくれるよね。ボールを持った瞬間の玉田の姿には、なにか特別の輝きがあるじゃないか。ボールを持った瞬間にギアがトップに入る感じだよ。
 たしかにね。それから中国戦のあとの「会場の雰囲気は悪かったですが、結果を出せたからよかったと思いたいです」いうコメントもすごいじゃないか。あれもピン・ポイントだぜ。
 姿や顔や表情もいいけど、頭がまたとびきりいいんだよ。久保とはぜんぜんタイプがちがうみたいだけど、特にFWは頭がよくなくちゃ務まらないからね。
 これで久保が復帰すれば、ワールド・カップのアジア予選突破は確実かな?
 そう簡単には行かないよ。しかし久保と玉田の調子がよければ、アジア最強のツー・トップになることはまちがいないね。とにかく玉田のバーレーン戦と中国戦の合計3ゴールは俺たちを幸福にしたよ。
 それもジーコが玉田を使い続けてくれたからなんだけどね。
 そういうことだ。もちろんジーコには「有難う」と言わなきゃならないよ。
 君にも次回からはもっと頑張ってもらうぞ。
 分かってるさ。玉田みたいに震えるようなのは無理かもしれないが。


2004/04/23(対話-58) 福田康夫の発言、コリン・パウエルの発言

 内閣官房長官の福田康夫が4月21日の参議院の質疑でなかなかいいことを言ったみたいじゃないか。「自己責任とは自分の行動が社会や周囲の人にどのような影響があるかをおもんぱかることで、NGOや戦争報道の役割、意義という議論以前の常識にあたることだ」と言ったそうだが(『毎日新聞』/YAHOO NEWS)、君はこの福田の発言をどう思う?
 自分の考えなのか誰かが知恵をつけたのかは知らないが、その福田の発言が、個人の自己保存こそが他のすべて(正義や信念など)に優先するという、トマス・ホッブス的自由主義(リベラリズム)の原理の表明であることは間違いないだろうね。
 福田が言っていることは、個人の自己保存というより、社会や社会規範(「常識」)の保存こそがすべてに優先するという考え方の表明なんじゃないのか?
 同じことだよ。個人が「裸の個人」として自己保存をまっとうすることなど出来るわけはないんだから、自己保存のために個人たちが社会契約を結んでコモンウェルスやリヴァイアサンを創り出すというのがホッブスの根源的なモチーフなんだから、結局は同じことだよ。それから、その考え方の出発点が個人の自己保存にあるかぎり、伝統的な共同体や臣民の発想などではないということ。その意味で、諸個人たちがいっさいの主権を国家に譲渡するということも、個人の主体的な意思によってなされると想定されるかぎり、それは自由主義(リベラリズム)の原理でもあるということだよ。いずれにしても、政府を代表する内閣官房長官の福田康夫が、かの「自己責任」なるものを、邦人の人質とその家族を誹謗・中傷・脅迫する人々、及びマスコミなどが言いつのるそれから明確に区別したことは評価していいだろう。だいたいマスコミなどの言う「自己責任」というのは、「対話-54」で話題にした「透明性」や「分かりやすさ」と同じ機能を持つ言葉だからね。

 しかし福田がホッブスの思想を踏まえているとは思えないけどな。
 福田の念頭にあったのは、具体的には自分の父親(福田赳夫)や岸信介の政治や社会についての考え方だったのかもしれないが、しかしそれでもそこにホッブス的原理を見ないわけには行かないのは、その近代政治思想としての「普遍性」の証明でね。
 そうかもしれないが、俺としてはむしろフランス革命に反対して伝統主義的で漸進主義的なイギリス型革命方式を擁護したエドマンド・バークを引き合いに出した方がいいような気がするが。
 そうも言える。近代国民国家の没落によって大量の無国籍者や難民を生み出されるなかで、フランス革命などが謳い上げた人権なるものが本質的に抽象的なものでしかなかったこと、その意味でのバークの正しさを明らかにしたのは、ほかならぬハンナ・アーレントだったわけだからね(『全体主義の起源・2』)。
 そうだよ。福田の発言は、政府の勧告よりも自分の考える正義や信念を優先させてイラクに入国した邦人たちがゲリラに誘拐・拉致され、その結果自衛隊の撤退要求を突きつけられ、それを拒否しつつ彼らを救出しなければならないという難題に当面した日本政府高官としての発言だからね。そういうわけで、これはホッブス的であると同時にバーク的な主題を含んだ発言でもあったということなんじゃないのか?
 まあ、そういうことなんだろうな。
 そうすると、次はその前に言われたコリン・パウエルの発言が問題になるわけだ。
 そうだ。「より良い目的のため、みずから危険を冒した日本人たちがいたことを私はうれしく思う」というコリン・パウエルの発言だ(『朝日新聞』4月16日夕刊)。

 それこそまさにアメリカの国務長官ならではの発言と言うべきなんじゃないのか。アメリカとアメリカ国民にとってイラク戦争と「自由イラク」建設ということは既に所与であるわけで、そこにいかなる危険があろうとも、世論の大反対でもないかぎり引き返すわけには行かないということがあるわけだからね。しかもパウエルは軍人上がりでもあるわけで、「危険を冒す」ことが仕事でもあったわけだから、従ってパウエルの発言は、アメリカ国民(とりわけ米軍)と有志連合に向けた「引くな」という号令でもあったわけだ。
 まあね。しかしパウエルの発言は第一義的には、政府の勧告よりも自身の正義や信念に従って敢えて危険を冒した日本人たちを称賛するものなんだけどね。
 たしかにそれはそうなんだろうが・・・。しかしそうだとすると、パウエルの発言はどういう文脈に位置付けられるんだ? 言い換えれば、それはどういう思想に基づいているんだ?
 言うまでもないだろう。「より良い目的」、つまり自由や解放や正義というものは、「危険を冒」さないでは勝ち取ることが出来ないという、近代のメインストリームをなして来た思想だよ。まさにフランス革命やアメリカ革命のベースになった思想だよ。明治維新を実現せしめた吉田松陰や西郷隆盛や福沢諭吉たちの革命思想と同じだよ。アラブ人のなかには、邦人の人質たちの行動に、松陰的・カミカゼ的なあのロッド(テルアビブ)空港乱射事件を引き起こした日本赤軍を見た人々も少なからずいたかもしれないが。
 そう言えば、アラブ世界で日本人と言えばまず岡本公三が出て来るだろうからね。
 そう。しかも岡本公三たちは、アラブによる自爆攻撃の第一号でもあるからね。もちろん関係はないんだろうが、安田純平さんの姓はテルアビブで自爆した日本赤軍の安田安之と同じだし。
 たしかに。どうも今回の邦人人質事件というのは、とても複雑と言うか、非常に多層的で多義的で様々な文脈が重合・複合・符合し合った事件でもあったみたいだね。

 俺は今回の事件に接して、まず村上龍の『希望の国へのエクソダス』を思い出したよ。とりわけあの「ネオむぎ茶」(バスジャック犯)を連想させる「ナマムギ」という少年をね。今井紀明さんと高遠菜穂子さんを重ね合わせれば、アフガニスタンに行った「ナマムギ」になるわけじゃないか。それを考えると、今回の事件について村上龍が何も発言をしていないらしいというのは分かる気がするよ。
 そうか。自分が小説に書いたことが現実になりかかったというわけか。
 そうだ。しかも「対話-57」や「対話-56」で君と話した日本人(の各個人たち)のアイデンティティーということが、あの小説の重要なテーマにもなっていたわけだからね。
 なるほど。前回君が言った国民国家日本の「法的集団」という側面と「血の共同体」という側面との亀裂というのは、「アイデンティティーをめぐる戦争」とも重なって来るわけだ。
 そう。今井さんや高遠さんたちは少なくとも「血の共同体」という側面からは遠いわけで、その意味で潜在的には「法的集団」という側面を志向していると思うんだが、しかし日本の「法的集団」という側面を代表する福田康夫と、「血の共同体」という側面を体現する人々からは同じように批判され、アメリカの「法的集団」を代表するコリン・パウエルとフランス人とアラブ人からは逆に称賛されるという、かなり複雑な文脈の重層・重合があるわけだが、少し離れて見ればそれほど複雑なものではないよ。
 複雑なのはトマス・ホッブスやエドマンド・バークたちの自由主義(リベラリズム)と、それとは別のフリーダム・正義・連帯を志向する政治思想(共和主義?)にあるということか。
 必ずしも「それとは別」とは言えない、というところにこのテーマの本当の複雑さがあるんだが、それについてはまた改めてということにしようか。


2004/04/16(対話-57) モッブ、アイデンティティ、国民国家、法

 上の標題からして、前回の続きをやるらしいということは分かるわけだが、イラクで拉致された邦人の人質やその家族を誹謗・中傷、更には脅迫までする人々というのは、アーレントや君の言うモッブ(ならず者)とは違うのか? 以前君は俺たちはモッブだったんだと言っていたが。
 いまだって俺たちはモッブだよ。アーレントが『全体主義の起源』に言うモッブというのは階級社会からこぼれ落ちたルンペン・プロレタリア的な根無し草のことだが(アーレントにおいては20世紀的大衆社会成立前の、その意味でのプレ「大衆(mass)」的存在でもあるわけだが)、いまのわれわれの文脈においては、われわれ自身の社会的伝統的ペルソナを喪失した人々、あるいは自分がアイデンティファイすべきペルソナを見出すことが出来ない人々、という風にとりあえず言えるんじゃないか。
 それは分かるが、それだけではモッブとは言えないだろう。
 いや、ここではそれがモッブの「本質規定」なんだよ。この自分自身のペルソナ(「顔」)を失った人々というのは、要するに社会へのつながりや根を失っているわけで、それが例えば高遠菜穂子さんのようなイラクの戦災孤児(ストリート・チルドレン)支援ボランティアといった、かなり「高尚」でいくぶん浮世離れしてもいるペルソナを発見しえた人物に対する反感や憎悪として現われるわけだよ。ある種の信念や自信を持っているように見える高遠さんの弟妹の言動も、モッブたちには癪の種であるわけでね。

 君もモッブだそうだが、君でも癪にさわるか?
 癪にはさわらないが、どこか無防備には見えたよ。ちょっとこれは危ないんじゃないかと思ったよ。マスコミも彼らのそういう危うさ・ナイーヴさを誇張して報道しているようにも見えたしね。いい「獲物」にも見えたんじゃないか。そういうことが分かるということが、俺がモッブであるという意味なんでね。
 つまり「自覚的モッブ」だということかな?
 それほど上等なもんじゃないよ。ただ、自分がモッブであることに「責任」を持つ必要があるということだよ。なにしろ何をするか分からない根無し草でもあるんだから。
 モッブは何をすべきなんだ?
 もちろん、まずは自分がモッブであることを自覚すること。モッブであることに改めて意識的にアイデンティファイすること。同じことだが、モッブであることに「責任」を持つことだよ。ルサンチマンや被害者意識とは反対の意識を持つということだよ。モッブである(モッブでしかない)という自分のアイデンティティーに「誇り」を持つということだよ。それがモッブがアーレント的な意味での政治的存在たりうる第一歩だということだよ。これは最近のアーレント研究者たちが批判的に言及している「本質主義」や「アイデンティティーの政治」とはちょっと違う。俺が言っているのは、このことを措いて伝統社会が持っていたペルソナ(「顔」)の厚みを取り戻そうとしても、それは無理な相談であるということなんでね。

 今回の邦人人質事件を通じて日本のモッブの二極分化という現象がかいま見えたような気がするんだが、それは俺の思い過ごしだろうか?
 思い過ごしじゃないよ。アーレント的な言い方で単純化して言うと、国民国家の「法的集団」という側面と、「血の共同体」という側面との亀裂が露出したということだよ。言うまでもなく、後者(「血の共同体」)の側面が今回3人の人質とその家族を誹謗・中傷・脅迫する衝動や行動として現われたということだが。
 なるほど。俺にはそっちの方が典型的なモッブの衝動・言動に見えたわけだが、前者(「法的集団」)の側面もそれを担う実体においてはモッブにほかならないということだな。
 もちろんだよ。国民国家の「法的集団」という側面を代表する人物は小泉にほかならないわけだが、刺青大臣の孫でオペラとプレスリーが大好きという小泉がモッブ以外の存在であるわけがないじゃないか。モッブ的存在ではないといちおう言えるのは陛下と皇太子殿下と愛子様ぐらいのものでね。大の相撲ファンであられた昭和の陛下などは、ひいきのお相撲さんの名前さえ明かされなかったぐらいだからね。小泉みたいにケロっと「感動した」と言えるようなお立場ではないことを、よく承知しておられたということだよ。そうであってこそ、最強不動のペルソナ(日本国の象徴)たりうるということでもあるんだけどね。

 そう言えば、天皇は来日したチェイニーに向かって凄いことを言ったみたいだね。
 そうだ。「自衛隊はイラクの人々のために、イラクの復興支援のために、イラクに赴いているのです」ということを言われたそうだ。そのお言葉を聴いたハリバートンの元会長(チェイニー)の顔が見たかったよ。ハリバートンは石油を取りにイラクに行っているわけだからね(TVに映っていたハリバートン子会社のトマス・ハミル氏には無事であって欲しいと願っているが)。さぞ鼻白んだと同時に、「君主」という存在が何を意味するか、「君主」が存在する国のありようというものを、生まれて初めて知ったかもしれない。昭和の陛下を前にしたマッカーサーも同じような気分だったんじゃないか。
 そうなんだろうな。自衛隊のイラク派遣というリアル・ポリティックスの現実が、天皇の発言ではそれとはまったく異次元の、純然たるヒューマニズムの文脈で語られたわけだからね。私の理解するかぎりそれ以外の派遣理由などありえようはずがありません、と。
 そういうことだ。ほとんど法的次元をさえ超越しておられるわけだからね。と言うか、日本国憲法を真剣に理解しておられるのは、いまでは陛下と皇太子殿下だけなのかもしれない。ともかく、これだけ有難い気分にさせてもらったのは本当にひさしぶりだよ。同時に、青年将校を中心とする昭和初期のモッブたちが、昭和の陛下に反感や憎悪を持った事情が初めてリアルに理解できた気がしたよ。あの北一輝に至っては、陛下のことを「くらげの研究家」と呼んでいたからね。大元帥陛下が言葉通りの平和主義者・理想主義者では、彼らとしては戦争ひとつ満足にできないわけだから。話がずれてしまったが、モッブや国民国家や法の話はまた改めてやることにしようか。いまは3人の邦人の解放を喜びたいからね、俺としても。


2004/04/10(対話-56) 気質、アイデンティファイ、責任、政治

 前回君はハンナ・アーレントの「気質」についてちょこっとだけ触れていたが、本当にそれはアーレントが創り上げた政治思想と関係があるのか? 自分の気質を起点にしてひとつの政治思想を創り上げたというところが俺たち凡人とはちがうアーレントの偉大なところだ、と君は言っていたよね。
 たしかにそう言ったよ。
 しかしアーレントの政治思想は実存的な文学作品とはちがうわけだろう? それはひとつの論理的で合理的な体系でもあるわけだろう?
 もちろんそうだよ。アーレントは必然的でオートマティカリーといった意味での合理主義的な(無)思考や行動を批判してやまないわけだが、彼女の政治思想に整合性という意味での論理性や合理性があることはアーレントだって否定しないはずだよ。否定するわけがない。それが単に反時代的で非合理的な思想でしかないのだったら、俺だってここまでアーレントを問題にしたりはしないよ。もちろんニーチェなどと同様、そういう風に理解(誤解)される側面があることは、アーレントもよく知っていたろうけどね。
 そうだよね。しかしそうであれば、自分自身の個人的な気質みたいなものから離れるのでなければ体系的な思想など創り上げようがないんじゃないのか?
 俺がアーレントの気質と言ったのは、アーレントの個人的な気質のことではないよ。君や俺にも通ずる気質という意味で言ったんだよ。それにアーレントの政治思想は体系的な思想というのとは少しちがうよ。
 それは分かっているが、アーレントの気質というのは普遍化できるようなものではないわけだろう?
 君が言わんとしていること、つまり本来的に趣味的で個人的なものである気質と「普遍的」な思想が両立できるのだろうかという疑念は分からないではないが、アーレントの気質というのは非常に「強い」もの、しかも日本人である君や俺にも通ずる現代人に固有の気質だから、19世紀人であるニーチェほどにもそれについて弁明する必要がなかったということだよ。アーレントは端的にそれを「パーリア(賤民)」と名付けているよ。恐らくそれはアーレントの言う「モッブ(ならず者)」を換骨奪胎したものだと思うが。

 アーレントの気質というのはパーリア的な気質のことなのか?
 アーレントが自覚的にそう名付けたということだよ。話は飛ぶかもしれないが、加藤典洋の場合は自身のそれを「ラディカリズム」(あるいは「否定性」)と名付けていたよ。
 なるほど。問題は名付けにあるというわけか。
 自分の気質を自覚的に引き受けるにはそういう「名付け」が必要なんだろうということだよ。そうすることで初めて「責任」が生まれるということだよ。責任の意識が生まれなければ何も始まらないということだよ。その場合の責任というのは言うまでもなく「政治的」な責任でもあるわけだが。
 「政治的」という意味は、それは他者を意識した行為であるからかな?
 そうなんだが、同時にそれは自己内他者の創出でもあるだろう。つまり自分自身に対する「政治責任」も生まれるということだよ。それはそうと、君や俺がアーレントの気質を理解したり、それに強いシンパシーを感じたりするのは、加藤典洋的な「ラディカリズム」を通じてなんじゃないのかな。
 しかし加藤典洋のラディカリズムには、アーレントのパーリアのような責任の意識はないんだろう?
 ないよ。だから加藤典洋はラディカリズムを捨てたわけだよ。『敗戦後論』のようなものはラディカリズムからは書かかれようがないからね。ラディカリズムは一種の「無責任」感覚へのひきこもりだからね。それは自分を何かにアイデンティファイすることへの純粋拒否みたいなものだから。
 つまりラディカリズムというのは反政治的なものでもあるんだと?
 もちろんそうさ。政治は暴力や戦争とはまったく別ものだからね。アーレントの場合も、単純にラディカルであることからパーリアへと転回する、パーリアへと自覚的にアイデンティファイするということがあったんじゃないのか。だからこそ「意識的パーリア」なんでね、アーレントの場合。そうしてそこに責任の意識が生まれ、政治への転回・コミットメントが生まれて来るわけでね。
 なるほどね。気質と言ってもアーレントの場合は一筋縄では行かないわけだ。
 と言うか、アーレントは現代の大衆社会のなかでの人間の自己形成としては、多分これしかないだろうというモデル・ケースを示してくれてもいるわけだよ。われわれはパーリアかモッブなんだと。

 ずいぶん行き届いているんだね。
 そういう人物でなければ『人間の条件』などという本を書いたりはしないよ。だいたいわれわれはみんなラディカルな気質を持っているわけじゃないか。君や俺が犯罪者でないのは偶然みたいなものだからね。だからたいていの人は「酒鬼薔薇聖斗」や「ネオむぎ茶」の事件に接してギクっとしたはずだよ。
 たしかにあの「透明な存在」という言葉には猛烈にギクっとしたよ。ということは、やっぱり俺たちもみんな「透明な存在」だということなのかな?
 そう、さっき俺が言った自分を何かにアイデンティファイすることへの純粋拒否の感覚だよ。と言うか、いまや自分をアイデンティファイする何か(何であれ)の方も「透明な存在」になりつつあるのかもしれないわけでね。例えば、男であること、女であること、更には人間であること、といった最もベーシックな人間のあり方(=ペルソナ)の社会的内実さえ「透明」になりつつあるんじゃないか。しかしそうだとすると、アーレントのパーリア的自己形成モデル(これはルカーチなどのプロレタリア階級形成モデルに対するアーレントの挑発・挑戦でもあったのかも)は少し古いのかもしれないね。
 そりゃそうだろう。前回君はアーレントの価値観は19世紀のものだと言っていたじゃないか。
 そうだな。気が付けばもう21世紀だからな(^-^)。とは言え、さっき俺が言った男であること、女であること、人間であること等々の社会的内実を創り出したものこそ、アーレントの言う人間の世界建設能力なんでね。しかしまあ、そういう社会的内実なるものが創られてから500年近く経つだろうから「透明」にもなるよ。もうそろそろ消滅寸前なんじゃないのか。いまや規範も権威も国益もあったものではなく、誰もかれもが「私はがまんしない」の言いたい放題、やりたい放題だからね。まさに「空虚の時代」(ジル・リポヴェツキー)、「無痛文明」(森岡正博)のなかで、われわれの生の実質は確実に失われているわけでね。
 規範や権威の耐用年数はとっくに過ぎているんだと。
 日本が近代化されてからだって100年は経つわけじゃないか。さっき言ったような人間の社会的内実というのは伝統社会の遺産だからね。資本主義も自由主義も民主主義もそういうものを創り出す能力を持たないどころか、そういうものを掘り崩すことしか能がなかったわけで、だからこそ「(パーリアの)責任」を体系のアルケーとするハンナ・アーレントの政治思想が登場すべくして登場して来たということなんだろうが。
 なるほどね。しかしアーレントの政治思想が「人生論」や「心理学」まで装備しているのには驚いたね。なんだかアーレントがヘーゲルやゲーテみたいに見えて来たよ(^-^)。
 第一級の思想と言われるものはみんなそういうものなんじゃないのか。


2004/04/07(対話-55) 闘争的民主主義、ムクタダ・サドル

 君と会うのは久しぶりだな。たしか前回は東京で桜の開花が宣言された頃だったかな?
 そうだ。3週間前の3月19日だ。しかし今年はまだ桜が残っているから、開花したあとがいかに寒かったかということだな。もちろん寒さとは関係ないんだが、更新がだいぶ遅れてしまったよ。
 そうみたいだな。それで今回のテーマは「闘争的民主主義」というわけか。
 そうだ。最初は「闘争(闘技)としての政治」にしようと思っていたんだが、それだとハンナ・アーレントの議論をなぞるだけになってしまいそうだから、敢えて闘争(闘技)としての政治とアーレントの嫌いな民主主義(デモクラシー)をくっつけてみたわけだよ。
 アーレントは民主主義が嫌いなのか?
 そりゃ嫌いだろうさ。なにしろアーレントの生年は1906年で、アーレント好みの言い方で言うと「世紀の交の頃」だから。つまり、アーレントのベーシックな価値観は基本的に19世紀のものだからね。当時のヨーロッパのエリート層にとって、民主主義というのはフランス革命やアメリカ革命の理念・現実と不可分のものだったわけだから。ハプスブルグ家やホーエンツォレルン家を頂点に戴く19世紀のヨーロッパ社会のオピニオン・リーダーたちから当時のアメリカ社会がどういう風に見られていたかは君だって知ってるだろう?
 物欲で動く人間たちの社会(「欲望の体系」)ということだろう? 当時もしエコノミック・アニマルという言葉があったら、アメリカ人たちはそう呼ばれたんじゃないか。
 そうだろうな。ヨーロッパにかぎった話じゃないだろうが、富や財貨といったものは伝統社会においては卑しいものと見なされていたわけだからね。「富者が神の国に入るよりラクダが針の穴を通る方がやさしい」という意味の言葉は世界のどこにでもあるんじゃないか? だから、そういうものを得ることが人間のモチベーションになりうることを、アメリカ人たちが隠そうともしないことがひとつの驚きだったんだろう。従ってアメリカは一種の猿の惑星というか、猿の大陸というか、そういうものとして見られていたわけだが、逆に貧困に苦しむ下層の人々にとっては希望に満ちた新大陸として映っていたんだろう。だから多くの人々が続々と新大陸に渡って行ったわけだが、そのことがまたアメリカの新奇さ・珍奇さをいっそう際立たせてもいたわけでね。

 しかし政治制度としての民主主義(デモクラシー)とアメリカ的物欲社会とはまったく別ものだろう?
 もちろんデモクラットだったらそう言うだろうさ。人々の尊い犠牲によって勝ち取られて来たものである民主主義(デモクラシー)と物欲社会を同一視するなどとんでもないと。「対話-51」と「対話-53」で自由主義について少し検討してみたように、自由主義と深い関わりを持つと思われる近代の民主主義についても検討を加えて行く必要があるわけだが、ここではそうした近代の民主主義が、アーレントにおいては「多数者の専制」、「匿名の支配」、「世論の支配」として理解されていたということが押さえられていれば充分だろう。
 しかしアーレントは、『全体主義の起源・2』の「国民国家の没落と人権の終焉」という章において、無国籍者や難民の人権(の救済)について検討を加えているじゃないか。それは近代の自由主義や民主主義がもたらした人間観や価値意識を前提にしないでは考えることさえ出来ないんじゃないのか?
 どうかな。そういうことについてはまた機会を改めて検討してみるつもりだが、アーレントが1956年のハンガリー革命や60年代後半の世界的な大衆反乱に直面して、とりわけ後者への応接を通じてラディカル・デモクラット的構えに転じたということは言えるだろう。もちろん、だからこそアーレントを踏まえながら「闘争的民主主義」というテーマで考えてみようという気にもなったわけだが、にもかかわらず、「多数者の専制」、「匿名の支配」、「世論の支配」としての民主主義といった(トクヴィル的)考え方は維持されているはずだよ。つまりそれは全体主義の最大の温床としてのデモクラティックな大衆社会ということなんだが。
 なるほど。たしかに『全体主義の起源』(1951)や『人間の条件』(1956)においては、アーレントは民主主義に積極的な意味をまったく認めていないし、そもそも民主主義(デモクラシー)という言葉を使うこと自体を徹底して避けて(拒否して?)いるよね。
 そういうことだ。アーレントが民主主義という言葉を使わずに民主主義を論じたのは『暴力について』に収録された「市民的不服従」(1970)だけだろう。ついでに言えば、アーレントが市民という言葉を積極的な意味で使ったのもこの文章だけなんじゃないのか。アーレントが『革命について』(1963)において政治や革命の主体を名指す言葉として使っているのは人民だからね。人民以外では政治家、革命家、活動家かな。いずれにせよ、アーレントは民主主義だけでなく市民もお嫌いらしい(^-^)。

 お上品で成り上がり的でスノビッシュな言葉が徹底的に嫌いという点では君といい勝負なんじゃないか?
 それは君だって同じだろう。しかし、そういう気質を起点にしてひとつの政治思想を創り上げたというところが俺たち凡人とは違うアーレントの偉大なところでね。ここで話は飛ぶが、最近イラクのムクタダ・サドルという人物が俄然注目を集めているが、君はこの人物をどう思う?
 よく分からないよ。シーア派のお坊さんということだし。しかし例えば「抵抗」というあり方を何よりも重視した竹内好だったら、ムクタダ・サドルの登場を熱烈歓迎したんじゃないか。
 俺が訊いているのは君はどう思うかということなんだが、そこで竹内好を持ち出すということは、どうやら君も歓迎しているらしいということは分かるわけだが、やっぱりこういう人物には出て来て欲しかったよね。大東亜戦争敗戦後の日本の精神的な貧しさが、われわれがひとりのムクタダ・サドルを持ちえかったことによっているのだとすれば、ムクタダ・サドルの呼びかけに応じて多くのイラク人たちが命を捨てて反米・反占領のレジスタンス闘争に決起しているというのは実に羨ましいかぎりだよね。
 もちろんだよ。多分世界中の人々が、心の中でムクタダ・サドルと彼に従って決起したイラク人たちを応援しているはずだよ。その際ムクタダ・サドルとその支持者たちの「思想」「信条」は差し当たりどうでもいいわけで、彼らが反米反占領レジスタンス闘争に決起したという事実にもっぱら意味があるんでね。
 これで世界中の誰もイラクとイラク人を馬鹿にすることが出来なくなるだけでなく、イスラム原理主義=テロリズムという図式が崩れて、米軍と連合軍の武力・暴力に抗するイラク人民の闘争というまったく新しい図式が生まれて来るかもしれないわけだからね。
 しかもこのムクタダ・サドルとその支持者たちの闘争が潰え去ることになったとしても、彼らが決起したという事実は消えないからね。この事実はフセイン後の新生イラク建設に向けた原点にさえなって行くだろう。
 そうだな。それからイラク人民ならぬわれわれとしても、あの絶望的な「9.11」のあとにこういう古典的な抵抗がありえたということに勇気づけられるよ。そしてもしこれがアメリカ革命のようなコースをたどることになったら、アメリカとアメリカ人の面目やプライドは完膚なきまでに叩き潰されることになるだろう。いまのアメリカにはあまり希望が感じられないから、それはそれでいっこうに構わないわけだが。

 しかしもしこの抵抗が広がって行ったら、占領軍の兵士たちが彼らを支援する、あるいは彼らに合流するというような展開も出て来うるわけだよ。もっと言えば、アメリカや国連が主導するいかがわしいイラク復興などより、イラク人自身による新生イラク建設の方がいいに決まっているから、イラクに出兵しているアメリカの同盟国の離反ということもありうるわけだよ。
 ともかく意外な展開になったものだよ。しかも、ムクタダ・サドルと彼に従って決起したイラク人民というのはアーレント的な「闘争的民主主義」を体現していると見ることも出来るわけでね。
 そうなのか。じゃあちょっとそれを説明してくれよ。
 さっきも少し言ったように、アーレントは闘争的民主主義などという言い方は一切していない。君も知る通り、アーレントは『人間の条件』の中で「他人と競って自己を示そうとする情熱的な衝動」であるところの「ギリシア古代の活動の原型」としての「競技精神(agonal spirit)」について述べている(ちくま学芸文庫P.313-314)。ここから「アゴーン(競技、競争、闘技、闘争)」あるいは「アゴニズム」の政治思想家ハンナ・アーレントという解釈が出て来たらしい。杉浦敏子というアーレント研究者は、「民主主義の要求する同質性が、異質性の排除をもって実現されているとすれば、その中に闘技的な契機を持ち込むことによってのみ、民主主義の活性化は実現されるのではないだろうか」と述べている(『ハンナ・アーレント入門』藤原書店P.123)。
 その杉浦敏子は闘争ではなく闘技と言っているんだよね。
 そうだ。闘争ではなく闘技だ。彼女の本の第4章は「闘技的民主主義の可能性」となっている。それを闘争、更には闘争的民主主義と言い換えたのは俺でね。何故敢えて闘争と言い換えたのかと言うと、本当の本音ではわれわれは誰も平穏・平和に生きることなど望んでいないからだよ。われわれが本当に望んでいることは幸福に生きることでね。そして改めて言うまでもなく、われわれが本当の幸福に包まれるのは、人々とともに公的な世界を生きる時、更には人々との間に生まれる「権力(power)」の増大・拡大を実感する時でね。これは森岡正博の言う「生命のよろこび」(『無痛文明論』トランスビュー)を遥かに凌ぐよろこびであるはずだ。もちろんこれは共存在という人間の根源的あり方によっているわけだが。
 つまり、コミューンの幸福、ソヴィエトの幸福ということだろう?
 その通りだ。しかし闘争的民主主義についてこれ以上述べるのは別の機会にさせてもらおうか。目を通しておかなきゃならない本や文章がまだいくつかあってね。


2004/03/19(対話-54) 高橋尚子落選、『<解放>の果てに』、など

 いささか旧聞に属するが、このあいだの高橋尚子のオリンピック代表落選はいったい何だったんだ? イギリスからは当然ポーラ・ラドクリフが出て来るだろうから、アテネでは2時間20分をめぐる戦いになるんじゃなかったのか? であれば、世界で始めて2時間19分台を出した高橋尚子を当てるしかなかったんじゃないのか? それを、「透明性」だの「国民が納得する選考」だのと言って、選考レースのタイムで高橋を落とすというのが「専門家」のやることなのか? 去年の東京国際で高橋が体の調整と力の配分に失敗したと言ったって、あの時の暑さと向かい風のきつさはみんな知ってることだろう?
 いや俺もびっくり仰天だよ。陸連が選考基準をあいまいにしていたこと(それは決して悪いことではない。むしろあいまいであることが、広大な展望や未来をもたらす源泉になるケースが多いことを知るべきだ。可能性をいつも開いておけということ)が問題の発端であることは間違いないとは言え、土佐礼子が名古屋であんなに頑張るとは予想もしていなかったんじゃないのか? 陸連としては「歓迎すべき誤算」だったにしても、まさかあの世界記録を出した(すぐに破られたが)高橋尚子を外すとは思いもよらなかったよ。
 俺は見なかったが、土佐礼子は立派な走りをしたんだろう。しかし俺が言っているのはそのことではなくて、陸連の選考委員たちが、国民から批判があるのであれば受けて立とうという気概を見せようとしなかったことだよ。彼らの本当の存在理由は実はそこにあるわけじゃないか。しかるに、そうした本来の職務を放棄して、こともあろうに「順位と記録という客観指標」なるものを持ち出して高橋尚子を落としたということだよ。しかしそれじゃあ高橋伸夫や<think or die>が痛烈に批判していた「成果主義」の評価システムと何ら変わらないじゃないか(「対話-49」等参照)。要するに「客観指標」を機械的に当てはめて当否を決めるということだろう? しかし、そうであれば選考委員(や上司など)が存在する理由がなくなるわけじゃないか。
 まったく君の言う通りだよ。正当なロジックや議論や確信をすべて放棄して、それを「透明性」や「分かりやすさ」といったものに預けてしまおうというのがいまの時代風潮なんだとしたら、それこそが真に恐るべきことだよ。『日経』は3月16日朝刊の「高橋尚子選手落選」という論説で、「政治力や密室的、偏向的な選考は不要。誰もが納得できる選考は容易ではないが、それに近づけるのが公平な精神である。」などとしたり顔で書いているが、それこそ無思考と無関与と持ち場放棄を宣言しているようなものでね。

 へえ。『日経』がそんなことを書いているのか。それじゃあ人間的自由を放棄しようと言ってるのと同じじゃないか。人間は偏向しているからこそ人間でありうるのであって、偏向した意見を戦わせるのが「政治」というものなんじゃないのか。それを「客観指標」に委ねてしまうというのでは動物と同じだよ。いったいどうして民主主義の手続きを投げ捨てるようなことを平気で書くんだ?
 この論説の筆者はそこまでは考えていないと思うよ。『朝日』の3月16日朝刊では、「消去法でいけば、この選択肢しかない ・・・ 3人がメダルを逃してもだれも文句を言わないだろう。」というやくみつるという漫画家の談話を載せていたが、これも『日経』の筆者と同じ「無思考・無関与・無葛藤のすすめ」でね。要するに敗北主義そのもので、考えたり議論したりというような面倒なプロセスから逃亡することをすすめているんだよ。もし勝てなくても、「透明性」と「分かりやすさ」を満たしていればそれでいいじゃないか、というわけだよ。国民から批判を受けないようにするにはこれしかない、という話だよ。つまり「透明性」と「分かりやすさ」というのは、いまや大東亜開戦前の「聖戦完遂」と同じ魔語になっていることを、彼らも認めているということだよ。
 戦さに勝つかどうかは時の運だと。なによりも、聖戦完遂に立ちふさがる米英に「苛烈なる実物教育を受けしめるべきである」(島田俊雄の国会演説)と(^-^)。
 そう。なによりも「透明性」と「分かりやすさ」が鉄のタガのように貫徹されることが重要なんだと。その方が「シンプル」で「美しい」ではないかという、全体主義的マインドを絵に描いたような話だよ。だいたい「誰もが納得できる選考」を求めているらしいからな、自分の全体主義心性に気が付かないらしいこの記者は。話は少し飛ぶが、『日経』はいまになっても「量的緩和とゼロ金利という異常事態」というようなことを書く新聞だからね(3月17日朝刊社説)。完全に話は逆で、「異常」なのは10年にもわたってデフレを放置したことの方であるという正当な議論は、ここにはないんでね。恐るべき敗北主義、無思考、脱関与、持ち場放棄と言うべきだよ。まさに「透明性」と「分かりやすさ」万歳だよ。ハイル・ヒトラーだよ。毛主席万歳だよ(^-^)。
 いったいいつからなんだ?
 なにが?
 そういう無思考にみんなが身を委ねるようになったのは、いったいいつからなんだ?
 やっぱりソ連崩壊というのが決定的だったんじゃないのか? 前回アレクサンドル・コジェーヴとフランシス・フクヤマに簡単に触れたが、フクヤマの本のタイトルは"The End of History and the Last Man"(「歴史の終わりと最後の人間=末人」)だからね。要するに、われわれ全員が自由主義と資本主義という「のりこえがたい地平」へと押し戻され、閉じ込められたということが起点にあるんじゃないのか。

 しかしソ連が自由主義と資本主義に対するオルタナティブでありえた時代は、それ以前にとっくに終わっていたんじゃないのか? 俺はスペイン内戦とモスクワ裁判のあたりで終わっていたと思うが。
 意識のレベルではその通りだろう。しかし意識より強力でしぶといのが無意識でね。いくらソ連が「裏切られた労働者国家」であり、「スターリニストに乗っ取られたテロリズム国家」であるということを頭では分かっていても、無意識のレベルでは、依然としてソ連は人類が次の地平へと進みうることの「希望」ではありえたということだよ。それは現実には「希望」の残骸にしか過ぎないにしても、にも拘わらずなお、そこに「希望」に連なる何かが感知・触知されていたということだよ(メルロ=ポンティの『ヒューマニズムとテロル』は、このぎりぎり最後の地点から書かれた「希望」だったのかも)。要するに「希望」なくして人間は生きられないということだよ。ヘーゲルで思考を鍛えたコジェーヴとフクヤマにはそのことがよく分かっていたということだよ。
 左翼くずれのネオコン・ヘーゲリアンにはかなわないね。
 たしかにそうだな。しかし、コジェーヴやフクヤマに続くウィリアム・クリストルやロバート・ケーガンといったブッシュ政権のイデオローグたちにわれわれが組しないというのであれば(それに組するというのも選択肢のひとつだが)、われわれ自身で別のオルタナティブを創り上げて行くしかないんでね。そうすることによってしか、いまの無世界と自閉のなかでの敗北主義、無思考、脱関与、持ち場放棄を克服する道はないんでね。
 しかしその前に、君の言う「無世界と自閉」の構造を明らかにする必要があるよ。それこそ新憲法草案作成に当たっての決定的な与件であるわけだろう?
 その通りだ。前回も少し触れたが、最近水島茂樹という京大の思想史家が書いた『<解放>の果てに---個人の変容と近代の行方』(ナカニシヤ出版)という本を読んだんだが、これはそういうことを考えるに当たってはとても参考になりそうないい本だよ。
 へえ。じゃあその本に書かれていることを教えてくれよ。
 実は、今回俺が使っている「持ち場放棄」とか「のりこえがたい地平」といった言い方はこの本から拝借しているんだが、そういう言い方からも分かるように、この著者は政治・社会学的な方向からアプローチしていると言っていいと思う。参照または引用されている固有名を挙げると、意外なことにまずケインズ、それからアーレント、コジェーヴ、マルクーゼ、フロイト、オルダス・ハックスリー、コルネリュウス・カストリアディス、ジークムント・バウマン、マルセル・ゴーシェ、アルバート・ハーシュマン、レニ=ロベール・デュフールなどだ。
 あとの方はまったく知らない名前だな。
 俺だってそうさ。最後に挙げた三人は邦訳も出ていないだろう。しかしこの本についてはまた機会を改めてとさせてもらうよ。相撲やサッカーもあって、今週はちょっと疲れたよ。


2004/03/12(対話-53) 文化をめぐって(アーレント、アドルノ、コジェーヴ)

 君は03/03の「対話-51」で「社会・文化・価値領域の全面化」ということを言っていたよね。つまり自由主義も新自由主義も、純然たる私的領域であるところのオイコス(家政)の拡大バージョンにほかならない「社会・文化・価値領域」を基盤にしているが故に、それら(自由主義&新自由主義)は公的領域を創り出す政治とは本質的に別ものなんだと。それは言い換えれば、自由主義や新自由主義は政治思想というよりも、社会的領域を基盤とする偽政治思想でしかないということになるんだろうが。
 たしかにそういう意味のことを言ったよ。もちろんそれはハンナ・アーレントを踏まえるかぎりそういうことになる、という話だよ。で、それがなにか問題なのか?
 俺が気になったのは、あそこで話題になった文化や価値と言われるものが、現代においては社会領域に生まれ、それを基盤にしているということはよく分かるんだが、文化は本来は人間の政治的志向から生まれたものなのではないのか、ということだよ。
 もちろん「本来は」というレベルで言えば、そうなのかもしれない。それこそアーレントの言う「人間の世界建設能力」に関わるものなのかもしれないわけでね。アーレントは「文化の危機」(1960)という文章も書いていて、「文化という言葉は語源的にも概念的にもローマに由来する。「文化」(culture)という語はcolere---耕し養う(カルティベイト)、住まう、気遣う、慈しみ保存する---から派生したものであり、自然が人間の住まいにふさわしいものになるまで自然を耕し慈しむという意味での、人間と自然の交わりに主に関わっている。」と書いているよ(『過去と未来の間』みすず書房P.285-286)。
 流石はハイデガーの弟子だな。語源学的発想もハイデガーばりだし。しかし、そういうものだった文化がなんで政治領域から社会領域へと移動してしまったんだ。
 さっきのアーレントの引用からも分かるように、それは政治的なものであるとともに社会的なものでもあったということだよ。そこで目指されているものは「世界建設」なんだろうが、その(アーレントの言うcolereの)自然への対し方は行為(活動)と言うよりは製作(仕事)的じゃないか。
 たしかにね。
 つまり西欧的な意味においても、文化というものは政治的であるよりは社会的なものであったらしいということだよ。アーレント的には前(あるいは後)政治的と言った方がいいのかもしれないが。同じ文章でアーレントは、「社会の成立は近代以前には遡らない」とも言っているから(同上P.267)。

 なるほど。そうすると、自由主義こそまさに近代の思想だということになるわけか。何故なら、アーレントによれば近代以前にはその存立基盤である社会が存在していなかったわけだから。
 近代の思想というより、近代そのものの自己意識と言うべきだろうな。あるいは、社会の勃興と成立ということが近代の指標なんだとしたら、その社会自身の自己意識と言うべきなのかもしれないが。そもそもホッブスの「万人に対する万人の戦い」という考え方にしても、それまでの階層秩序や身分制の解体に伴なう、人間のアトム化の進展(=社会の成立)ということが前提としてあったと考えられるわけでね。
 ロックの言う自然法や自然権にしたって同じだよね。つまりそこでも、それまでの規範やシステムが取っ払われた社会の出現ということが想定されているわけだから。
 啓蒙という考え方もそこで生まれたんだろう。つまり魔術からの解放、あるいは神話・宗教から科学へという志向が、既に進行していた階層秩序の解体と社会の勃興を更に促す中で、近代という意識が生まれたということなんだろう。もちろん、中世的階層秩序の崩壊ということが先立ってあったんだろうが。
 啓蒙と言えば、『啓蒙の弁証法』(1947)の著者のひとりでもあり、アーレントの「宿敵」でもあったT.W.アドルノを思い出さないわけには行かないが、アドルノの場合の啓蒙というのは神話的・魔術的思考も含み込んだ概念だよね。もちろん、アドルノがそこで批判の対象としている啓蒙というのが、近代の合理主義的思考としての啓蒙であったことは間違いないんだろうが。
 アーレントがアドルノを「宿敵」と見なしていたということは、過大に評価されるべきではないと思うよ。それはおよそアーレントらしからぬ私的な怨恨とか、ナチスへの対応をめぐるこれまた私的な嫌悪感によるものだったようだからね。それよりも、アーレントが『人間の条件』の終章(「<活動的生活>と近代」)を書くに当たって、アドルノたちの『啓蒙の弁証法』を参考にしたと思われる、ということの方がずっと重要だろう。
 なるほど。ところで、その啓蒙というのは文化や社会や自由主義とどういう風に関わるんだ?
 文化の核心にあるもの、あるいは、文化を文化たらしめている原理が啓蒙なんだろう。一般的なレベルで言っても、18世紀の啓蒙主義が生み出したものこそ近代文化国家の理念とされているじゃないか。自由・平等でも、基本的人権でも、国民主権でも、民主主義でも、「法の支配」でも、三権分立でも要するになんでもいいんだが、これらはすべて18世紀の啓蒙主義がもたらした文化的=社会的な政治理念だったわけだよ。そしてこれらこそホッブスやロックが基礎づけた自由主義の成果であり帰結でもあったわけだ。

 しかしアドルノによれば、啓蒙が進むほどに野蛮も増大するんだと・・・。
 そうだ。まさにそれこそアドルノとマックス・ホルクハイマーが「啓蒙の弁証法」と呼んだものだ。アドルノは「文化批判と社会」(1949)という文章の終わりの方で、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という非常に威嚇的で人を鼻白ませるようなことを書いているが、アウシュヴィッツを生み出した文化の野蛮さに目を閉ざして抒情詩を書くこともまた野蛮なふるまいであるには違いないわけだからね。のみならず、「自然における一切を反復可能なものと化す抽象的なものの支配と、支配が自然における一切をそのために整えてやる産業の下では、すべてが水平化され、結局解放された人々自身が、啓蒙の成果としてヘーゲルが指摘したあの「群(トルップ)」になってしまった。」(『啓蒙の弁証法』岩波書店P.16)と言われる事態こそ、近代=社会の根底に横たわる文化=野蛮の風景でもあるわけだよ。ハンナ・アーレントは上に挙げた「文化の危機」の中で「大衆文化の危険は、社会の生命過程 ・・・ が文化対象を文字どおり消費し、食い尽くし、破壊してしまうという点にある」と述べており(『過去と未来の間』P.279)、アーレントにおいては「文化対象」の特権性は維持されているかに見えるが、近代=社会、及び、(大衆)文化=野蛮という認識はアドルノと変わらない。だから、このレベルではアーレントはアドルノと「和解」できたのかもしれないね。
 どうかな。俺にはハンナ・アーレントの記述はどこまで行っても"パーリア"のそれに見えるし、それに対比すると、アドルノが貴族主義的"例外ユダヤ人"に見えてしまうのはどうしようもないことのような気がするよ。一方アドルノからすれば、許すべからざる"国家社会主義(ナチ)学長"にして思考の上での最大最強のライバルでもあったあのハイデガーの恋人こそがアーレントだったわけじゃないか。だから君の言う両者の文化認識の親近性にしたって、たまたま交差しただけと見るのが妥当なんじゃないのか。だいたいアドルノが骨の髄までの文化的動物であるとしたら、アーレントの方はあくまでも政治的動物志向じゃないか。アーレントにとっては、単なる生命現象に成り果てた文化なんかどうだっていいわけだろう? 結局のところ。
 たしかにね。まあ、君の言う通りなんだろう。アーレントは、「われわれの同胞である大衆が気を紛わせ楽しんでいるのとまったく同一のものでわれわれも気を紛らしたり楽しんだりできるという事実を否定するのは、まったくの偽善か社会的な俗物性にすぎない」とも書いているからね(同上P.278)。これはアドルノに向けられた言葉なのかもしれないが、結局アドルノは「新しい始まり」を創り出したあの奇跡的なビートルズの音楽を理解し熱烈歓迎するすべもなかったろうからね。アドルノはジョン・ケージの音楽も理解しなかったんじゃないか?

 ところで君は「対話-51」の最後のところで「動物化」という言葉を使っていたよね。あれは東浩紀の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)から拝借したんだろうが、東浩紀は東浩紀でアレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』から借りた考え方でもあるわけだよね。
 そうらしいな。俺はコジェーヴも、コジェーヴの影響下で書かれたフランシス・フクヤマの『歴史の終わり(と最後の人間)』(1992)も読んでいないんだが、コジェーヴのヘーゲル&マルクス解釈というのは、ポストモダニズムと新自由主義の形成に当たって決定的な影響力を及ぼしたらしいな。
 へえ。ちょっとその経緯を説明してくれよ。
 経緯は知らないが、経路だったら簡単な話だよ。水島茂樹という京大の社会思想史家が書いた『<解放>の果てに』(ナカニシヤ出版)という本によると、ナポレオンの登場に歴史の完成を見たヘーゲルにならって、コジェーヴは黄金の50年代のアメリカ社会、即ち大量生産・大量消費システムを完成させたアメリカ社会に「歴史の終わり」を見たわけだよ。アラン・ブルームはコジェーヴを「20世紀最大のマルクス主義者」と評したそうだが、コジェーヴの方は「マルクスは神であり、フォードはその預言者である」と言っているそうだ。
 そう言えば、フランスのレギュラシオン学派がそんな風なことを言ってたっけ。
 そうだね。しかしコジェーヴの場合は、自動車王ヘンリー・フォードこそ『資本論』におけるマルクスの「預言」を実現した人物と見るわけだ。このフォーディズム的修正資本主義こそが共産主義とも見まがう豊かな社会をもたらしたわけだが、そこにマルクスの「預言」の実現を見るかぎり、それはマルクス的な意味でも「歴史の終わり」にほかならないことになる。承認を求めての人間(階級)間の闘争、自然とのあいだの人間の闘争という意味での歴史はここにおいて終わりを告げる。そして、ポスト歴史段階の人間にはふたつの生存様式が残されるだけとなる。それは@アメリカン・ウェイ・オブ・ライフの追求と享受、即ちコジェーヴの言う動物への回帰、そしてA形式的な差異化・様式化の追求としての日本的なスノビズム、このふたつだけであると。
 なるほど。日本の80年代のポストモダン(とポストモダニズム)は、既に所与となっていた@をAの方向で実現して行ったということだな。しかし新自由主義の方はよく分からないな。
 大雑把に言えば、コジェーヴの孫弟子のフランシス・フクヤマの立場がそれだよ。コジェーヴの言う人間(階級)の闘争の終わりというのを、世界的イデオロギー闘争(第二次大戦と冷戦)の終わり、つまり西欧型自由主義とその理念の決定的勝利に置き換えればいいわけだよ。残るのは、「末人」(ニーチェ)たるエコノミック・アニマルのあいだの、自由主義の枠内(=市場)での闘争だけなんだと。要するに自己責任に基づく競争ってやつだよ。いずれにしても、コジェーヴから得るところはあまりなさそうだな。フクヤマの見通しにしても、日本の長期不況と9.11でだいぶ雲行きが怪しくなったようだし。フクヤマがネオコンに転じた(もとからそうだった?)のはそのせいかもしれない。話が散漫になったが、最後に「大衆社会と大衆文化の公分母は大衆ではなくむしろ社会である」というアーレントの言葉(同上P.267)を引いておこう。
 アーレントの文化についての考え方はだいたい分かったよ。


2004/03/05(対話-52) アーレントの「政治」、「構え」

 前回に続いて今回もハンナ・アーレント(1906-1975)で行くよ。
 いいね。それこそ前回言った「本来の議論」だからね。
 ハンナ・アーレントについて語ることが「本来の議論」なんじゃないだろう。そうではなく、アーレントの政治思想がわれわれに突きつけていることを理解し、われわれ自身が自らそこに在るところの現実を見、そこに問題があるのであればそれを認識し、更には、必要ならそれを変えて行く方向を明らかにして行くということだろう。もちろん、そうしたわれわれの思考や意思をアーレントはいつも鼓舞してくれているわけだが。
 俺もそういう意味で言ったつもりだよ。それで今回はどういう話だ?
 アーレントにとって政治とは何であったかということだよ。と言うのは、アーレントの言う政治には思想的あるいは理念的な「内容」というものがないわけじゃないか。もちろん、それ故にこそアーレントの政治思想は一種の「普遍性」を持ちえているわけなんだが、これは特筆に価することなんじゃないかと思ってね。
 たしかにそれは言えそうだな。それから、何故思想や哲学ではなく政治なのか、何故思考ではなく行為(活動)なのか、ということについてもアーレントはあまり語っていないよね。
 そうなんだよ。もちろん、何故思想や哲学ではなく政治なのかということについては、アーレントのユダヤ人としてのナチズム体験が決定的であったろう、というようなことは誰でも言えるわけだよ。しかしながら、それに対してアーレントが提起したものは、「内容」を持った政治思想であるところの自由主義でも保守主義でもマルクス主義でもなく、思想や理念というような「内容」を持たない「政治」そのものだったというのは、熟考に値することだと思うし、それ自体ひとつのテーマになりうるわけだよ。

 そうだよな。しかし世のアーレント研究者たちからはそういう話はあまり聞かないね。
 世のアーレント研究者なんかどうでもいいんだが、これは一体何なのだろう、ということだよ。
 何なんだろうね。そう言えば、アーレントの年上の恋人であるマルティン・ハイデガーの『存在と時間』(1926)が出た時も、「内容がない」、つまり「ハイデガーの言う良心とはどういう良心なのだ」云々と言われて、さんざん「批判」されたんじゃなかったっけ?
 そういうことがあったかな。まあ、アーレントのすべての著作がある意味でハイデガーに向けて書かれたことは間違いないだろうね。そしてアーレントの基本的な「構え」には反西欧形而上学という志向が見られるわけで、それが基本的にハイデガーの影響下にあることは間違いないと思うが、ハイデガーにおける西欧形而上学の解体という志向は、思考の外に出ることではなかったわけだからね。むしろそれは、徹底的に思考すること、あるいは古代ギリシアの思考に依拠して西欧形而上学を解体することだったわけだから。
 しかしアーレントの場合は思考の外に出ているよね。いやそれも思考にはちがいないんだろうが(政治思想なんだから)、伝統的思考を解体する地平・領域としての政治に依拠したということだよね。
 政治に依拠したと言うより、新たに政治を「発見」したということだろう。それもハイデガーがヘラクレイトスやアナクシマンドロスに依拠したように、アーレントの場合はペリクレスやアリストテレスに依拠してそれ(政治=ポリス)を発見した、ということだよ。もちろん、それに先立ってアーレントは亡命先のフランスで、シオニスト活動家としてヨーロッパのユダヤ人たちをパレスチナに送り出すという活動を経験をしているよね。それはドイツ脱出直前から続く活動家経験でもあったわけだが、そうした活動のなかで政治を「発見」したということがまずあったんだろう。アーレントの政治思想家としてのひとつの重要な原点はそれだと思うよ。

 なるほどね。誰だったか忘れたけど、そのフランスにおける活動家経験から、アーレントの政治思想の「内容」をつかもうとしていたアーレント研究者がいたよ。
 それが意味がないとは思わないが、たしかにそこからアーレントのシオニズム思想の「内容」をつかむことはできるかもしれないね。しかしもっと重要なことは、その経験がアーレントをしてフランスの反ナチ・レジスタンス闘争のなかに「政治=公的活動」を「発見」せしめたことの方なんじゃないのか?
 そうなんだろうな。アーレントはルネ・シャールの詩のなかに、フランスの反ナチ・レジスタンス闘争が体現した「政治」、即ち「公的自由」と「公的幸福」を見ているよね。まさにそれこそ命を的にかけた戦いだったわけだが。ひとが自らの私的=生物的=経済社会的存在を超える、つまり「人間」になる、ということのアーレント的な意味は、そういう闘争=公的活動に自発的にコミットして行くこと以外ではないわけだよね。
 君にしちゃいいことを言うじゃないか。と言うか、今回俺が言おうとしていたことを言われてしまったよ。結局、アーレントにおける最も優れた意味での「政治」というのは、自発的に自らの私的=自然必然的存在を超えて、それをひとびとと共にある「世界」のために、あるいはその「世界」へと投げ出すということだよ。
 えっ、ホントか? 俺はアーレント的「政治」のひとつの要素・側面という意味で言ったんだが、そういう「無私」であることが最も優れた意味での「政治」なんだとしたら、それじゃあまるで山本常朝(1659-1719)の『葉隠』じゃないか。そうすると、「政治といふは、死ぬ事と見付けたり」か(^-^)?
 もちろん『葉隠』で言われているのとは文脈がちがうだろう。たしかにアーレントと山本常朝は恐ろしく似たところがあるようだが、『葉隠』の方はかなり個人主義的な傾きが強いんじゃないのか? ともかく、アーレントが「政治」ということを考えて行く上で、カール・シュミットの決断主義や、アーレントが大好きだったカミュ的実存主義などは重要な参照先だったはずだよ。アーレントは、マルクス主義に傾斜して行ったサルトルやメルロ=ポンティの実存主義を厳しく批判しているから(これは山本常朝による「小利口な」赤穂浪士への痛烈な批判に相似的かもしれない)、カミュ的実存主義というのは文字通りの意味なんだが。

 なるほど。思想や理念というような「内容」を持たないアーレント的政治概念というのは、カミュ的(反サルトル的、反理念的)実存主義とも大いに関係がありそうだな。
 カミュと言っても、俺は『異邦人』ぐらいしか知らないんだが、あの主人公の青年ムルソーの殺人という行為に「理由」や「動機」や「意味」がないという話は強烈だよね。
 たしかにね。しかしそこにアーレントの「政治」との関連があるのかな?
 あると思うよ。少なくとも山本常朝の『葉隠』なんかよりはずっと直接的なつながりがあるだろう。俺としては、アーレントに強烈な反理念主義、反思想主義、反イデオロギー主義、反意味内容主義といった傾きを感じないわけにはいかないんだが(しかし断じて反知性主義ではない)、それは反ナチズム、反スターリニズムといった表面的なアーレントの志向よりずっと「深い」と思う。恐らくそれは、アーレントの反私(private)志向、反生物志向、反生命志向、反労働志向、反必然志向に由来しているんだろうと思う。
 なるほどね。そういう風に「反」という切り口からアーレントの「政治」をめぐる思考を見て行くと、いろいろと見えて来るものがありそうだな。
 そこにアーレントの「構え」というものの実質的な「内容」があるんだろうと思うよ。それこそアーレント特有のユダヤ的、あるいはパーリア的な構えというものだろう。恐らくそれはフッサール、ヴィトゲンシュタイン、カフカ、トロツキー、ベンヤミン、E.ブロッホ、H.ブロッホ、T.W.アドルノ(アーレントは最後までこの人物を「敵」と見なしていたようだが)といった傑出したユダヤ人たちと共有する構えだったんだろうと思うよ。
 チャップリンもフロイトもマルクスもローザ・ルクセンブルクもだろう? 彼らはすべて新しく始めたひとびと、あるいは創始者、創設者でもあったわけじゃないか。
 その通りだ。そしてそれが今回の結論でもあるんだが、アーレントの「政治」というのは、新しく始めること、創始すること、創設すること、これだよ第一義的には。もちろんそれは「ひとびとと共に」ということなんだが。だから思想や理念、つまり「内容」は、ひとびとと共に新しく建設されるものであるということだ。つまり、アーレントにとっての「政治」とは、何かを実現するための「手段」ではなく、それ自体が「目的」であるということだ。そうした、アーレントの「政治」の具体的なあり方や広がりについては、次回以降にさせてもらうが。


2004/03/03(対話-51) 自由主義、政治、アーレント

 最近の君との話がつまらないというわけではないんだが、前回の話なんか本来の議論からするとちょっとずれて来ているんじゃないのか?
 本来の議論ってなんだ?
 それは君がいちばん知ってることだろう。前回の小沢一郎の発言をめぐる話では、君は「投票で自分の意思を表わす」という現実から出発するしかないというようなことを言っていたが、そこになんらかの具体性を持った展望がないかぎり、現実追認にしかならないわけじゃないか。
 あれは政治的行動レベルの話だから、いまはあれ以上のことを言うつもりはないよ。それに俺としては小沢一郎に期待している部分も依然としてあるわけだし。
 俺が言ってるのは政治行動のプログラムの話じゃないよ。そうではなく、「投票で自分の意思を表わす」というようなことは、ハンナ・アーレント的な意味では政治的行為以前の話じゃないか。要するにまず、ありうべき政治のあり方が明らかにされないかぎり、プログラムさえ考えようがないということだよ。
 もちろんそれはそうなんだが、しかし考えてもみてくれよ。いまこの日本でありうべき政治のあり方を示すことができている人物がひとりでもいるかい? いたら教えてくれよ。もしいたら、その人物が書いた本はまちがいなくベストセラーになってるよ。つまり、いないんだよ。だいたいハンナ・アーレントが『人間の条件』(1958)や『革命について』(1963)で政治の概念にコペルニクス的転回をもたらすまでは、経済活動や社会活動と政治的行為の区別さえ忘れられていたわけだから。

 しかし、いま君が挙げたアーレントの本はベストセラーになっているのか?
 もちろんなっているよ。例えば光州事件以後の韓国とかベルリンの壁崩壊以後の東欧なんかでは、日本とは比較にならないぐらい読まれていたはずだよ。つまり政治的行為が、それまでシステムが許容していた次元を超えないかぎり一歩も前進できない、というところで猛然と読まれたということだよ。
 なるほどね。以前だったらローザ・ルクセンブルクやグラムシや毛沢東が読まれたはずのところで、それらに代わってアーレントが読まれたというわけだ。
 その通りだよ。いま君が挙げた人々はなんと言ってもマルクス主義者だからね。しかし東欧においては、統治権力自体がマルクス主義の理念を掲げていたわけだから、そうではないものが求められたわけだよ。そこで俄然注目されたのがハンナ・アーレントの政治思想だったということなんじゃないのか。それはハンナ・アーレントの「正しい」読まれ方とはちょっと違うような気がするけどな。
 しかし日本にはそういう状況はなかったんだと。
 そういうことだよ。しかし、冷戦体制が終わってアメリカ主導のグローバリゼーションが世界を席捲し、冷戦期特有のソフト・タイプの自由主義(修正資本主義)が、構造改革・規制廃止・競争促進・自己責任を旨とする市場中心型の新自由主義へと移行して行くなかで、例えばアンソニー・ギデンズ(トニー・ブレア英首相のブレーン)の「第三の道」のような行き方が押し出されて来たわけで、本当を言えば、いまほどハンナ・アーレントの政治思想が求められている状況はかつてなかったと言ってもいいんじゃないのか。10年を超える長期不況にあえぐ日本においては、本物の経済学理論に基づくマクロ安定化が求められているという特殊事情もあるわけだが、それだって多くの日本国民が市場中心の新自由主義に囚われ、ひたすら効率性と競争原理を唱え要求して行くなかでは、「治療」を受けること自体をみんなして拒絶しているというのが現状だろうからね。

 ホントだよな。財政政策にせよ金融政策にせよ、本来の政治とはまた別次元のものなんだろうが、少なくともそこにマクロ安定化という合意が生まれるためには、われわれ自身が生物的生命の維持を超えた公共領域において本来の議論を行なうとか、それに耳を傾けるという行為が不可欠なわけだからな。
 基本的にはそれは政府と日銀の職務放棄によっているんだけどね。国民がそれに関心がないんだったら、日銀が国債の買い切りをバンバンやって行って、財政再建とリフレ政策を同時推進すればいいものを、それさえやろうとしないんだからどうにもならないよ。市場に出まわっている国債を日銀が片っ端から買い切って行けば、その分の政府債務は文字通り「消えて」しまうというのにね。もちろんそれはインフレになった暁に国民のマネーの価値が目減りすることで「補填」されるわけだが、ともかくそれによって財政再建は進み、マネーは市場にじゃぶじゃぶ出て来て、こんなにいいことはないのに・・・。いまほど二兎(リフレ転換と財政再建)を追う絶好のチャンスはないというのにな。しかしまあいいや。こんなこといくら言ったって疲れるだけだよ。経済学やマクロ政策については、俺たちは外野のそのまた外野でしかないわけだし。
 しかし日銀当座預金だけは増やし続けているわけだろう? いまでは35兆円ぐらいかな? 日銀としては政府(小泉)の決断待ちという状況を造っているつもりなんじゃないのか?
 そうかもな。話を戻すと、いま問題にすべきは、実は新自由主義というより自由主義そのものなんじゃないかと思うわけだよ。思想としての自由主義の開祖はトマス・ホッブスとジョン・ロックなんだろうが、そういう大きな話ではなく(それはそれでいずれやるとして)、「人は自由で幸福な生活を営む権利がある」というような、日本国憲法の理念に代表される考え方のことだよ。それは「個人主義」とか「各人主義」と言った方が分かりやすいのかもしれないが、要するに自由や幸福は私的個人(各人)に帰属するもので、国家や政府はそれを最大限尊重すべきだというような、俗流アダム・スミス主義とでも言うべき考え方のことだよ。

 なるほど。しかしそういう考え方のどこが問題なんだ?
 俺がいま言った自由主義的な考え方の最近のバージョンが、ポストモダニズム的価値相対主義や多文化主義やPC(ポリティカル・コレクトネス)や「差異の政治」といった考え方だと思うが、俺としてはこれらすべてに対置されるのがハンナ・アーレント的な「政治の差異」だと思うわけだよ。どういうことかと言うと、例えば最近では大澤真幸や宮台真司といった社会学方面の論客たちがやたらと元気がいいわけだが、結局それは政治(領域)の衰退という現実に起因しているわけだよ。政治の衰退というのは、即ち社会領域の拡大・全面化ということでね。それは文化・価値領域の全面化にもつながっているだろう。
 なるほどね。要するにそれは、ある種の「被害者」や弱者や女性(?)や動物(??)や同性愛者などのマイノリティーの声に「正義」があるんだというような最近の風潮とも関係することだよね。
 まあね。いま君が言った現象は、自由主義の問題と言うよりも、世論の支配とかデモクラシーの病いとか言われるものにも関わるんだろうが、しかしそれも社会・文化・価値領域の全面化によるものであることは明らかだからね。要するに、これらすべては「人は自由で幸福な生活を営む権利がある」というような本来はミニマムでネガティヴな理念が、言論の領域(本来の政治領域)に進出して、これを覆ってしまっていることによっているわけだよ。これは歴史的にはハンナ・アーレントが『人間の条件』などでオイキア(家政)領域の社会化と呼んでいる過程に基づいているわけだが、このクソが味噌に取って代わってしまったような(^-^)現実を批判・相対化できるのは、政治(領域)の復権という方向しかないだろう。
 いまでは欧米でもハンナ・アーレントは一種のブームの様相を呈しているようだが、結局そういう状況への危機感から来ているんだろうね。
 そうだろうと思うよ。「差異の政治」ならぬ「政治の差異」によってしか、新たな次元における言論行為も、ひとびとの合意も生まれようがないということだよ。

 君はブッシュ政権下におけるネオコン的な発想の突出も、イスラムの極端な原理主義化も、「差異の政治」や多文化主義の一種だと考えているのかな?
 本当のことを言うと、俺は「差異の政治」についても多文化主義についても何にも知らないんだが(その手のものは読むつもりもないしね)、いまのネオコン的発想はクリントン政権時代の「ならず者国家」戦略の延長上にあるんだろうと思うよ。これは明らかに冷戦体制の終焉に伴なう、国際政治秩序や戦略の「見方」の転換から来ているわけだよ。ではそういう見方の転換は何によっているのかと言えば、アメリカの国民的国家的結集軸の再編成から来ているわけだが、結局それは冷戦型政治の無効化によっているわけでね。あのビンラディンだって、本来の敵はソ連だったわけじゃないか。そういう結集軸やイデオロギーや見方の再編に当たっては、やっぱりさっき言った社会・文化・価値領域が決定的な源泉になっていたはずなんでね。そういう意味では、君の質問に対しては「イエス」と言っていいだろうね。
 そうだよね。クリントンもブッシュも結局は同じ穴のムジナだということだよね。
 大きな意味ではそうだろう。そして彼らの考え方が依拠している理念は、「自由で幸福な生活を営む権利」を持つ「人間の尊厳」だということだよ。問題なのは、この「人間の尊厳」という理念が社会・文化・価値領域を源泉にしていることだよ。ホッブスもロックもアダム・スミスも、こういうような自由主義的理念の「動物化」(東浩紀)的尖鋭化と全面的社会化は想像もしなかったかもしれないわけだが。
 君はいま憲法に興味を持っているようだけど、そうすると、君の新憲法草案では自由主義の理念は否定されることになるのかな?
 もちろんそうはならないよ。どうしてかと言うと、自由主義は少なくともファシズムやスターリニズムに対する防波堤にはなりうるわけだから。それに俺だって私的(動物的)自由はなくちゃ困るからね。結局それは不可欠ではあってもミニマルな理念だということだよ。しかし、その話はまた改めてということにしようか。

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